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ジャズの地方作家
現在のジャズにいちばん欠けているものはなにか。それはきっと,直接”土” に結びついた生活に違いない。 そういうと,人はすぐに,いうところのファンキー・ジャズなるものを引っ張り出してくるだろう。ファンキーとは”土”的なもののことではなかったのか。確かにそれはそのとおりだ。いわゆるファンキーな演奏からは,土のにおいがぷんぷん立ち昇ってくるのが感じられる。しかし,それはあくまでも土のにおいであって,土と結びついた生活はそこにはない。 今日われわれがその名を知っているジャズメンは,中央出たると地方出たるとを問わず,とにかく一応都会に生まれたか,都会で育ったかしたものが大部分である。そしてプロの世界へ足を突っこんでからのミュージシャンといえば,これはもう仕事の手順からいって,どうしても都市生活者たらざるを得ない。いったい,昼日中を自分のアパートや旅先のホテルで過ごし,夜になるとクラブへ出かけて行ってジャズを演奏する彼らの生活のどこに,”土”のはいり込む隙があるというのか。実生活にそれを求めることができないからこそ,彼らはジャズの中でそれを身につけようと,一生懸命なのではないか。 ”土”はすべての生命力の根源,そこを離れて本来の生命はあり得ない。とすれば都会での暮らしにはほんとうの意味での生命はないわけである。そして,生命のないところに生活はない。都会の生活はすべて借り物である。彼らは,自分たちに失われている生命を,奪回しようとする努力 ーー その努力から生まれるエネルギーを,第二の生命力として生きているのだ。つまり,自分たち本来の生命によって生きる代わりに,生命をめざして生きているのだといえよう。都会生活の逆説である。 まさに同じ理屈によって,本質的に都会生活者であるジャズメンの手で演奏されるジャズは,生命に達しようとしてつねに求心的な方向へとむかう。これに対して,生命そのものから発する遠心的な方向のジャズはないものだろうか。そういうジャズがあるとすれば,それには当然ミュージシャンの生活が素直に反映しているはずである。
しかしそのためには,ミュージシャン自身の生活が借り物であってはなんにもならない。とすれば,ここに,都会の塵を離れて片田舎に育ったジャズメンの付け込む余地がありはしないだろうか。彼らにはなんといっても,土地そのものに密着したホンモノの生活がある。それを端的に歌い上げることによって,土地柄と結びついたその地方独特のカラーに彩られたジャズを生み出すことができるに違いない。文学にフォークナーやコールドウェルのような地方性をもった作家がいるように,ジャズの地方作家がいてもいいはずである。
そしてまさにそのような道を歩むことによって,今日のモダン・ジャズ界にユニークな地位を獲得したのが,ピアニスト兼作曲家のモーズ・アリスンなのである。その彼が,自分の故郷ミシシッピー州デルタ地方の片田舎の風物をテーマにして,長年のあいだに書きためた小品十曲を「バック・カントリー組曲」にまとめている。彼の地方作家的な特質を知るうえで,これ以上都合のいいレコードはない。そこでこの演奏を聴きながら,どんなところにその特徴が出ているかを考えてみよう。
「バック・カントリー組曲」
ジャズに何かを描写する力があるかどうか,これはなかなかやっかいな問題である。たとえば,遊んでいる子供の姿を描いた曲を演奏する場合を考えてみよう。まずテーマが一コーラス。なるほど,子供らしいはしゃいだ気分がよく出ている。ところが次のコーラスへ入ってソロが始まると,もういけない。バックにそれらしきアンサンブルをつけてみたところで同じこと。いくらペン(編曲)が描写に成功したとしても,肝心のインプロヴィゼーション(即興演奏)のほうがそれを裏切ってしまうからである。もともと,一つのものを発展させて行くインプロヴィゼーションの機能に,描写を期待すること自体がおかしいのだ。
ところがさて,「バック・カントリー組曲」を聴いてみての印象は,それがいかにも見事な描写音楽として成功しているということである。アリスンが書いた部分(作曲)だけがそうなのではない。演奏自体が彼の素材として選んだ故郷の風物を,あまりにも巧みに表現しているのである。
アリスンがそういう表現に達したのは,作曲と演奏のあいだを無限に近づけた結果である。つまり,まず曲を作って,次にそれを展開して行くという手順の代わりに,インプロヴァイズしながら曲を作っていったのだ。したがって,いずれの場合にも,テーマとインプロヴィゼーションが実にスムーズにつながっていて,ちょっと聴いたのではどこまでが書かれたもので,どこからがアドリブなのか分からない。
もちろんそうした操作の結果として,インプロヴィゼーションの展開という機能は当然落ちてくる。ソロが発展しないとなると,演奏は言うだけのことをいってしまえばそれでお終いである。十曲が十曲とも,演奏時間にして一,二分というスケッチふうな小品になったのは,そのせいなのだ。
以下順次曲を追って,その内容を紹介してゆこう。
1 新しい大地
デルタ農民の希望を,今はやりのゴスペル調にのせて表現したファンキー・ナンバー。ベースのイントロが気がきいている。
2 ミシシッピーの汽車
汽車ポッポの嫌いな子供はいない。これはグリーンウッドからチャールストンへ北上する汽車(その途中にあるティポーという寒村に彼は生まれた)を表したもの。
3 あたたかい夜
ころは晩春? そぞろ歩きにいいようだ。
4 ブルース
昔は若者にも力はあったものだが,今じゃ金持ちの年長者にみんなとられちゃって駄目さ・・・・という若者の失恋を歌った,フォーク・ブルースふうの自作曲。ここで彼はあの「ララミー牧場」の爺やホーギー・カーマイクルそっくりな歌声をきかせている。
5 土曜がきた
世界中どこの国へ行っても,土曜日の午後は楽しい。これもファンキーな演奏。
6 かけまわる子供たち
元気に遊びたわむれる,田舎の子供たちの薄汚れてはいるが,いかにも健康な姿が眼にうかぶ。
