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音楽随想

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音楽を聴く

音楽を聴く

 ワタクシの音楽体験に基づき,主として音楽を聴くということを中心として,思いつくままに述べてみたいと思います。

 音楽を聴くといっても,音楽の演奏行為がなければ,それを聴くことができないのは,いうまでもありませんが,もしこの世に音楽というものがなかったら,私たちの社会はどういう社会となっていただろうか,と思うのですが,それを想像することは,簡単ではないように思います。

 確かに,この世に音楽がなくても,人は生きていけるのでしょう。食べ物などの衣食住や空気などの自然環境があればですが,このため,人間にとって音楽は,生きていく上でのプライオリティは,比較的高いものとはいえないのだろうと思います。

 しかし,今日,老若男女,誰しもが何らかの音楽を聴き,生活に取り入れている現実があります。

 こういう事態となっているのは,歴史的にみれば,ごく最近で,とりわけ戦後を通じて,大量生産時代を迎えたことが,そのときの過去からして,一番の広がりとなったように思います。

 それは現在まで継承され,ありとあらゆる音楽が巷に溢れ,何でもアリという様相を呈しております。

 したがって,音楽は今日,人々の生活に欠かせないものとなっているわけですが,このような状況は,時代を遡れば遡るほど,考えられなかったものと思います。

 歴史的には,音楽はそれぞれの国や地域において人びとのいるところ全てに生まれたものと思いますが,最初は人の声を中心に発生したわけでしょう。

 これが社会の発展とともに,人の声のみならず,楽器や記譜というものが新たに出てくるようになったわけですが,人の声や楽器による演奏から生まれた音楽を記録する楽譜というものも音楽の発展に大きく寄与したものと思われます。

 とりわけ,近年の西洋地域において,音楽の大きな発展があったことは,歴史的にみて,誰しもそれを否定することはできないものと思います。

 そういう西洋音楽のルーツといわれているグレゴリア聖歌は,単旋律というごくシンプルな音楽であったといわれております。

 これが時代の推移とともに,その単旋律に尾ひれ(装飾音)を付けたりして,次第に複雑化していったようです。

 歴史的には,中世〜ルネッサンス〜バロック〜古典というように,音楽のスタイルの変遷があり,今日に至ってるわけですが,ワタクシたちが学校で習った音楽は,バロック期に調性が確立されたといわれる調性音楽,即ち,ハ長調とかハ短調とかいう音楽であるわけです。

 従って,そういう音楽に馴致された耳にとって,ルネッサンス以前及び無調の音楽には,感覚的な違和感,及びそれから生じる嫌悪感があると思われる。

 ということは,古典音楽〜ロマン派までの流れにある音楽が一番親しみやすいといえるので,もしも,クラシック音楽でも聴いてみようという向きには,参考にしていただけたらと思う。

 また,この時期の音楽の音感を根底とした音楽が,今日,大多数が受け入れているポピュラー音楽だと思う。

 とはいえ,一般大衆の誰もがベートーヴェンやメンデルスゾーンといった作曲家の音楽に親しめるかといえば,そうではない現実がある。

 同じ音感であるのに,どうしてそういう乖離があるのか,様々な要因があると思われるが,一つには,音楽の複雑さというものがあると思う。

 これは音楽に転調とかいうものもあるが,基本的には多くの声部(多声)と複数の旋律の並走(対位法)が伴うからだ。

 この構成は,基本的に第二次大戦までの西洋音楽の文脈にある音楽と何ら変わりないと思う。

 従って,こういう音楽を聴くには,複眼的な耳が要求される。要するに,聴き手は,音のコーディネーター的対応が必要となってくるわけだが,これは何回も聴き,こういう音楽に慣れることが大切となる。

 こうして全ての音が捉えられて聴けるようになると,ポピュラー音楽を聴くのとは全くちがった圧倒的な音楽の感銘度,精神的なエクスタシーのようなものが得られるというわけです。

 まあ,比較的聴きやすい古典派とロマン派の音楽を経て,次第に聴き手にとって困難な音楽となっていく傾向がある西洋音楽ですので,それを飛び越えて,後期ロマン派の複雑さを極めたような音楽を最初に聴いては,挫折するかもしれません。

 さて,一般的なそのような音感が多くの人にある以上,そういう音感に直ちに対応できないモダン・ジャズ(以後,「ジャズ」と表現)も,別な意味で人気があるとはいえ,マイナーな音楽となってしまっていることは,クラシックと同様,いたしかたないところです。

 もう少し平たくいうと,これまで自分が聴いてきた音楽の文脈と異なる音楽だと違和感を抱き,拒否する傾向がでてくるということだと思います。

 例えばジャズでは,歌(声)がないとか,奇妙な音のソロ演奏があるとかが,その要因になっているものと思われます。

 ジャズも最初は,ソロとバッキングというように,比較的単純な演奏形態に始まり,各奏者が自由で対等に演奏を繰り広げるというインタープレイというスタイルに発展し,おまけにフリー・ジャズなどという聴き手にとっては,聴くに困難な演奏も生じてきたように思います。

 それでも,多くのジャズにドラムスがあるので,ロックを聴いてこられた向きにとって,一番違和感のないところで,ジャズを身近に感じられるということがあるのではないかと,推察するのですが,ここにジャズがクラシックよりも人気がある要因の一つだと思うのだけれども,どんなもんでしょうか。

 一般にクラシックの場合は,作曲家が交響曲第1番というように作品を書き上げ,それを演奏家が作品を土台にして,自分の感性により演奏するというスタイルをとっていますが,ジャズの場合は,元々作品に相当するものがないので,個々のミュージシャンによる演奏自体が注目される。

 このため,ドラムスがカッコイイとかベースがカッコイイというような評価もあるわけです。

 クラシックの場合は,ソロ演奏は別として,オケを伴う曲のような場合は,指揮ぶりだとか,オケ全体の音などが関心になり,一般的には,オケの個々の奏者の演奏にカッコよさを求めて聴かれる向きは,少ないと思います。

