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ヴァーグナー崇拝

ヴァーグナー崇拝


 ドイツのオペラ作曲家ヴァーグナーは,日本では「通」好みの作曲家の一人だ。

 彼はオペラを総合芸術とみなして,文学としても重視していた。

 芸術家にありがちな自由奔放な生活を送った人で,ベレー帽をかぶった横顔の肖像画で知られている。

 また,ほかの作曲家の彼に対する評価はどこの国でも高く,その才能は羨望の的であり,同時に乗り越えなければならない存在でもあった。

 それにしてもクラシックの啓蒙書で,なぜヴァーグナーなのかと思われるかもしれない。

 しかし彼こそが,日本人の初期のクラシック観を形成した人物なのだ。

 日本人にはヴァーグナー崇拝者が多い。

 ヴァーグナーだけ聴くという「通」も多い。

 ヴァーグナー上演で有名なバイロイト音楽祭は,日本人でいっぱいだという。

 全四作の「ニーベルングの指輪」は,一作づつ四夜に分けて上演するのだが,日本人には人気のレパートリーである。

 一作だけでも相当に長いので聴くのはたいへんだが,ファンは苦にしないようだ。

 しかしドイツ以外では,ヴァーグナーだけ聴くというクラシック愛好家は少ないだろう。

 ドイツ人でさえ,「ニーベルング・・・」を聴きにいくときは,がまんして聴いているのだそうだ。

 オペラを聴きつづけてきた私も,ヴァーグナーを聴くためには相当の忍耐がいるのだ。

 ヴァーグナーやブルックナー,マーラーは,日本人の「通」が最も評価している作曲家ではないだろうか。

 彼らにかかるとまるで聖人か宗教者扱いである。

 まず,三人に共通しているのは,曲が長いということだ。

 慣れない人が長大で重苦しいこれらの曲を味わえるようになるまでには,かなりの時間を要するだろう。

 修行のような訓練をへて,次第に彼らの音楽に恍惚感を覚えるようになり,彼らを神格化するようになる。

 余談だが,個人的には三人のなかではマーラーがいちばん聴きやすいと思う。

 初心者にはまず『交響曲第1番「巨人」』を聴くことから勧める。

 最初から『交響曲第2番「復活」』などのような,長い作品はやめたほうがいい。

 明治時代のヴァーグナーは,特別な存在だった。

 明治・大正期の音楽雑誌「音楽界」(楽界社),「音楽世界」(十字屋田中商店楽器部),「音楽」(共益商社楽器店)などを見ると,ヴァーグナーの記事が毎号必ずといっていいほど掲載されている。

 作品解説や美学上の問題など,さまざまな視点からいろいろな人たちが書いている。

 当時の知識人たちは,彼を紹介することを競い合っていたのである。

 たとえばMH生という人物(当時,雑誌に寄稿する人は,このようなイニシャルのペンネームをよく使っていた)は,1907年に「音楽世界」四月号の「ワグネル小伝」(ワグネルはヴァーグナーのこと)で,ヴァーグナーについて,「世に偉人なるものを挙ぐれば,吾人は只に楽界の偉人としてのみならで,人として偉大なるワグネルを挙げねばならぬのである」と語る。

 彼をまるで宗教者かなにかのように尊敬している様子がわかる。

 また,樂峯生という人物は1910年に「音楽界」五月号の「リヒャルト・ワグネルの音楽」という記事で,「凡そ芸術は言語と等しく,実に人間結合の一機関であって,従って進歩=幸福に対する人類前進行動の一機関であると思ふ・・・・」とし,さらに,芸術は善良なる感情をはたらかせるものだと断言したうえで,「惟ふにワグネルの大作品のごときは,又此事実の上に生まれ出でしならんか。余はここに,彼れの音楽がじつは善良なる芸術的運命を有するを信ずると共に,更に絶大なる芸術的作品なる事を賞賛し以て此稿を終わらんかな」と書いている。

 つまりヴァーグナー作品は,人間の進歩と幸福に不可欠な善なる感情を育てる芸術の根幹をつかさどるものだ,と手放しで絶賛しているのだ。

 「善=芸術」という単純なシェーマによってすべてをはかろうというのだから,いまの私たちにはとても理解しがたい。

 当時,ヴァーグナーはヨーロッパで絶大なる影響力があったから,渡欧していた日本人は影響を強く受けたにちがいない。

 彼らは当然その情報をもち帰っただろうが,クラシック後進国の日本では,神のような存在に感じられただろう。

 しかし,もしもその当時,ヴァーグナーでない別の作曲家がヨーロッパに君臨していたとすれば,日本のクラシック史はまったく別の道を歩いたのかもしれない。

 中村洪介「西洋の音,日本の耳」(春秋社,1987年)によると,「明治時代,殊に明治三十六年(1903年)をピークに,日本の文壇にきわめて強い影響を与えた奏正音楽家はリヒャルト・ヴァーグナーである」とある。