7 一月は寒い
荒涼とした原野には人影一つない。しかしそれを見つめる詩人アリスンの眼には,豊かな詩情がこもっている。
8 約束された土地
神によって約束された希望の土地。それへの感謝と祈りをこめたスピリチュアルふうの好ナンバーである。
9 春の歌
彼がミシシッピー大学にいた1945年十八歳のときに書いた曲。いかにもみずみずしい。
10 ハイウェイ四九
彼の生まれたティポーの近くを通るハイウェイを描写したもの。
【ジャズ・ヒロシの感想】
モーズ・アリスンは,何をモース・アリスンか。筆者によれば,「生命そのものから発する遠心的な方向のジャズ」という。
それは,土地そのものに密着したホンモノの生活を端的に歌い上げることによって,土地柄と結びついたその地方独特のカラーに彩られたジャズを生み出したというのが,モーズ・アリスンであり,故郷ミシシッピー州デルタ地方の片田舎の風物をテーマにして,長年のあいだに書きためた小品十曲を「バック・カントリー組曲」にまとめたというわけだが,モーズ・アリスンがそういうジャズマンだったとは,知らなかった。
このアルバムはジャケットで記憶があったけれども,何故だかわからないが,一度聴いて,4曲目の♪Young Man ♪というヴォイス?でもう生理的に受け付けなくなった。 笑 アルバムは,現在どこにあるかわからないので,確認できないけれども10曲の他に5曲(全15曲)あるようです。
さて,音源は手元にはありませんでしたが,YouTubeで聴くことができました。
全部で15曲といっても,どれもが短い演奏ばかりで,トータル40分ほどのアルバムでした。
10曲までは,解説を見ながら,なるほどと思いながら聴きました。
しかし,4曲目の♪Young Man ♪で,悪夢が蘇り?(笑)ましたが,全体としては,非常に聴きやすかった。 まあ,これはジャズに,「ジャズ・ロック」というのがあるくらいだから,モーズ・アリソンのジャズは,さしづめ「ジャズ・カントリー」ということになるだろうか?
しかし,そういうジャズのジャンルがあるのかどうか知らないが,モーズ・アリソンなんてのは,マイナーな存在で,ジャズ・ファンの間では,どの程度知られている,というか,聴かれているのかな〜と,思いますけど,あなたは,アリソンのアルバムをお持ちですか。
「モーズ・アリソン? アリソンで,ナサソンで,うっふん。」
えっ!?
MoseAllison (Usa, 1957) - Back Country Suite (Full) |
モダン・ジャズ鑑賞(相倉久人)
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ブラザー・ソウル
レコード会社と専属契約を結んでいるアーティストが,他社へ吹き込む場合には,特別の承認を得ない限り,原則として本名を使うことは許されない。たまたま,そういうケースにぶつかったとき,ミルト・ジャクスンは”ブラザー・ソウル”という変名を用いた。編曲者のクインシー・ジョーンズが考えたニックネームである。”ソウルの兄弟”とは,いかにも綽名作りの名人クインシーらしい,ミルトの特質を巧みにとらえた名前のつけ方ではないか。ソウルという言葉は,まさにこの男のためにあるのだ,という人さえいるくらいなのだから。
「一緒にレコーディングをしたあと,いや,ただ単に二人で話をしただけのあとだって,ミルトに去られるのはなんともいえずイヤなものです。ソウルそのものずばりが,ぼくの前から歩み去って行くのを見たくはありません。彼はいつまでも,ぼくの”ブラザー・ソウル” であることでしょう・・・・」
これはクインシーが英国のジャズ評論家レイモンド・ホリックスへ贈った手紙の一節なのだが,これを見てもクインシーのミルトに対する打ち込み方がわかるだろう。とにかく大へんな惚れこみようだが,クインシーが彼を尊ぶ気持ちはよく分かる。それは,ソウル派のジャズが発生段階にあって意識的努力をつづけていたとき,つまり,素肌としてのソウルが基本的なヴァイタリティを獲得できずにいた時代に,ミルトがすでに泉のような生命力をたたえたソウルをもっていて,奔放自在なソウルの表現に成功していたことに対する,同時代人としての驚きが原因であろう。
ただし,誤解のないように断わっておくが,ミルトは人に先んじてソウルの発生段階を乗り越えて,ここに達したのではない。彼は最初から,終始一貫して同じ道を歩んできたのだ。そうして,ミルトにそのようなひと筋道をたどることができたのは,彼が根っからのプレイヤー・オンリーンであって,一度も開拓者的野心を燃やしたことがないからである。彼はいつも音楽を流れ出るにまかせていて,それによって何かを作ろうということがない。
普通,われわれが誰かの音楽を論じようという場合,問題にする点は三つある。才能と環境と方法だ。もう少し細かくいえば,”天から授かったもの”と ”まわりから得たもの” を ”どのようにして”発展させたかというのが,最も一般的な問いの出し方である。ところが,ミルトの場合には,才能と環境だけがあって,方法がないのである。したがって,ミルトの音楽には,発展もなければ行きづまりもない。要するに問題がないのだ。これでは扱いにくくて仕方がない。この文にかかる前に,ぼくはホリックスの書いた「ミルト・ジャクスン/ブラザー・ソウル」という論文に目を通してみたが,次から次へとエピソードを連ねて,ミルトのソウルがいかに大きいかを,繰り返しているだけなのを発見して,いささかおかしくなった。ただし,エピソードが多いから,ミルトの人柄を知る上では大いに参考になった。
彼は興のおもむくままに,喋り,歌い,ピアノを弾き,ギターをかかえ,マレットを握り,そして作曲する。それらすべてを,彼は例の流出にまかせる独特のやり方で処理し,けっしてこれを刈り取ろうとはしないのだ。再びソウルの図式に戻っていえば,方法をもたないということは表現過程ではほとんどなにも手を加えない,ということである。したがって素肌のソウルは,ほとんどそのままのかたちで出てくるわけである。その意味では,彼の態度は,ブルースの先祖の中にあったハラーやシャウトの精神に近い。それでいて,ミルトの演奏に荒れた臭味がないのは,素肌のソウルそのものがなめされた皮だからである。