 勿論,オケの個々の奏者の出来具合は,どうでもいいということをいおうとしているわけではありません。

 こうしてみると,ジャズとクラシックというのは,同じ音楽でありながら,ずいぶん違うなぁと思います。

 とはいえ,ジャズを聴く場合も,各奏者間の連携とか,インスパイアされるものなど,あるわけですから,全体を把握して聴かないことには,楽しみ方の一つの側面を失うことになります。

 ジャズは元々作品を演奏する音楽ではないので,クラシックのように,何調とかいうものはありません。

 あるとすれば,個々の奏者がある調性でやってたり,無調でやってたりというようなことだと思います。

 従って,ジャズは各奏者間の緊張関係により成立している音楽であるともいえます。

 勿論,ジャズにはアンサンブルのような演奏もありますが,それはジャズという音楽がもっている本質的なものではないと思います。

 ところで,こういう楽器間にある緊張関係の演奏であるジャズに耳慣れた向きは,クラシックの調性音楽よりも,どちらかというと,無調十二音音楽のような各音の緊張関係で成立している音楽と親和性?があるのではないかと思っています。

 というのも,ジャズを聴くようになってから,無調の音楽にさほど違和感を抱かなくなったからです。

 十二音音楽というと,えらく難しい音楽のように思われると思いますが,ひとたびそういう音楽に慣れてしまえば,そう思っていたことが不思議なくらいになってしまいます。

 音楽とは,そういうものではないでしょうか。ジャズもそう,要は慣れることしかありません。慣れるには,慣れるまで聴くしかありません。それができなければ,ジャズやクラシックを楽しむことができません,分かりきったことですが。

 まあ,闇雲に聴けばいいというものでもないと思いますが,集中力と根気がいるということではないかと思います。

 しかし,聴くということは,たとえそれが分からなくても,聴いたことによる記憶というのが蓄積されますので,全く無駄となることはありません。

 それがないと,聴くたびに記憶がリセットされてしまい,それこそ一発勝負となって,ファンの数が心もとなくなってしまうでしょう。

 また,この手の音楽が厄介なのは,物質的に捉えられないため,全てを記憶するのが困難であるということもあります。

 だから,そこに新たな発見というようなことにもなるわけで,音楽の深さを感じるとともに,アキがこない要因だともいえるわけです。

 この点,クラシックの場合は,ある作品を様々な演奏家が演奏することにより,その作品に色々な光が投げかけられ,演奏の違いとともに,作品の深さとかを感じ味わうということがあります。

 ジャズの場合は,マイルスやコルトレーンの演奏記録であるレコードやCDなどが作品に相当し,それを各人の再生装置で十人十色の音で聴くという,いわば聴き手が演奏者のような役割を担っているともいえるわけです。

 だから,ジャズの場合は,どういう音で聴くか,ということが聴き手の耳の次に重要となってきます。

 勿論,クラシックだって,再生音楽であれば,そのてんは同じことだと思いますが,ジャズでは,レコード盤のオリジナルへのこだわりといったものが,それと関係しているのかもしれません。

 以上,推敲もせずに思いつくままに書いてみましたが,ブログを十年以上もやってると,同じことをまたいってら,なんてことにもなりかねません。そこが心配でもあり,「ジャズは終わった」じゃありませんが,何も新しいものが出てこないというのが,今のトレンド?と同じかなぁと,自虐史観に陥っております(笑)

 まあ,ちょっと,読み直してみましたが,内容はザックリとした話しばかりで,もっと書かなきゃイカンということに気がつきましたが,これをやってるとキリがありませんので,この辺で,お開きとさせていただきます。