 中村によると,森鷗外が最も早くからヴァーグナーに関心を寄せていたようだ。

 その後,土井晩翠,島崎藤村,上田敏,永井荷風,石川啄木,田山花袋といった,錚々たる文人たちがあとに続いた。

 そして,日本人によるヴァーグナー支持を決定的にしたのは姉崎嘲風だった。

 前にもふれたが,当時の日本でオペラをまるごと上演することは困難だった。

 明治時代に東京帝国大学ワグネル会が「タンホイザー」の日本初演をあきらめてから十年後,1913年には「ヴァーグナー百年祭」が東京音楽学校奏楽堂でおこなわれている。

 しかし,このときもオペラのなかの抜粋ばかりが歌われた。

 文人たちの熱狂ぶりは,日本に「ヴァーグナー聴かずのヴァーグナー論者」を数多く生み出すことになったと中村はいう。

 ヴァーグナーはオペラ作曲家だが,マルチ舞台芸術人間でもあった。

 つまり本人はただの音楽家であるつもりは全くなかった。

 しかし残念なことに,当時の日本で完全なオペラ上演はできなかった。

 むろん,オペラのあらすじやその思想は雑誌に紹介されていた。

 ごく一部の文化人のなかには,ヨーロッパのオペラを観た人もいたが,大半の日本人はヴァーグナー作品を劇としてでなく,音楽として聴いていた。

 彼の本当の芸術にふれる機会はなかったのだ。

 もっとも,ヴァーグナーの作った歌のなかには,それだけで深く感動を与えるものも多い。

 たとえば「タンホイザー」のヴォルフラムの歌。

 メロディーは単純で,なにも高度なテクニックはない。

 しかししみじみとしていて飾りけがなく,それでいて繰り返し口ずさみたくなる。

 あるいは「ニーベルングの指輪」第二夜,「ヴァルキューレ」のジークムントの愛の歌。

 これは,双子の妹への許されざる愛がテーマなのだが,そのメロディは心を打つ。

 こういう歌を聴けば,とにかく長くて退屈なヴァーグナー作品への苦手意識が,少しは解消していくのではないだろうか。

 日本ではヴァーグナーのオペラが全編とおして演じられることはあまりないが,序曲だけとか部分的に聴く機会は多い。

 おそらくだれでも耳にしたことがあるはずだ。

 また,彼に関する書物は多く,世界中で彼に対する関心度がどれだけ高いかを物語っている。

 そして,いまでは彼の音楽は日本にすっかり根づいている。

 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲は,単独で演奏されることが多い。

 「ニーベルングの指輪」の「ヴァルキューレ」のテーマは,テレビのコマーシャルにもよく使われている。

 「ローエングリン」の婚礼の曲も,メンデルスゾーンのものと同様,だれでもよく知っている(しかし,ストーリーのなかで,この音楽は不吉な未来への前ぶれでもあり,結婚式の入場行進曲としてはふさわしくないにも思うのだが・・・・)。