ところで,開拓者精神の旺盛な人間には,この流れるにまかせてあるソウルの泉が,大きな誘惑なのではないだろうか。ミルトが放っておくのなら,オレがあれを使って何かを作ってやろう,という気を起こさせやすいのは確かだ。モダン・ジャズ四重奏団(MJQ)と彼との関係を,そういう目で眺めてみるとおもしろい。ジョン・ルイスは,MJQのブレインとして,四重奏団の音楽的構成に強い統制力をふるっている。そのために,ミルトの自由なイマジネーションの展開がさまたげられている,という非難をよくきく。しかし,ルイスは,そんなことは百も承知のうえで,あのような行き方をとっているのではないだろうか。そもそも,あれを思いついたのは,方法をもたない音楽家ミルト・ジャクスンという存在を知って,それに枠をはめてみたいものだと考えたのが,そのきっかけではなかったか。MJQのレパートリーにブルースが少ないのはルイスがブルースを嫌っているからではなくて,ブルースを最も得意とするミルトのことを計算に入れてのことではないのか。事実また,ミルトに代わって,もっとテイル・コートやボウ・タイが似合う,ヴァイブ奏者を連れてきたMJQというものを,頭の中に描いて見たまえ。まったくのサロン音楽に堕して,およそジャズ的なスリルに欠ける演奏しか期待できないに違いない。
クインシーのミルトに対する強い愛着の中にも,同じ下心がひそんでいることは確かであろう。そして,同じホリックス宛の手紙の中で,クインシーが,ミルトにいちばん適した環境は半恒久的なジャム・セッション・ユニットだと述べたのちに,「ところが,ミルトはその卓越したフィーリングと才能のすべてを,MJQに順応させてしまいました ーー そういう幸運に恵まれたところをみると,ジョン・ルイスにはよほどツキが回っていたのでしょう」と付け加えるとき,そこに,ルイスの占有に対するクインシーの嫉妬を見てとるのは,無理というものであろうか。
ところで,まわりじゅうのミュージシャン仲間が,眼の色を変えて大騒ぎする”ソウル”を,ミルトはどのようにして自分のものにしたのか。もちろんその大もとは彼自身の内部にあるのだろう。彼が天から授かったソウルがどんなものであったかは,誰にも知ることのできない秘密である。しかし,そのソウルを後天的に育てた力については,われわれにも知る術がある。ミルトはそのような力を,二つの大きな源泉から得ていたようである。その第一は,いうまでもなくブルースだ。
そしてもう一つは,彼が所属していたChurchof God in Christの教会音楽である。この派は,数多いキリスト教の会派中でも,最も音楽に依存する度合いの強い一派なのだ。このことに関して,ミルト自身はこういっている。
「ソウルは本や研究によってつかむことのできるようなものではない。私の場合には,私がずっと大きくなるまで通っていた教会で,聴いたり感じたりした音楽の影響が最も強いと信じている。それは開放的で,リラックスしており,即興的なものだった ーー つまり,魂(ソウル)の音楽だったのだ。」
【ジャズ・ヒロシの感想】
今回は,ミルト・ジャクソン,ミナイト・ナオソン,聴かねば・ソリャ〜ソン。 笑
ソウルという言葉は,だいぶ前に誰かが好きな音楽は何かと,人に訊いて,ソウルとこたえていたやりとりをTVか何かで聞いたことがあった。
わたくしは,ほとんど偏った音楽しか聴いてこなかったので,ソウルだ,レゲエだ,ノイズだなんていわれても,全く何のことだかもしらないし,そういうものを聴こうとも毫も思っていなかったから,ソウルと聞いて,韓国ソウルの音楽かと思ったことがあった。笑
しかし,ソウル・ミュージックという言葉があり,ウィキペディアで調べてミルト,「1950年代から1960年代の初期にかけて,アメリカにおいてアフリカ系アメリカ人のゴスペルとブルースから発展してきた音楽の体系である。R&B,あるいはロックンロールといった黒人由来の音楽がポピュラー・ミュージックとして広く認知され,広範囲にわたって発展・拡大した1960年代,その頃のスタイルをさしてソウル・ミュージックと自然発生的に呼ばれるようになった。ソウル・ミュージックは大衆音楽であり,流行歌でもある。
ゴスペル由来のコード進行,たたみかけるような覚えやすいリズム,コールアンドレスポンス,即興の多用などの特徴がある。
R&Bや,1970年代から1980年代に使われたブラック・コンテンポラリーという言葉で表現された音楽との間で明瞭な境界は存在せず,レコード店の什器の区分やセールスチャートなど音楽のジャンル分けにおいてもソウル/R&Bなどのように同一のものとして扱われることが多い。1990年代に,歌ものを指して再びR&Bという言葉が使われるようになった。」
とあるが,ゴスペルとブルースから発展してきた音楽の体系には,ジャズも含まれる?のかな〜と,素朴な疑問しかないし,ソウル・ミュージックなるものは,ほとんど耳にしたことがない。
相倉氏のいっているソウルとは,このソウル・ミュージックと関係あるのかないのかも分からない。
関係あるにしても,ソウル・ミュージック自体知らないのだから,ソウルと書かれていてもピンとこない。
それとも,それとは関係なく,「魂(ソウル)の音楽だったのだ。」ということは,黒人の魂を意味し,それは白人や黄色人の魂とは,同じ魂でありながら違う魂なのか,どうにも分からない。
最初のところで,「ソウルはジャズの魂だ。ソウルのないジャズはジャズではない。ソウルはまた黒人のものである。したがって黒人たちの演奏する今日のソウル・ジャズこそ,ジャズの中のジャズなのだ・・・・」というソウル談義があったようですが,誰がどういう調子で,どういう気持ちから発したことかは,分かりませんが,何かそういう主張が,かつてのジャズ・フリークの間でかわされたもののようにも思えないでもない。