 クラシック音楽を愛し,長年聴いてきた私から,あえて苦言を呈したい。
 というのも,ナクソスというレーベルが公表しているクラシックのダウンロード・ランキングTOP50についてだが,まず,その中身は,以下のとおりとなっている。
 ダウンロードがどれだけあったのかは,わからないが,とにかく,クラシックの門外漢は,クラシックといえば,このような曲を聴こうとする傾向があるようだ。
 ある職場の友人は,私にバーバーのアダージョとか,ショパンの幻想即興曲のコピーを求めてきたことがあった。
 そのときは,ジャズばかりでなく,クラシックにも興味があるのかと思ったが,特に苦言は呈しなかった。
 確かに,TOP50にある曲は,耳当たりのいいものばかりだが,こればかり聴いていては,クラシック音楽の「凄い」と思える核心に触れることはできない。
 TOP50は,コアなクラシック・ファンが対象とする世界ではないのだ。
 とはいえ,「ワーグナーやブルックナー,マーラーなどの大曲を聴け!」といっても,そう簡単ではないが・・・・
 まあ,私の「独断と偏見,思い込み」でいわせていただくと,前にも書いたことだが,これからジャズやクラシックでも聴いてみようという向きは,自分がそれまで聴いてきた音楽が,強いて言えば,どれもが1回聴けば,「ああいいな」と思える音楽ばかり(それ以外に考えられない)であった。その上で,ジャズやクラシックを聴こうとする時に,これまでそういう音楽を聴いてきた感覚でもって,(理解が求められる音楽だと思っていない,というかそれが意識されていない)聴けると思い込んでいるものだから,これから「ジャズでも聴いてみようか」というのは,ジャズがどういう音楽であるか,知らないのは仕方ないにしても,「でも」というところに,その安易さを感じてしまう。
 それは,近頃,いたるところでジャズがBGMとして流されていることもあって,一般に身近な音楽として感じられているせいもあるのかも知れない。
 また,ジャズは大衆に非常に魅力のある音楽だと思われているフシがあり,このことも,「ジャズでも聴いてみようか」ということにつながっているところもあるのだろう。
 一方,クラシックのほうはどうかといえば,一般に「堅苦しい音楽」として思い込まれているため,ジャズほど魅力あるものとは思われていないようなので,ジャズとは状況が違う。
 クラシックは,コンサート会場内で,演奏中は,煎餅を食べたり,レジ袋をガサガサさせたりという雑音や,貧乏ゆすりなど,他人が音楽に集中しているときに,それに影響を及ぼす行為は,禁じられている,というか,会場内にそれが掲示されているということはないが,エチケットとして,聴きに来る者は,当然のことながら,そのことをわかっている。
 つまり,息を潜め,体もじっとさせて聴くということが,堅苦しいという印象になっているのだろうと思われる。
 しかし,中には大きな鼾をかいている御仁もおられたが(笑)
 それは,何もクラシックに限らず,かつてのジャズ喫茶でも「私語禁止」というのもあったのだから,クラシックだけそういわれるのは,どうかと思う。
 まあ,エヴァンスの「ワルツ・フォー・デビイ」なんかは,会話や食器などの音があって,ザワザワ,ガサガサという中での演奏だから,ジャズを聴きにきているのかどうか測りかねる。
 クラシックは,コンサートのような生演奏ばかりが音楽としてあるというものではないので,自宅で自由に聴いてもいられる音楽なのであるから,堅苦しくていやだという向きは,LPCDなどで聴けばいいのである。
 まあ,私には「堅苦しくていやだ」というのは,クラシックに対するエキスキューズだと思う。
 だから,そもそも自分が理解できないくせに,それを棚に上げて,クラシックに対する審判を下す,というのは,クラシックに対する冒涜ということになる。
 かつては,ジャズの友人が私に,「クラシックは,もう過去の音楽だ」といったのもそのことと無関係ではない。
 50〜60年代のコアなモダン・ジャズだって,今となっては,過去の音楽だともいえる。
 しかし,それは歴史的な意味での過去であって,クラシック音楽が今でも多くのファンに聴かれているように,ジャズだってそうだ。
 このように,お互い過去の音楽であるにしても,歴史に耐えうる音楽として聴かれているのだから,そのことをよくわかっていれば,おのずと互いリスペクトしてもいいはずだ。
 私なんかは,家でクラシックを聴いているときは,ときに,身振り,手ぶり,体を動かし,時には踊ったり,声を上げたり,という具合に,自由に振る舞っているから,コンサートは堅苦しいと思っている(笑)
 さて,「こんなものばかり聴いてちゃダメだ!」というテーマから,だいぶ脱線したが,以前,クラシックは老人が聴く音楽だということを書いたことがある。
 海外のコンサートもその多くが年配の人ばかりだという印象もあるので,そういうことはいえると思う。
 しかし,それは,老人になったら聴く音楽だという意味ではないことも申し上げた。
 ジャズもどちらかというと,そういう傾向にあると思われる。
 勿論,若い人が一人もいないということではないが,とにかく若者は,すぐさま飛びつける音楽に夢中となっているという印象だ。
 ところで,一時期,定年を迎えたら,その後の人生を何か趣味でもみつけて送った方がいいということがいわれていたことがあった。
 ところが,会社人間だった人が,今まで趣味というものがなく,定年を迎えたからといって,趣味をもつといっても,果たしてそれができるのか,ということもいわれていた。
 定年後,クラシック音楽を聴く(鑑賞する)趣味をもとうとするのは,結構だが,老人が聴く音楽だからといって,老人になれば分かるというものでもない。
 老人になれば分かる音楽だったら,今や日本の社会,団塊の世代で溢れているのだから,クラシック・ファンがそれに伴って沢山いる,というわけでもあるまい。
 私は,中学2年生の頃からクラシック音楽を聴き始めて,ン十年も経つが,ジャズを聴いてきた年月と比べ,はるかに長い。
 しかし,その頃と今とでは,月とスッポンというほどの鑑賞力の違いがある。一言でいえば,音楽の聴こえ方が変わってくるということなのだが,それは,恰も演奏家が晩年になって円熟してくるということに,相似している。
 勿論,プロの演奏家とでは,次元の違う話ではあるが,同じ「分かる」という言葉にしても,その内容が当時と比べものにならないほどのもので,その分かり方に違いがでてくるのであります。
 つまり,表層的な分かり方からより深く音楽を受け止められるようになるわけだが,これで全て分かったということでないのは,いうまでもないことです。
 その推移に長い年月を要したということであり,その結果が,老人が聴いている現象を生んでいるということなのです。
 このことは,ジャズもそういう音楽だといえるので,20年聴いたくらいでは,まだまだのような気がします。
 だから,定年になって,ジャズやクラシックを聴き始めるのも結構だが,その差を埋めるには,容易ではない。寸暇を惜しんで聴かなければならないかも知れない(笑)
 私はジャズにも感動するが,それよりも遥かに長く聴いてきたクラシックの方に,当然のことながら,より深く感動する。
 それはジャズよりもクラシックの方が上だという意味ではなく,それだけ年月を要した違いだということです。
 ジャズを35年も聴いてきた方がおられますが,おそらく私よりもジャズに深く感動されているのではないかと思っています。
 さて,単に年月を要すればいいというだけのものでもなく,そこには,音楽の集中度や聴く音楽の質ということもあります。
 つまり,TOP50を聴くのも結構だが,これはクラシックにハマる端緒にしか過ぎず,これでクラシックの醍醐味が味わえると思ったら,間違いだ。
 音楽に感動するということは,様々な意味(内容)があるが,そこで鳴り響いている音の一つ一つを聴き分け,把握するということが,音楽鑑賞の最低限求められる条件だが,それができるようになるには,簡単そうで,そうでもない。
 私はジャズを聴き始めた頃は,ピアノ・トリオで,ピアノとベースとドラムスを同時に聴くことが難しかった。
 勿論,今ではそうではないが,ロックなどの音楽から入られた方は,そうではないのかも知れない。
 しかし,そうやって音楽が聴けるようになるには,ある程度の訓練が伴う。今ではシンフォニーに限らず,多声的な音楽の音の把握は,殆どできるようになったが,その時の,感銘度は,言葉に尽くせないほどのものがある。
 ということは,耳は音を聴けるが,その全ては聴いているようで聴いていないこともあるということなのです。
 それにはどうすればいいのか,音楽を聴く感性があるとか無いとかというステレオ・タイプの思考ではなく,感性は磨くものだと理解すべきなのです。
 まあ,誰もが分かるようなTOP50ばかり聴いていたのでは,自分の感性の範囲内で聴ける音楽に留まり,決して感性を磨くことは難しい,という意味で,冒頭のタイトルとしましたが,自分が聴いて分からない音楽があったとすれば,素直にそれを理解する感性がないと認め,それが分かるような感性が欲しければ,分かるまで聴けばいいだけのことなのです。
 そうして,感性が磨かれたことによって,今まで聴いてきた音楽も違った角度で聴くことができるようになるため,そこに新たな発見があり,理解が深まるというわけなのです。
 これをするかしないかで,鑑賞力の差がついてしまいますので,分からない音楽に出会ったら,感性を磨くチャンスだと,ポジティブ・シンキングすればいいわけです。
 まあ,ジャズだったら,例えば,コルトレーンの「トランジッション」あたりを目標にする(初心者は,「ハイ,さようなら」かもしれませんが 笑)とか,自分の目標を定めるのもいいかも知れません。
 おそらく,ジャズやクラシックの聴き手巧者は,そういう努力を日々重ねていることだと思います。
 以上,長々と書きましたが,これまでの私の持論に,何の新しさもありませんが,これからも,持論を展開していきたいと思っています。


 えっ,「お前の高踏的な上から目線には,頭に来てるんだよ!」?