 日本で親しまれているこれらの曲は,堂々として,勇壮で,輝かしく,品格がある。

 ヴァーグナーはおそらく独自の完全なる理想への上昇志向をもっていて,それを果たしてくれる英雄=神を音楽で描いたのだ。

 ところで,ヒトラーに愛されたヴァーグナーが反ユダヤ主義であり,ヴァーグナーの聖地であるバイロイトがまさにナチの牙城となったのは周知のとおりだ。

 ドイツ民族の血の誇りがヴァーグナーの音楽には表現されていて,そこがヒトラーに気に入られたのだ。

 当時の日本人にはそのような誇示された民族的アイデンティティーが,自分たちの理想であるように感じられたのだろう。

 二十世紀前半でドイツがたどった道を,日本もまた同じように歩いた。

 高揚していく国粋主義はだれにも止められず,ドイツも日本も,音楽をその手段の一つにした。

 長い間,ヴァーグナーは日本人にとって理想だった。

 「西洋音楽はすごいのだ」という意識が,当時のドイツがとっていた外交政策をますます正当化することになった。

 音楽には洗脳力があるし,国民を一つに束ねることができる。

 日本とドイツの侵略から破滅への道程は常に音楽とともにあった。

 このさい,ヴァーグナーのオペラのストーリーは置いておく。

 ヴァーグナーの音楽は崇高で,巨大な宇宙を築く。

 そしてその重厚な響きが,聴く人を圧倒する。

 たとえば「ヴァルキューレ」のテーマでは,トランペットの勇ましいメロディが重々しく突き抜けるように空間を支配し,深く心のなかに入ってくる。

 そしてそれは,英雄の誕生と将来の勝利を予感させ,「神の民族の勝利」へ向かうのである。

 それは「万世一系の現人神」が統べる国,日本と共通のものをもっているのかもしれない。

 日本人が,ヴァーグナーが表現したドイツ人の「血の誇り」に憧れてきたのも自然なことなのだ。


森佳子著「クラシックと日本人」(青弓社,2004年6月20日発行)より抜粋



【ジャズ・ヒロシの感想】

 明治というと,「富国強兵」,「文明開化」,「欧化政策」というような言葉が浮かぶが,長い間鎖国していた日本が西洋文明に触れ,その落差に驚嘆する?とともに,西洋への憧れ,西洋に追いつけ追いこせといった風潮とその時代が西洋では丁度ワーグナー全盛期であったため,わが国における明治のワーグナー・ブームといった現象が生まれたというわけです。

 しかし,明治にワーグナー・ブームがあったことは,この本を読んで初めて知ったが,「ヴァーグナー聴かずのヴァーグナー論者」を数多く生み出すことになったとは,実に珍妙な話である。

 まあ,数十年前に興ったマーラー・ブームとは全く異なった現象であるが,明治のワーグナー・ブームについては,「明治のワーグナー・ブーム近代日本の音楽移転 」(中公叢書)という本に書かれているようです。


 さて,「ほかの作曲家の彼に対する評価はどこの国でも高く,その才能は羨望の的であり,同時に乗り越えなければならない存在でもあった。」というように,作曲家であれば,誰もその影響から逃れることはできなかったといわれているほどの存在であったといわれ,作曲家にとって,乗り越えなければならない存在でもあったということは,今日の聴き手にとってもそれはいえるのではないかと,個人的には思う。

 この本にも書かれていますが,私もある時期,ワーグナーとブルックナーしか聴かないということもありました。

 しかしその後,マーラーを知って,レパートリーが拡大しましたので,それ以外の作曲家の曲も多く聴くようになりました。

 筆者は「通」が評価する三人の中では,マーラーがいちばん聴きやすいと書かれていますが,私はブルックナーだと思っていました。

 でもしかし,同じような長さのマーラーよりもブルックナーの方に退屈さを感じさせるといわれていますので,そういう意味では,筆者のいわれていることが正しいと思います。

 ところで,ヒトラーがワーグナーに心酔してたというが,それがいかほどのものであったか,ということについて,歴史のサイド・ストーリーとして興味があるというような趣旨のことを,日本政治思想史の研究家だった丸山眞男氏はいっていたようです。

 因みに,丸山氏は,クラシック音楽にも造詣が深く,否定的であったワーグナーであったが,バイロイトで「ローエングリン」を聴いて,恥ずかしいことに,いっぺんにワーグナーにいかれちゃったという趣旨のこともいっていたといわれています。

 まあしかし,初心者にとっては,ワーグナーは難しい存在ではありますが,これだけクラシックが大衆化した今日,全く手の届かない存在ではなくなったのも事実だと思います。

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日本於けるワーグナーの受容の話を興味深く読みました。

ところで私はなんといってもブルックナーですね。マーラーは面白いとは思いますが、好んで聴くことはあまりなく、何回も聴こうとは思いません。ワーグナーは、凄いとは思いますが聴くことはめったにありません。いずれも長いだけに、好みがはっきり分かれるのではないでしょうか。私の知っている人でも三者三様、かなり性格も違うようです。
またワーグナーは実際に上演を見ると虜になることは実感できます。私も昔大阪にバイロイトが来た時行って「トリスタンとイゾルデ」を見ました、好き嫌いを超越して、大いに感動しました。でも丸山氏のようにはいかれませんでしたが・・・。
結局最後は、趣味と感覚による好みの問題でしょうか。

尚たまたまFC2ブログでブルックナーを取り上げましたので、よろしかったら御覧下さい。

2019/5/11(土) 午後 5:45 [ hotaka_tatsuru ]

hotaka_tatsuruさん

コメントをありがとうございました。

FC2ブログのブルックナーを拝読させていただきました。

ご存じの通りブルックナーの交響曲は,様々な版があったり,また,演奏による相違にもより,新たな発見といったものがあるので,私も楽しませていただいております。

趣味は自分の世界なので,どう好みを持とうとも自由であり,誰もこれを犯す権利はないものと考えます。

その上で,私の場合は,三者三様というよりも,それぞれの音楽の素晴しさをより深く知ることを追求するというスタンスなので,その順位のような見方はしていません。

とはいえ,「結局最後は、趣味と感覚による好みの問題でしょうか。」に,帰結するという点では,同感です。

2019/5/12(日) 午前 11:59 [ ジャズ・ヒロシ ]


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