いや,そういうことは,よくあったことなんだろうと,想像する。だから,昔のジャズ喫茶のようなところは,敷居が高くて近寄れないという感じがしたのかな〜と思う。
いま,そういうジャズ仲間で,こんな調子で言う輩がいたら,どうなんだろうかと思ってしまう。
さて,想像するには,ソウル・ミュージックとジャズのソウルとは,もしかして同じなのかも知れない。
だとしても,ソウル・ミュージックを知っているわけでもないので,ミルトのソウルといっても正直ピンとこない。
まあ,ご本人がそう言っているのだからそうなのだろう。しかし,それを言葉にかえて頭で考えようとするから,分からないのかも知れない。
音楽というものは波動で,それに自分の心が響動できるかどうかが問題であるので,素直にミルトに感動できれば,それがソウルなんだと思えばいいのかも知れない。
しかしまあ,ミルトがソウルだとして,その点,ほかのジャズマンは,それぞれどうなんだろうと,素朴に思ってしまう。 笑 |
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ジャズに物差しはない
ソウル談義が盛んなのは大いに結構だが,論理的な裏づけのない,ムード的表現がやたらに幅をきかせているのは困りものだ。たとえばこんな調子である。
「ソウルはジャズの魂だ。ソウルのないジャズはジャズではない。ソウルはまた黒人のものである。したがって黒人たちの演奏する今日のソウル・ジャズこそ,ジャズの中のジャズなのだ・・・・」
いちおう,いかにも筋の通った考え方のようだが,実はこれが大変なマヤカシなのである。ここに述べられている”ソウル” だとか ”ジャズ” だとか ”黒人”だとかはいずれも実体のない抽象的な概念であって,要するに単なるお題目にすぎない。いってみれば,それは「ジャズとはカクカクシカジカのものでなければならない」という,”信条ラシキモノ”の表白でしかないのだ。我慢がならないのは,その裏に透けてみえる「初めにジャズという言葉があった」という考え方である。真っ先に”ジャズ” という概念が天下って,その概念から現実のジャズが生まれた,とでもいうのだろうか。 ぼくは上記の文章の内容をどうこういっているのではない。それは正しいかもしれないし,間違っているかもしれない。ただ,それはいずれにしても,ジャズの現実から導き出された”帰結”というかたちで提出さるべき事柄なのである。それをあたかも自明の理であるかのごとくよそおって,無理にも押し通そうとしているところにトリックが感じられるのだ。そのような立場を固執するとどういうことになるだろうか。到達点をあらかじめ定めておいて,それを物差しにジャズの現実を裁断しようというのだから,いうことだけはハッキリしていて気持ちがいい。しかし結論が分かっている以上,当然そこには論理の発展がない。すべての議論は,その結論を立証するための手段と化さざるを得なくなる。 こんなことを書くのは,そのような考え方がいまだに根強く残っていることに対するウップンもあるにはあるが,ミルト・ジャクスンの音楽について考えているうちに,ジャズとソウルの関連について,反省してみる必要を感じたからである。ぼくがいいたいのは,ジャズとソウルの密接さではなく,むしろ両者のあいだのへだたりなのだ。
裏がえしのソウル談義
ここで,ぼくはソウルとは何かという問題を,くどくど蒸し返すつもりはない。ソウルという言葉の定義については,これまでにもたびたび書かれてきたから,こまかいことはそちらにお譲りする。したがって,ここではソウルとはきわめて黒人的なある種の心情,ないしは感覚である,とだけいっておけば十分であろう。
ソウルは確かに黒人のものだ。しかし,だからといって,それを黒人ジャズの本質的なものであるというふうに,すぐ直結して考えるのは,少し早過ぎる。なぜか。理由は簡単だ。黒人の内部に存在するナマな状態のソウルと,ジャズの中に盛り込まれたソウルとのあいだには,表現の過程という仲だちがあるからである。
したがって,ソウルの問題は(ファンキーとても同様)次の三つの相で考えられなければならない。
第一に素肌のソウル。これはそのまま,ソウルの定義の問題に置きかえることもできる。それは黒人の肌の黒さみたいなもので,黒人なら誰でも持ち合わせているものだ。第二にその素肌のソウルに対するミュージシャンの反応。この反応ひとつで,ソウルのジャズへの表われ方が変わってくるのである。そして第三に,表現されたソウル。われわれがジャズの中に聴くのは,ソウルのこの段階なのだ。ソウル・ジャズという言い方はこの次元だけで考えた類別なのである。昨年来のファンキー論争や,ソウル談義に伴う多くの混乱は,このようなソウルの三つの相を一緒くたにして論じているところに,その原因があるのではないだろうか。
そこで,ソウルとジャズの関係を図式的にいえば,次のようなものになるだろう。ロウハイド(ナマ皮)の状態で黒人の肌の中にあったソウルは,ミュージシャンの手によって第二の過程で精製加工され,ジャズの中に盛り込まれたときには,前とは違ったなめし皮になっているのだと。
この第二の過程でどんななめし方をされるか,いやもっと極端な言い方をすれば,ナマ皮を第二の過程へ持ち込むかどうかはすべてこの過程の担い手であるミュージシャン自身の裁量に委ねられている。第三のソウルが生まれるか否かは,ひとえにミュージシャンの選択いかんにかかっているのだ。ソウルとジャズ(あるいはジャズ・ミュージシャン)が本質的なものとして直結しているのではないといったのは,このことなのである。
もちろん,こういったからといって,ぼくはなにも,ミュージシャンとソウルのあいだの血縁関係そのものを否定するつもりはない。ただ,彼らが手をつないでやってゆけるのは,両者が血縁関係にあるからではなく,お互い気持ちよく付き合える友だちだからだ,ということを言いたいのだ。と同時に,親戚同士の彼らが結構うまくやって行けるのは,彼らがジャズの中以外では,滅多に顔をつき合わせる機会がないからだ,ともいえそうである。