 そぉんなぁ〜つもりは,全くございません。
 そう思われたら,お許しを〜〜!
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 クラシック音楽を聴いていると,どうしても音楽の発展史観というものを感じざるを得ないような印象を与えられる。
 つまり,単純さから複雑さというように。しかし,実際はそうではないのかも知れないが,私自身そういう印象を持っていました。
 だから前の音楽よりも後の方の音楽の方が優れている,といった思い込みがあり,その発展の先にあった十二音音楽というものがどんなに素晴らしいものであるか,という期待を抱いていました。
 実は,私がクラシック音楽を聴き始めてまだ年月が浅かった頃,アルバン・ベルクの室内協奏曲やシェーンベルクの管楽五重奏曲をレコードで聴いたことがありましたが,それについて,無調とか十二音とかいうものについての認識はなく,勿論,それらの曲を理解できるものでもなかったのです。
 その後年,十二音音楽へのそのような幻想を抱いて聴いた曲が,アルバン・ベルクのヴァイオリン協奏曲でした。
 しかし,その思惑に反して,砂を噛む思いをさせられたという記憶があります。
 だから,シェーンベルクやベルクのような曲は,暫く,鑑賞外に置いてました。
 その後,どうしても,昔,聴いたシェーンベルクの管楽五重奏曲を,何とかものにしたいという熱意から,今から十五年くらい前だったか,CD化されたものをゲットしてチャレンジしてみました。
 しかし,全くそれがチンプンカンプンで,そんなには甘くはなかった。実際,どう聴けばよいのか,大きな壁を感じました。とても手に負えるものではないと実感したのです。
 しかし,何回も聴いていくうちに,やっと分るようになってきました。今では,そんなことが嘘のように聴けるようになりましたが,これが自分にとって初めて分かるようになった最初の十二音の音楽でした。
 実は,これがシェーンベルクの曲中では,演奏の難曲であり,聴くにも相当な難曲であったとされていることは,知りませんでした。
 おかげで,この曲に親しめるようになったことによって,シェーンベルクの弦楽四重奏曲も,さほど困難を伴うことなく,聴けるようにもなりました。
 因みに,この曲を分かりかけていた頃,最初に,オーケストラ曲の低音の動きが,不思議と意識させられるようになりました。(低音がよく分かるようになる)
 また,この曲がよく分かるようになってからは,オーケストラ曲の各楽器(群)がよく聴こえるようになったというか,音の把握が,より一層容易になったという効用もあって,これまで聴いてきた曲の構造的なものを把握することが,これまで以上に可能となったので,より深い感動が得られるようにもなりました。
 それとともに,調性が確立される前の,多声的なルネッサンスの音楽にも対応できるようになっていたということも,気付かされたことでした。
 さて,この曲は各楽器の奏する動機(音楽を構成する要素のうち,独立性を保持しうる最小の単位)のようなものが,次々と立ち現れ,時には5つの楽器が位相を異にして?同時進行的にもたち現れたりするため,その5つの楽器が奏する動機を全て把握しないと分からないところがあり,聴き手にはかなりの集中力が要求されます。
 まあ,一回や二回聴いたくらいでは,全く分からないという曲なので,最初のうちは,よくゲーム・センターにあるモグラ叩きをしているようなものになりました。
 つまり,次から次へと顔を出すモグラに翻弄されて,あっちに目(耳)が行ったり,こっちに目(耳)が行ったり,とにきは,5つ全部顔を出すといったようにもなるという,まさにモグラ叩きの音楽という感でした。(笑)
 それが一つの音楽理念?というものに集約して聴かれるようになりますと,5つの楽器の全軍躍動するさまに,これまでになかった感動が得られるようになったのです。
 一般に無調の音楽,とりわけ十二音音楽は,中心音のない音楽といわれておりますが,これに対する調性のある音楽,たとえばマーラーのシンフォニーのような複雑な曲でも,中心となるモチーフがあって,それが様々な楽器や楽器群に受け渡されたり,また新たなモチーフが併存的に出現するなどはしても,調性に耳慣れた我々からすれば,それほど違和感を抱くことなく聴けるわけです。
 ところが,無調の音楽というのは,我々がよく耳にするポップスとは程遠く,馴染みのないものだから,どう聴いてよいのか困惑することになります。
 しかし,音楽には統一感というものがないと,音楽として成立しないわけですから,無調十二音音楽にもその統一感というものがあるわけです。
 この管楽五重奏曲の場合で申しますと,各楽器の奏する音(次々と立ち現れる音)相互の緊張関係というものの中に,その統一感が得られるということなのです。
 その緊張関係において,いわばバーチャル的な統一感?(音楽理念といいましたが)とでもいいましょうか,調性音楽(調性による統一)にはない統一感が聴いて得られれば,理解されるということになります。
 正直申しまして,この曲は容易ならざる曲だったので,一時はもうムリと,諦めかけたこともありました。
 因みに,この管楽五重奏曲は,今ではひょっとすると,シェーンベルクの最高傑作ではないかとさえ思えるのです。
 さて,この管楽五重奏曲は,4楽章編成で,各楽章10分程度の約40分という長い曲ですので,これを一度に通して聴くのは,シンドイし,まして,それを何回も聴くなど,とてもできないと思います。
 だから,最初の第1楽章のみを何回も聴いて,それが分かると,あとの楽章も分かりますので,この曲の攻略法は,これがオススメです。
 因みに,第2楽章の途中,一瞬,マーラーの第4交響曲第2楽章を彷彿とさせる箇所があり,マーラーとシェーンベルクの結びつき(師弟関係)を思わせないではありません。
 というわけで,ブーレーズの第2ソナタとともに,この管楽五重奏曲も,座右の書ならぬ,座右の曲となっておりますが,ピアノ曲のピアノの音の把握については,今のところ,ブーレーズの第2ソナタが,自分としては,最右翼となっており,この左右非対称の音楽も実に難しいところがありました。
 なお,私の音楽体験(4)で,音楽鑑賞の第2の革命のきっかけとなった曲が,この管楽五重奏曲であります。


えっ,なに,「モグラ叩きだったら,得意」だって?
そぉぉんなぁ〜〜


Schoenberg Quintet fur Blaser Op. 26
 この曲は1924年に作曲され,シェーンベルクが十二音技法で作曲した曲の中では,初期のものとされています。
 楽器編成は,フルート(一部ピッコロ),オーボエ,クラリネット,ホルン,ファゴットの各1本となっております。
 このアルバムに関しては,作曲家の柴田南雄氏による,「ヴィーン管楽ゾリステンのシェーンベルク」という記事(1976年〜77年にかけての「レコード芸術」誌からのエッセイの一つ)があります。
 記事によりますと,これまでの管楽五重奏曲の演奏は,シェーンベルク作品の中でもとりわけ砂を噛むようなものばかりだった。
 その上,お互い合わせにくい難曲なので,海外の音楽祭でも,滅多にプログラムに上らない曲であった。
 このため,管楽五重奏曲はシェーンベルクの作品中では一番陽の目をみるのが遅かった。
 また,シェーンベルクのその他の曲については,これまで名盤が出揃っていたのに,この曲だけは,演奏の決定打を欠いていた。
 それは,シェーンベルクの譜面を手にしてはじめのうちは発想記号や標語など見てはいる余裕はなく,音符を拾うのがやっとであり,それを古典派・ロマン派のスタイルで何とか一曲の終わりまで漕ぎつけるのが精一杯,という時代がかなり長く続いたことにもよるが,管楽五重奏曲が,新たな演奏様式の洗礼からとり残された理由の一つには,管楽器奏者たち一般の音楽観というものを除外することはできず,前衛的な作風への対処は,特別な例外はあるにしても,何といっても作曲家兼指揮者の場合がもっとも早く,ついでピアニスト,弦楽器奏者,管のうちフルート奏者,打楽器奏者で,おそいのが一般の木管金管奏者という,およそこの順序と考えてよいと書かれています。
 なるほど,とても興味深い話ですが,前衛音楽の演奏に,そのような序列があるとは知りませんでした。しかし,管楽器奏者たちがこのことを聞いたら,不愉快な思いをされるかも知れませんね。(笑)
 おそらく,柴田氏は前衛を張っていた作曲家だから,自作の初演に立ち会ったときの印象もあって,その見識となっているのでしょうか。
 また,この「ヴィーナー・ゾリステンのシェーンベルクはまったく名演というに値する演奏だ。この曲がこんなにエネルギッシュに躍動的に,自由自在に表出されたことはなかった。力いっぱい吹き上げる爽快なホルンの響きや,ファゴットのユーモアや,クラリネットの憂愁や,オーボエの思索,フルートの自由自在な羽搏きとともに鳴り響いたことは,かつてなかった。その果てに,フィナーレのコーダで五つの楽器から噴出する音の奔流は眩くばかりに渦まき,官能美の極致を現出し,曲はハタと終わる。」と結ばれていますが,流石作曲家ならではの耳のよさですね。敬服しております(笑)


I.Schwungvoll

II.Anmutig und eiter; scherzando

III.Etwas langsam

IV.Rondo


ViennaWind Soloists

Schoenberg:Wind Quintet op.26 I. Schwungvoll


Schoenberg:Wind Quintet op.26 II. Anmutig und heiter, Scherzando


Schoenberg:Wind Quintet op.26 III. Etwas langsam


Schoenberg:Wind Quintet op.26 IV. Rondo


SchoenbergWind Quintet op. 26 (Kavcic, Lonquich, Bocalari, Monte, Mallee)

renaKavcic, Flute

TommasoLonquich, Clarinet

JorgeMonte de Fez, French Horn

AlexandreJosé Bocalari, Oboe

AmberMallee, Bassoon

I.0:00

II.9:45

III.19:16

IV.29:00

Recordedlive in Auditorio Sony, Escuela Superior de Musica Reina Sofia(Madrid) in 2010