ジム・クロウ(黒人に対する差別待遇)の問題は,今なおアメリカが未解決のまま抱え込んでいる大きな悩みの一つである。しかし,それは社会問題,道徳問題としてみたときのハナシであって,現在の黒人の生活は,数十年前に比べたら比較にならないほど向上している。そのうえに,第一線級のミュージシャンともなれば,選ばれた人間ということで,物心両面にわたっていろいろなプラスもあるだろう。その結果現在彼らの生活は土(earth)から遠いものになりつつあるのではないか。彼らは昔ほど,日常生活の中で”ナマな自分” に対面する機会がないのだ。 ナマなものがなくなるということは,生活の実体が稀薄になるということである。そういう,都市文化的な生活の自然に対して,彼らは自己を守っていく必要を感じたに違いない。もちろん無意識のうちにということもあり得る。
日常の中にそれが求められない以上,それは現実とは別の次元で獲得されなければならない。こうしてファンキーがソウルがもう一度見直されたのである。
誰しも,自分のナマ身や体臭には恥らいを感じるものである。ことにそれが彼らの劣等感を刺激するようなものであるような場合には。ソウル派の担い手たちが,今日これほどあけすけにそれへの接近を示すのは,それと彼らのあいだに,すでにある距離が生じていることの,何よりの証拠ではないだろうか。日常生活とは切り離された”ジャズ”という世界の中でだけ,彼らは安心して土臭い感覚に浸り切ることができるのである。ソウル・ジャズがソウルに何かを求める気持ちは,バルトークが自国の民謡から何かを得ようとした気持ちと,それほど遠くはないのであろう。それは人が思うほどナマなものではないのだ。ソウル派の主力選手が,そろいもそろって,都会そだちの黒人たちであるのは,けっして偶然ではあるまい。 ソウルの転化
以上述べてきたところで,ソウル派の発生段階における構造は,明らかにできたと思う。そして,彼らのジャズの特質は,これをビリー・ホリディの歌や,初期のブルース・シンガーのそれと比較するとき,よりいっそう明確なものになるだろう。
ビリー・ホリディの歌を支えているものは,魂の叫びの切実さだ。ソウルの図式に当てはめていえば,素肌のソウルのヴァイタリティである。素肌のソウル自体が,第二の表現過程を動かして,みずからの表現を迫るのだ。彼女の場合,ソウル表現の主導権を握っているのは,ソウルそのものなのだ。ナマな状態のソウルがそれほど大きな力をもっているのは,それが彼女の生活に密着したものであったからにほかならない。これに対して,現代のソウル派の場合,ソウルをつかみ上げて表現へもっていくのは,ミュージシャンの表現意欲である。イニシャティヴはその表現意欲のほうにあって,ソウルはたまたま選ばれた素材に過ぎない。
では,現在のソウル・ジャズというものを,われわれはすべてこの図式だけで割り切ってもいいのだろうか。いや,そうあっさり片づいてくれるものなら,コトは簡単である。ぼくがこれまで所定の枚数の半分近くを費して述べてきたのは,ミュージシャンが,自分たちのそのような位置を意識し始めた段階,あるいは無意識のうちにそこへ到達した段階のかたちなので,さっきもいったように発生段階のそれなのだ。ジャズメンの中に名前を求めれば,ホレス・シルヴァー,ベニー・ゴルスン,クインシー・ジョーンズ・・・・といった系統の開拓者肌の連中のジャズがそうである。
ところが,ジャズはこういう開拓者精神の持ち主ばかりで出来上がっているわけではない。斧をふるって森をきり拓く人間があれば,必ずその後へやってきて家を建て,そこに住みつく人間がある。いや,当の開拓者自身だって,開墾が終われば,家を構えて新開地での生活を楽しむはずだ。そうでなければ,文化は実らない。そのような段階に達したとき,彼らは自分たちの生活の自然が,開拓時代とは変わったものになりつつあることに気がつくだろう。かつては森でありコヨーテの遠吠えであり,たき火のあかりであった生活の自然が,今では酒場や人のざわめきやランプの灯になっているのである。初めは人為的人工的なものであった家やランプが,いつしか自然の風貌を備えてくるのである。
ソウル派のジャズにも,当然そのような変化が現れてきた。つまり本来はナマな状態のソウルに,人為的な手を加えた結果であった,なめし皮のソウルが,次第に素肌のソウルと化して行くのである。こうして生まれた新しい素肌のソウルには,当然”土”のにおいはない。しかし,それには,現代に生きる黒人の生活のにおいがある。そこには,生活の自然と直結した強さがある。ここに至って,新しいソウルは,ビリー・ホリディに「ストレンジ・フルート」を歌わせたソウルに匹敵するヴァイタリティを,回復したのである。ただし,ビリーのナマな感情とちがって,なめされた皮であるこのソウルにははるかにソフィスティケートな味がある。 こういった,ソウル・ジャズの発生と展開を下敷きにして,ミルト・ジャクスンという男の存在に目をむけてみよう。
つづく
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来日したシルヴァー
フジ・テレビの「ジャズ・USA」で,ホーレス・シルヴァー・クインテットの実演を見た。曲はシルヴァー自作の「セニョール・ブルース」。彼のレコードはもちろん,他の多くのジャズメンによってもしばしば演奏され吹き込まれている,モダン・ジャズのスタンダード・ナンバーである。それにしても,そのとき,目にした演奏のみごとなことといったら!・・・・・。
1960年のニューポート・ジャズ祭をフィルムに収めたこのシリーズものは,われわれが日頃レコードの面でしか知らないジャズメンたちの演奏姿に,視覚を通じて接することができる点で,まことに興味ある番組だったが,その全プログラムを通じて,このシルヴァー・クインテットほど強烈な印象を与えたものはなかった。五人のメンバーのピタリと息の合ったプレイもさることながら,個々のソロ・プレイでは,シルヴァーの迫力が圧倒的にすばらしい。