 私はクラシック音楽を聴き始めた頃は,ワーグナーの音楽を理解するのは,とても難しく思っていましたが,それだからこそ,何とかものにしたいという欲求は人一倍?ありました。
 その頃のワーグナーに対するイメージとして,拙ブログ「音楽の理解とマーラー」に書いたとおり,「ドイツ観念論(ヘーゲルやカントなど?)という難解な哲学の音楽版であり,音楽の思弁哲学であるかの如く感じていました。」というわけですが,音楽自体,オペラのストーリーの展開によって,楽想がコロコロ変わるというように,とてもついていけないところがありました。
 そんな中,1970年代のいつ頃だったか,二期会がワーグナーをやるということを知り,まだまだ確たるものがないのに,とりあえず?,これは何としても聴きに行かねばならないと義務的に?思って,ワーグナーのオペラ「さまよえるオランダ人」,「タンホイザー」,「ヴァルキューレ」を観に行ったことがありました。
 最後の「ヴァルキューレ」は,当時としては,その前二者よりも難しいと感じていましたので,本番前は,レコードで予習して臨みました。
 ヴァルキューレはレコードだと,確か4枚組だったと思いますが,4×2で8面ということになります。
 その1面ずつ何回もかけて順次クリアしていきました。
 そんなことして聴きに行ったせいか,あ,ここで1枚目のA面が終わったといように,それぞれのレコードの面の区切りにくると,それを思い出してしまったという弊害?がありました(笑)
 もう古い話なので,記憶が定かでありませんが,当時は,日本人にワーグナーが歌えるか,とまでいわれていたこともありましたので,確かウォータンを歌った人が,途中で,しどろもどろとなってしまったのには,他人事ながら,ハラハラ,ドキドキしてしまいました。
 何しろこちらは,カラヤン・ベルリンフィルによる完璧な演奏で,耳を鍛えて行きましたから,そういう所はすぐにわかってしまったのです。
 このヴァルキューレの第1幕のところで,互いに知らない兄妹が,初めて出会う場面があり,その出会う瞬間に演奏されるオケの音が,まるでお互いがピンとくる心のときめきを描いたものだということがそのときわかりました。
 これは,レコードで聴いていてはわからないことで,そういう演出をした人は凄いなと思いました。
 さて,ワーグナーは音楽ばかりでなく,そこで語られていることが,対訳を見ても何を言っているのかよくわからないという難しさもありました。
 というわけで,言葉の理解はとりあえずスルーすることにして,音楽のみに集中して(対訳を見ながら聴くことはせずに)聴いていました。
 音楽としては,劇の推移によって音楽も変わるので,その展開についていくことは,転調ばかりの音楽を聴くようで,簡単ではありませんでした。
 この点に関して,先の「音楽の理解とマーラー」において,マーラー自身が「種々雑多な方角から,さまざまなテーマがやって来るはずだ。てんでんばらばらなリズムとメロディーで(ただの多声やポリフォニーに身をやつしたホモフォニーなどとはまったく別物だ)。ただしそれに秩序と統一を与えて調和した声と響きの全体を作りあげるのが芸術家だ。」と語っていたことを書きましたが,そういうマーラーの音楽に慣れたことによって,ある意味,てんでんばらばらともとれるようなワーグナーの音楽にも感覚的に対応できるようになったわけですが,そんなマーラーの音楽がワーグナー理解への格好の音楽となったというわけです。
 その結果,ワーグナーの音楽が,従来の声に対するオケの伴奏という構図によるものではなく,声をオケの一つの楽器として捉え,聴かれることによって,初めて理解される端緒となったわけです。
 因みに,ワーグナーの音楽は,声楽付きのシンフォニーだという意味のことをシェーンベルクが語っていたということがあとでわかり,合点がいきました。
 従って,ワーグナーのオペラ(楽劇という言葉は,本人は使わなかったといわれている)は,音楽的アプローチだけによっても分かることができるわけですが,周知のように,綜合芸術といわれるワーグナーの音楽は,音楽のみならず,文学や演劇などを統合したものとされておりますので,その先があるわけです。
 例えば,先に書きましたヴァルキューレにおける兄妹の出会いとその音楽の一致は,劇を見ずに,音楽だけでは知ることが難しいということがありました。
 また例えば,同じヴァルキューレの最後の場面では,父親と娘との永遠の別れが描かれており,劇の内容を知らずに,音楽だけ聴いても実に感動的で美しいわけです。
 ところが,自分の娘との永遠の別れとなる心境に立ってこれを聴くと,もう感動どころか,胃の中がひっくり返って中身が出てしまうほどの衝撃が走ってしまったのです。
 実に切々といいますか,その心境をオケも雄弁に語っているのが感じられるわけです。
 また,「トリスタンとイゾルデ」というオペラの第2幕では,前半の,真にお互い好きで好きでしょうがないほどの男女が歓喜の出会いをしている場面もそういう気持ちになって聴くと,これも凄いことになるし,後半では,イゾルデに裏切られ,落胆している男の語る場面の音楽は,実に鬱々としていて,よくぞまあ,そういう心境を表しているなぁと,ワーグナーの毒にやられてしまいます(笑)
 第3幕で,イゾルデとの再会をいつかいつかと待ち続けているトリスタンが,イゾルデが来た知らせを受けたときに,その喜びを木管楽器のソロによって奏されるところがあります。
 これは誠に個人的な体験ですが,心底ある女性が好きになって,出会ったとき,心が躍るようにときめいたことがありました。そのとき,このトリスタンの木管によるソロが,それを描いたと直感しました。そういう体験がなかったら,そのようには聴こえないと思います。
 以上のようなことを踏まえると,ワーグナーの音楽は心理描写だといわれていることがよくわかります。
 この点,ヴェルディとかプッチーニのようなイタリア・オペラは,感情を主として,声によってストレートに表現されるが,ワーグナーの場合は,交響的な響きそのものが感情的なものを表しているという違いがあります。
 だから,ワーグナーを聴くには,劇の内容や何を語っているかをよく理解しないといけませんし,自身,心躍るような人生体験もないと,より深い感動も難しいというところがあるような気がします。
 そういう意味では,ワーグナーの音楽は,何が表現されてるか,ということがわかり,何を表しているのかわからないという絶対音楽のような抽象性の高いものと比べ,分かりやすい音楽だともいえるわけです。
 しかし,ワーグナーの音楽といいましたが,綜合芸術ということですので,ワーグナーの芸術といった方が適切なのかも知れません。
 例えば,「ジークフリート」というオペラの中で,二人が問答する場面があります。
 問答では,自分の知識がどれほどあるかを,相手に自己顕示するような問を発する人物が描かれており,その後,相手から自分が本当に知りたいことを訊かれ,答えに窮し狼狽するというストーリーなのですが,相手から,あなたは自分自身に必要な知りたいことを訊かなかったといわれ,それが相手の予言により将来自身の命取りとなったというものです。
 どうでしょうか,自分に本当に必要なことは何かを考えずに,自分の知識や教養をひけらかすような人は,結局のところ,人生の大切なものを失うということであり,世間の俗物を描いたともいえるわけですが,これはワーグナーの哲学的なところでもあり,正にニーチェ的でもあります。
 というように,ワーグナーの芸術には,そのような哲学的側面もあるので,汲めども尽きない深さがあると思います。
 このヴァルキューレやジークフリートというオペラは,「ニーベルンクの指輪」というワーグナーが創作した4部のオペラの各部分ですが,世界支配のための愛の断念とか愛による救済といったテーマがあります。
 余談になりますが,ワーグナーに心酔したといわれるアドルフ・ヒトラーは,ベルリン陥落の際,自殺する前日にエヴァ・ブラウンと結婚式を挙げたという話は,有名でありますが,これは「ニーベルンクの指輪」のテーマとなっている世界支配のためには,愛を断念しなければならないという命題から導き出されたものだということがわかります。
 また,拙ブログ「五味一刀斎 ブルックナーを斬る」のところで,「明けても暮れてもブルックナー」というエッセイの中に,五味氏がブルックナーはユダヤ人だといっていましたが,これは間違いだと思います。
 ワーグナーは反ユダヤで,そのことがヒトラーの共感を呼んだということもありますが,ブルックナーはワーグナーを尊崇しており,その二人は生前に交流があり,また,「ヒトラーはワーグナーやベートーヴェン同様,ブルックナーも愛し,彼はその胸像の前で脱帽したといわれている。」と森佳子氏の「クラシックと日本人」という本の中に書かれているからです。
 さて,ワーグナーは生前,大衆に人気のあったロッシーニやマイヤベーアのようなオペラを目指したとされています。
 それは大衆受けする流行音楽のようなものを書けば,その収入からしても生活が楽になり,贅沢もできると考えたからでしょう,事実,彼はお金もないのに借金まみれの贅沢な生活を送っていたようですから。
 それはオペラ「リエンツィ」を聴けば,昭和歌謡のように聴けるところがあって,うなずけるのですが,次作「さまよえるオランダ人」に至っては,難解な後期の作風も感じさせるところがあり,次第に大衆離れとなるオペラばかりを創作したのは何故か,という素朴な疑問があります。
 しかし,彼を救ったのは,ルートヴィヒⅡ世というパトロンがいたことですが,そのため,国家財政の危機を招いたともいわれたほど,ワーグナーへの財政支援は大きく,バイロイト祝祭劇場の建立まで実現したのは,後世にとってよかったことだと思います。
 しかし,第二次大戦によりドイツのオペラ劇場やコンサート・ホールなどが破壊されたが,バイロイト祝祭劇場が破壊から逃れたのは,何よりでした。
 そんなワーグナーのメッカである年1回開催されるバイロイト音楽祭の切符はなかなか手に入らないようで,あの小泉純一郎は,首相時に,西独首相からバイロイトに招待され,「タンホイザー」を聴いたというのだから,幸せ者といえるが,ご本人は,それだけのことは勿論わかっていらっしゃるのでしょうね(笑)


音楽の理解とマーラー

 中学生の頃,ワーグナーを聴かされて,「あ,これはあなたには,分からない。」といわれたことは,拙ブログで何回も書きました。
 ワーグナーは,確かに難しい。聴いていて,イヤになる。というのが一般的な印象だと思われる。
 その昔,オーディオの友人宅に行き,ワーグナーをかけた。そのとき,友人の奥さんが,「やめてよ!」と怒りを込めて怒られた。
 こりゃ,やばい所へ来てしまったなと,そのとき思った。
 ジャズでは、「聴かせちゃいけない阿部薫」だが,クラシックじゃ「聴かせちゃいけないワーグナー」といったところだろうか。
 だから,我が家では,この二人の音楽は滅多にかけない(笑)
 誤解を招くといけないので,そのことを書くが,ある方に,「ワーグナーは難しかった」といったことがあった。
 その方は,「へぇ,どうして(それが分からないの)?」というように,怪訝な顔をされた。
 話をしていくと,どうやら,その方は,ワーグナーというと地獄の黙示録で使われた,ワーグナーの「ヴァルキューレの騎行」とか有名な序曲や前奏曲などをイメージされてそう思ったらしい。
 そういう曲は,一部の聴きやすい箇所?であって,それをもってワーグナーが分かったとはいえない。
 オペラの序曲や前奏曲に続く幕開け後,延々と続く声とオケの奏するドラマに親しめなくては,ワーグナーが分かったとはいえない。
 その昔,ワーグナーの音楽は,ドイツ観念論(ヘーゲルやカントなど?)という難解な哲学の音楽版であり,音楽の思弁哲学であるかの如く感じていました。
 どうやって,あの朗唱風の歌唱を理解したらいいか,中高生の頃,毎年開催されているバイロイト音楽祭の録音放送(今でも暮れになると流されているようです)を真剣に聴いていましたが,どうにも分からなかった。
 やがて,就職して1年か2年経った頃だったか,ある生命保険会社に新入社員として雇用されたふたりの人が研修で職場訪問を何回かされたことがあった。
 そのうちの一人の人が,クラシックを趣味としていたらしく,当然その話題となったのだが,ある時,ワーグナーが難しいと思っているのですがどうですかと訊いたことがあった。
 その人は,全然難しくないというようなそぶりだった。
 しかし私は,そのことが内心信じられない気持ちだった。勿論,そんなことは(本当に分かるの?と)口には出しませんでしたが。
 やがて,マーラーとの出会いがあり,最初は難解だったマーラーの音楽にも慣れ,ワーグナーの音楽も以前ほど難しいと感じなかった自分がありました。
 勿論,それだけではなく,今まで自分が聴いてきた曲から,以前にも増して,感銘を受けるようになっていたことに気がついたのです。
 まあ,端的にいいますと,バロック音楽を含め,J.S.バッハ以降R・シュトラウスあたりまでの主として19世紀を中心とする音楽に対して,新たな視座で聴くことができるようになったといえることなのでした。
 これはある意味,自分の中に革命が起きたといえることで,正しくマーラーの音楽は,そういう意味で,メタ・ミュージックだったわけです。
 さて,ワーグナーが何故難しかったかについてですが,それは,まだまだ,そこまで鑑賞力がついていなかったから,なんてことをいっちゃったら,それま〜で〜よ〜♪。(笑)
 つまり,自分が最初に聴いてきた昭和歌謡やアメリカン・ポップスなどは,歌の旋律を主体とし,オケはその伴奏となっている音楽で,こういう音楽ばかり聴いてきたことにより,歌と伴奏という構図の音楽に慣れ親しんでいたことが,無意識のうちに,自然と音楽を聴く態度をつくっていた(先入観)ことが,その原因にあったというわけです。
 しかし,ワーグナーの音楽はヴォーカル入りでも「歌と伴奏」という構図ばかりでないので,それを自分の慣れ親しんだ態度でもって,聴こうとしても無理だったのです。
 それには,そうした鑑賞態度をあらためなくてはなりません。といったって,どうしたらいいか,簡単に態度を切り替えるなんて器用なことはできません。
 そこに登場したのが,マーラーのシンフォニーだったのです。
 自分がクラシックに目覚めた頃は,マーラー・ブームではなかったので,マーラーといえば,もっぱら第1番と第4番のシンフォニーが聴かれたように思います。
 しかし,この二つのシンフォニーが過去長らく演奏されていたにもかかわらず,マーラー・ブームが起きなかったのは,大衆にとってマーラーの本当の素晴しさが分からなかったからではないでしょうか。
 自分自身,以前にも書きましたが,心踊り,完全燃焼となったのは,第3番や第5番を聴くようになってからで,その結果,第1番や第4番の素晴しさも分かるようになったという経緯がありました。
 とりわけ,20世紀になって作曲された純器楽による第5番及び第6番と第7番の3曲が重要で,これの理解なくして,マーラーの素晴しさは分からない。
 そうしたマーラーのシンフォニーとはどういう音楽なのか,クルト・ブラウコプフという人が書いた「マーラー 未来の同時代者」(1974年11月22日発行 ,白水社)という本を参考に,要約と引用を交え,その一部を紹介してみたい。
 19世紀作曲家の大半,及び20世紀作曲家の多くは,オーケストラ作品をピアノによりスケッチしており,マーラーもその例外ではなかった。
 だからベートーヴェンのシンフォニーは,リストによるピアノ版があるように,ピアノ演奏が可能なのである。
 しかし,マーラーは第5番以降のシンフォニーは,ピアノではなしに,オーケストラ精神と技法に則り,スケッチが作成された。
 この点,マーラーは,自身相談を受けたある作曲家に対し「あなたはピアノをふり捨てねばなりません! (あなたの曲は)どれもこれもオーケストラ曲とはいえません。― みんなピアノのために書かれたものばかりです・・・・。」といっている。
 20世紀におけるシンフォニーの歴史の開幕とされたこれら3つの曲は,いまだかつてその例を見ないポリフォニーの形成とオーケストラのピアノからの最終的解放といわれ,その新しいポリフォニーは,錯綜した雑声構造となった。
 その錯綜した雑声構造は,押し合い,引き合い,溶け合いつつ,しかもつねにあらたに煽り立つ諸声部の流れという特徴をもち,それはあたかも美術におけるコラージュと一脈通じる性格をもち,このいわば音のコラージュの中で,様々な色彩の流れが一つの交響的全体を形成してゆくように思われる。
 なお,ウィキペディアによれば,コラージュとは現代絵画の技法の1つで,フランス語の「糊付け」を意味する言葉である。通常の描画法によってではなく,ありとあらゆる性質とロジックのばらばらの素材(新聞の切り抜き,壁紙,書類,雑多な物体など)を組み合わせることとある。
 従って,素材の一つ一つに,存在感があり,旋律的には副次的な機能に限定されるようなことはめったに起こらないのが,マーラーの新しいポリフォニーの音楽なのである。
 だから,聴き手は素材であるモチーフの一つ一つを疎かにしては,楽曲全体を把握することができず,それだけに集中力が要求されるのが,マーラーのシンフォニーなのである。
 こういう音楽が生まれたことについて,1900年の夏の出来事として,マーラー自身こういっている。