どちらかというと少し猫背気味の体を,ピアノに向かって斜めにかまえ,鍵盤の上にのしかかるようにして,力強いメロディーを叩き出すシルヴァーの姿に,ぼくは滅多に味わったことのないようなスリルを覚えた。
彼のレコードは,所属(現在ブルー・ノート専属)の関係で,代表的なものは何ひとつといっていいほど,日本盤が出ていない。彼自身のグループによる演奏は,56年に録音されたエピック盤の「シルヴァー・ブルー」がかつて出ていたが,これはあまりよい出来ばえではなかった。サイドメンとしては,トップ・ランク(プレスティッジ原盤)やアトランティックに何枚か顔を出しているものがあるが,これとても,いずれも五,六年以上前のもので,ごく少数の例外を別として,現在のシルヴァーの実力を知るには足りない。
シルヴァーの生いたち
ホーレス・シルヴァーは,本名をホーレス・ウォード・マーティン・タヴァレス・シルヴァーといい,1928年9月2日,東海岸のコネティカット州ノーウォークに生まれた。
写真で見ると,無造作に櫛でなでつけた彼の長い髪の毛には黒人特有の縮れや癖がまったく見られず,その容貌にも,どことなく黒人らしからぬものを感じさせるところがあるが,それもそのはず,彼の名前の中にあるタヴァレスという文字が示すように,彼はポルトガル系の出なのである。混血がしばしばすぐれた才能を生み出すことがあるのは,多くの実例によって明らかなところだが,彼もまた,その一人なのだ。
そして,彼の音楽の中に,どこか普通の黒人ジャズと違ったものがあるとすれば,それはおそらく,この彼の体内を流れているラテンの血がそれをそうさせているのであろう。今日いうところの「ファンキー・ジャズ」の創始者だとされている彼の音楽が,ジャズの根底にあるブルースと黒人の教会音楽を二本の柱として成り立っていることは,シルヴァー自身があらゆる機会に繰り返し語っているところである。
しかし,そのいっぽうで人びとは,シルヴァーの創るブルースが,しばしば黒人の悲しみよりは,むしろラテンのフィエスタ(祭り)を想わせる陽気な気分にみたされている事実を指摘している。
彼の音楽のもう一つの特徴に,メロディが実によく歌う,ということがある。彼の生み出した「シスター・セイディー,ドウードリン,プリーチャー,ニカス・ドリーム,フィルシー・マクナースティ」などのメロディが,一度耳にしただけで,もう帰りには自然に口をついて出るような親しみをもっているように,彼のアドリブ・プレイにも,メロディの美しさが随所にみちみちている。
ところで,あくまでもメロディーの美しさに執着する彼の性格もまた,彼のうちに流れるラテンの血からきたものなのだ。彼がコルトレーンやデヴィスのモード(旋法)的な考え方には興味があると言いながら,一方,オーネット・コールマンやエリック・ドルフィーの抽象的な方法には与しようとしないのも,そのへんから解釈できるのだが,そんなことを言い出したらきりがないから,話を再びシルヴァーの経歴へ戻すことにしよう。
さて,シルヴァーが初めて音楽とつながりをもったのはハイ・スクールに在学中のことで,最初に手がけた楽器はテナー・サックスだった。そしてさらに,音楽理論の実習をも兼ねて,教会のオルガン奏者からピアノの個人教授を受けた。この時代に親しんだ黒人教会の音楽は,のちのちの彼にまで深い影響を及ぼして,シルヴァー音楽の重要な礎石の一つになっていることは,すでにご承知のとおりである。
ジャズ界へのデビュー
やがて彼は,土地の酒場やダンス・ホールに出入りするバンドメンの仲間入りをして,テナーを吹いたり,ピアノを弾いたりするようになった。そうしたある日,彼がハロルド・ホルトという人の楽団のピアニストとして,同じコネティカット州のハートフォードにある「サンダウン」というクラブに出ているところを,偶然この地へ来合わせていたテナーのスタン・ゲッツが聴いてすっかりほれこみ,乞われてゲッツのクインテットへ加入した。それまでゲッツとコンビを組んでいたピアノのアル・ヘイグがやめて,ゲッツはちょうどその後釜を探していたところだったのである。
これが1950年のこと,時にシルヴァーは二十二歳,当時すでにテナーの覇者としてカクカクたる名声を博していたゲッツにしてからが,二十三歳という若さだった。この時代の彼の演奏は,わずか二曲ながら,ルーレット盤の「スタン・ゲッツの芸術」で聴かれるが,センダンは双葉よりのたとえどおり,十分に才気の感じられるプレイである。
シルヴァーがゲッツのコンボで過ごした期間はわずか一年に過ぎないが,この間を通じて,彼がこの極度にセンシティヴな白人プレイヤーから受けた有形無形の影響は,けっして見のがしにできない。
51年,ゲッツとともにニューヨークへ出て,この地のユニオン・カード(アメリカの音楽家連合会が発行しているカードで,これがないと,ミュージシャンはその土地で働くことができない)を得たシルヴァーは,それを機会にゲッツのもとをはなれて,ニューヨークで活躍をつづけようと決心した。これから彼の「バードランド」や「ミントンズ・プレイハウス」通いが始まるのだが,それらのセッションを通じて知り合った仲間に,ドラムのアート・ブレイキーがいた。
このブレイキーとの出会いは,シルヴァーの生涯にとって特筆すべき事件の一つである。なぜなら,この二人の交情から,1954年に至って最初のジャズ・メッセンジャーズが生まれ,彼らがその後のイースト・コースト・ジャズに与えた影響と功績によって,シルヴァーはのちにファンクの創始者と称されるようになったのだから。しかし,これはのちの話である。
はじめてのレコーディング
1952年10月9日,彼はアート・ブレイキーとジーン・レイミー(およびカーリー・ラッセル)のリズムを伴って,ブルー・ノートへ自分の名前を冠した初レコードを入れた。この片面に六曲の自作ナンバーを入れた二十五センチLPは,今日の彼の萌芽ともいうべきものの一切がその中に含まれている点において,また彼の門出に当たって決定的な方向づけを与えた意味において,ひじょうに重要なレコードである。つづいて1953年11月には,トリオによる二枚目のLPが同じくブルー・ノートへ吹き込まれ,この中でのちに彼をファンキー派の始祖たらしめた問題の曲「オーパス・デ・ファンク」が発表された。
この二枚のLPによって,有能な新進ピアニスト=アレンジャーとしての地位を確保したシルヴァーは,その後,さらにブレイキーとの交情を深めて,翌54年11月,ついに問題の第一期ジャズ・メッセンジャーズを結成した。といっても,これは恒常的な仕事場をもつレギュラー・バンドではなく,あくまでレコードが狙いのスタジオ・コンビネーションであった。
しかし,従来のバップ的な行き方にさらに洗練の度を加えたシルヴァーのペンと,ブレイキーの強烈なリズムのバック・アップから生まれたこのグループの演奏方式は,その後長期間にわたって,イースト系コンボの典型的な演奏パターンとしてジャズ界を支配しつづけたのである。
最近の方向
それ以来,56年の夏まで,シルヴァーはブレイキーのよき協力者として,彼のグループのために数々の作・編曲を提供する一方,マイルス・デヴィス,J・J・ジョンスンらのグループに付き合って数多くのレコードを残している。これらのレコードは,いずれも,イースト・コーストの黒人ジャズが,バップ・イディオムから脱して,次第にいわゆる「ファンク」へと近づいてゆく過程を示すものとして興味深い。
そうして,1956年9月,新しい自分の行き方というものにある種の確信を得たシルヴァーは,ドナルド・バード(tp),ハンク・モブリー(ts),ダグ・ワトキンス(b),ルイス・ヘイス(ds)というクインテットを組織した。その後,各パートのメンバーはいろいろと代わったが,ピアニスト=編曲者=リーダーとしてのシルヴァーの地位はこのときに確定したのである。それ以来,今日までに吹き込まれた七枚のLPは,いずれもシルヴァー音楽の各時期における頂点を示すものとして,今なお人びとに愛好されている。
最近,イースト・コーストのコンボの間では,アンサンブルのハーモニックな拡がりを狙って,従来のトランペット,テナーというメロディ隊に,さらにトロンボーンのような低音楽器を加えて,”三管”編成をとる傾向が出ている。そういう風潮の中で,今なお,イースト・コースト本来の二管システムを堅持しているホーレス・シルヴァーの音楽から,日本のジャズ界は何を学びとるだろうかと,ぼくは今から少し皮肉に似た期待を抱いている。 【ジャズ・ヒロシの感想】
最初,「来日したシルヴァー」というタイトルの書き出しではあったが,その具体的なことは何も書かれていなかったので,ちょっと調べてみると,シルヴァーは,1962年の1月2日〜15日の間,東京・名古屋・大阪・神戸・京都で計19回の公演を行ったそうです。
この前年には,アート・ブレイキー率いるジャズ・メッセンジャーズの来日公演があって,日本では空前のファンキー・ブームが起こっていたようですが,ホレスの来日公演においても,日本中のジャズ・ファンを熱狂させたようです。
とはいえ,1962年(昭和37年)といえば,筆者もいっているような,「彼のレコードは,所属(現在ブルー・ノート専属)の関係で,代表的なものは何ひとつといっていいほど,日本盤が出ていない。」ということやステレオの普及というような状況を思うと,「ジャズはアングラ芸術」といった感があったのではないでしょうか。
このため,今日とは異なり,「ジャズは分かる人には分かる。分からない人には分からない。」音楽だという時代だったと思われますので,そういったブームといっても,ある限られた人々の間での出来事だったのかもしれません。
さて,わたくしが最初にホレスのアルバムで素晴らしいと思ったのは,「ドゥイン・ザ・シング」でしたが,2015年1月17日の,いーぐる連続講演「ホレス・シルヴァー特集」にも紹介されていますので,ご参考までに。
なお,最後のところで,筆者が「今なお,イースト・コースト本来の二管システムを堅持しているホーレス・シルヴァーの音楽から,日本のジャズ界は何を学びとるだろうかと,ぼくは今から少し皮肉に似た期待を抱いている。」といっていることはどういう意味なのか,分かりませんので,どなたかご教示くだされば,幸甚です。
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ブルーなデヴィスの音楽
ユニフォームのジャケットを血にまみれさせたまま,美しい細君に寄り添われて,警察の調べ室の一隅に座を占めたマイルスは,そこで何を考えただろうか ーー 1959年8月26日の夜半,ニューヨークのナイト・スポット”バードランド”の前で起こった,警官によるマイルス・デヴィス暴行傷害事件について,われわれはダウン・ビート誌その他が伝える報道以上には多くを知らない。ただ一つ,誰の眼にも明らかなことがある。それはこの事件の裏にひそむ根強いジム・クロウ=イズム(黒人に対する偏見)の力である。 それが厳として存在する以上,その力に対してどういう姿勢をとるかという問題を離れて,黒人のジャズを語ることはできない。ロリンズは眉をあげて挑戦する。デヴィスは怒りを秘めてじっとその重みに耐える。ジョン・ルイスはそれを忘れようとつとめているかのようだ。ロリンズは爆発し,デヴィスは沈潜し,ルイスは逃避する。ロリンズには豪放な力があり,デヴィスには抑制された悲哀があり,ルイスには落ち着いたみやびがある。ぼくは無駄にこんな対比をならべたわけではない。
デヴィスの音楽のもつ暗い美しさの根源は,こういう対比によってしかとらえられないと考えるからなのだ。暗い美しさ。ぼくはデヴィスほど「ブルー」という言葉を多用するミュージシャンをほかに知らない。