 友人たちと森を散歩していると,村の祭りに出くわした。回転木馬やぶらんこ,射的場や人形芝居などから聞こえてくる手回しオルガンの響きのなかへ,軍楽隊の合奏や男たちの合唱がもつれこみ,しかもそれぞれがみな同じ森の草地のうえで「相手かまわず信じられないようなすさまじい音楽をやって」いた。(中略)「聞こえるか? あれがポリフォニーだ。私がそれを手に入れたのはこういうところからだ! まだほんの子供だったころ,イーグラウの森でそいつを聞き,異様な感動と感銘を受けたものだ。いまやっている騒ぎのなかだろうと,千羽の鳥のさえずりのなかだろうと,吹きすさぶあらしのなかだろうと,波の音,火の燃える音,なんであれ,そこから聞こえるものに変わりはない。これとまったく同じように,種々雑多な方角から,さまざまなテーマがやって来るはずだ。てんでんばらばらなリズムとメロディーで(ただの多声やポリフォニーに身をやつしたホモフォニーなどとはまったく別物だ)。ただしそれに秩序と統一を与えて調和した声と響きの全体を作りあげるのが芸術家だ。」


 このようなマーラーのシンフォニーの細部を漏らさずに聴けるようになる(集中力が養われる)と,ワーグナーの曲を含めたこれまでのオーケストラ曲の細部にも耳が行き届き,新たな感銘が得られるようになるというのが,私のこれまでの主張なのであります。
 さて,著者は,第5番〜第7番までのシンフォニーの交響的ポリフォニー(多層的音響コラージュ)を把握するには,19世紀的コンサートホールでは,明確さと効果を失い,不十分であり,「これらの交響曲が聴衆を獲得するには,新しいコンサートホールの出現と,いやそれ以上に,現実的空間条件に比較的左右されることの少ない電気的録音装置の開発を待たねばならない。」といっている。
 さらに筆者は,そのようなマーラーのシンフォニーの要求にこたえられるのは,なま演奏ではなく,ミキサーの手を経て綜合されるステレオ・レコーディングである。第5交響曲〜第7交響曲はレコードによって救済されたといえるだろう。しかし,マーラーは,これらの作品を操作された想像上の空間のために構想したのではないが,電気的音響操作や畜音の可能性まで予想できなかったとしても,そうした可変的音響空間を夢みていた。この意味でもマーラーは未来の同時代者だったといっています。
 どうでしょうか,マーラーのシンフォニー全集版が多くの演奏者の手によって出揃った1970年代は,オーディオ技術が目覚ましい発展を遂げ,マーラーを受け入れる環境が揃った,と同時にマーラー・ブームも興ったというのは,偶然ではなく,正に必然的な出来事だったといえそうです。

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