「カインド・オブ・ブルー」は,そのような”ブルー”デヴィスがみごとな結晶を示した近来の傑作である。彼を助ける四天王ならぬ六天王は,ジュリアン・キャノンボール・アダリー(a.s.),ジョン・コルトレーン(t.s.),ビル・エヴァンス(p)〈A面二曲目のみウィントン・ケリー〉,ポール・チェンバース(b),ジェイムス・コッブ(ds),といった面々。ピアノとドラムスが替ったほかは,前作「マイルストーンズ」と同じ顔触れである。しかし,ピアノが黒人のレッド・ガーランドから白人知性派の新進エヴァンスに替ったことは,デヴィスがピアノに左右されやすいラッパであるだけに,大きな変化である。 この吹き込みに集まった連中は,スタジオへ入るまで,自分たちがこれからどんな演奏をするのか知らなかった。御本尊のデヴィスにもはっきりとは分かっていなかったのである。つまり,彼は曲についての簡単なスケッチだけをもってやってきたのだ。吹き込みは,二,三の簡単な打ち合わせののちに,テストなしのぶっつけ本番で行なわれた。即興性がジャズの生命だとはいっても,これはかなり趣きの変わったやり方である。
エヴァンスはジャケット裏の解説で,そのむずかしさを日本の水墨画にたとえている。水墨画ではいったん筆が絹地に下ろされたが最後,いかなるためらいをも許さない。それには,驚くべき精神の集中と,表現の訓練が必要である。そうして出来上がった画は一見なんとも単純なものだが,じっと観ているうちに言いしれぬ趣きと深みを感ずるようになる。
ジャズの即興性Spontaneityもかくあるべきだ,とエヴァンスはいう。そして,デヴィスの一党はここにその言葉を実践してみせた。一見なんとも単純で,その実なんとも味わいの深い即興演奏を。 A面
1 ソー・ホワット
ピアノとベースのかけ合いによるイントロに始まり,最初の十六小節が一つのコード,サビの八小節で転調して,結びの八小節で再び最初のコードに戻る単純な形式の中に,アラビア風の香りをたたえたソロがちりばめられる。
2 フレディ・フリーローター
十二小節のブルース。前曲のムードをそのまま受けついだような演奏で,ピアノが黒人のケリーに代わる。
3 ブルー・イン・グリーン
ここではキャノンボールは休み。四小節のイントロにつづいて,十小節の循環形式を用いている。
B面
1 オール・ブルース
十二小節のブルース形式だが,終始一貫して八分の六拍子の単調なリズムがバックを刻み,それに乗ってデヴィスが自由に吹きまくる。
2 フラメンコ・スケッチス
五つのコードが順次現れるが,ソロイストは一つ一つのコードを好きな長さだけ吹いて先へ進むという変わった形式を用いている。コルトレーンがいい。
「リラクシン」
これはこれは,なんともはや楽しいレコードである。針を落とすと,最初にデヴィスの声で,録音担当のプロデューサーに「曲名はあとで教えるよ」といっているのがきこえる。それにつづいて,キンコンカンとピアノのイントロが鳴って,出てきたメロディーが,なんと「イフ・アイ・ワー・ア・ベル」とおいでなすった。記憶力のよい人なら(といっても観てなければ無理だが)おぼえているだろう。映画「野郎どもと女たち」の中で,メキシコの酒テキーラに酔ったジーン・シモンズが,泉水のほとりで歌っていたあの歌である。レコード・ディレクターともあろうものが,こんなスタンダード曲を知らないはずがない。「あとで教えるよ」もないものだ。随分人を喰ったハナシである。
さて,お次は,これもジャズのスタンダードの「ユー・アー・マイ・エヴリシング」だが,ここではピアノのレッド・ガーランドが何を勘違いしたのかまったく別のイントロを弾き出し,マイルスの「違う,違う」という声で改めて出直す,というひと幕がある。そして,B面最後の「ウッディン・ユー」が終わったところで,再びマイルスの声が入る。「OK?」それに答えるプロデューサーの声は遠くてよく聴こえないが,なんでも「もう一度取り直してくれ」といっているのだそうだ。これに対してマイルスが「どうしてだい?」と問い返しているのが聴こえる。そして,そんなことにはお構いなしのコルトレーンの声。
「栓抜きはないかな?」
1956年,その前年にスタートしたマイルスの新五重奏団が,ようやく軌道に乗ってきたころの録音であり,題名にある通りのリラックス(寛いだ)した演奏が楽しめる好LPとして,どなたにも推薦できる一枚。
【ジャズ・ヒロシの感想】
チャーリー・パーカーのあと,帝王マイルスについて,どんなことが書かれているのか,大いに期待をもって読んでみたのだが,意外にもアッサリ?とした短いものだったので,拍子抜けした。
それは,この記事が書かれた1963年(昭和38年)という時点を考えれば,パーカーほど歴史的な材料が少ないということが,そのことを物語っているのかもしれない。
つまり,1970年,あるいは1980年の頃であれば,充分な材料が揃ったであろうし,変身したマイルス?のことにも,触れられたと思うからである。
さて,抑圧された悲哀を有するマイルスのブルーな音楽については,暗い美しさという表現で筆者は書かれているが,どちらかというとそれは,スタジオ録音の方によくある叙情性に表れているように思う。
だから,ライブでの火を吹くようなトランペットのマイルスは,沈潜というよりも,アグレッシブであり,必ずしも暗い美しさばかりではないように思う。
勿論,筆者はマイルスのブルーな音楽について書かれたのであり,それだけがマイルスだとは,言ってはいないのは,言うまでもないが,そのアグレッシブな面は,抑圧された悲哀から出てくる怒りとか,その発散なのかもしれない。
というわけで,今回は「カインド・オブ・ブルー」と「リラクシン」についての解説もあるので,その演奏をYouTubeから借用することとして,感想を終わりたい。
MilesDavis - Kind of Blue - 1959 (Complete Album) 1. So What - 00m00s 2. Freddie Freeloader - 9m26s 3. Blue in Green - 19m19s 4. All Blues - 24m47s 5. Flamenco Sketches 36m23s 6. Flamenco Sketches ( Alternate Take ) 45m51s p { margin-bottom: 0.25cm; line-height: 120%; } MilesDavis - Relaxin' with Miles Davis Quintet full album |






