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ジャズとクラシック

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 後藤雅洋氏の著書「ジャイアンツ・オブ・ジャズ」の前書きに,「ジャズは人で聴くもの」ということを説明するために,クラシック音楽と比較している箇所があります。


 ジャズは多くのミュージシャン達の,日々のリアルな演奏行為によって支えられてきた,生きた音楽だ。たとえ彼らが死んでしまっても,その演奏が録音されて残っている限り,彼らの音楽は生命を保ちつづける。
 ところが,バッハの「平均律」,モーツァルトの「交響曲40番」,ベートーベンの「運命」といったよく知られた名曲が,20世紀に生きる僕達に感動を与えうるのは,彼らの音楽が譜面として残されているからだ。
 この楽譜というものはちょっと難しい言い方になるが,抽象化された記号の体系であって,そのままでは死んだ物質にすぎない。
 これに例えばカール・ベーム指揮するところのベルリン・フィルといった優れた演奏家たちが生命を吹き込むことによって,初めて「40番」は,僕達を感動させうる音楽として現代に蘇る。
 ところで僕のようなクラシック門外漢が面白いと思うのは,同じモーツァルトの「40番」でも,ジョージ・セルとクリーブランド管弦楽団がやれば,また違った演奏となってしまうところだ。
 そしてより一層興味深いのは,それにもかかわらず「40番」は「40番」であり続けるという,ジャズ・ファンとしては誠に不可思議な現象である。(中略)ベーム=ベルリン・フィルの「40番」とセル=クリーブランドの「40番」を比較するときに,彼らの「40番」解釈について考えてみることは決して不当ではあるまい。むしろクラシックでは,演奏家と演奏曲目を同時に視野に収めた議論のほうが普通だろう。
 一方ジャズにおいては,演奏の評価は演奏曲目の如何にかかわらず,徹頭徹尾ミュージシャン自身の創造能力が問題にされる。これが「ジャズは人で聴くもの」ということばの意味するところなのだ。
 クラシック音楽が演奏家の表現行為であると同時に,常に演奏曲目という譜面に書き残された抽象的な理念を背負っているのに対し,ジャズはそういったものからほとんど自由に演奏者の個性を発揮できる。
 これは,クラシック音楽に対するジャズの特殊性だが,同時に,ジャズはクラシックのように譜面による記録が不可能であるという,きわめて重要な問題も提起している。
 モーツァルトの「40番」が今日でも生命を保っているのは,この天才の頭の中で200年前に鳴り響いていた具体的で生々しいあの音の厚みが,そのまま時空を飛び越えて現代の演奏家によって再現されているというような,オカルト的な理由からではではありえない。
 繰り返すが,クラシック音楽は「譜面化」という抽象的な作業,作曲家の頭のなかの音の響きが一旦記号に置き換えられ,それが再び演奏家の手によって読解されるという複雑な作業に耐えうる理念性を具えている。
 言うまでもないが,楽譜も含めた記号は,音楽のような我々の感覚に直接訴える生々しい現象を,そのまま表現することはできない。記号にできることは,一定の手続きに従って,具体的な現象のうちで理念的であるがゆえに抽象化しうる要素のみを指示するだけだ。
 ところがジャズの演奏において表現されるものは,身体の具体的な経験であって,絶対に理念によって置き換えることが不可能な「一回性の出来事」なのだ。だから当然,これを採譜して抽象化する作業は,不毛で無意味なものにならざるをえない。
 要するにジャズにおいて表現される主要なものは,微妙な音色の変化であるとか,表記不可能な細微なタイミングのズレであるとか,ミュージシャンの演奏に臨む姿勢であるとか,そのほか諸々の個々の演奏者の全身体的個性に帰する要素であり,ある特定の時空間で起こったその場限りの,譜面による固定化の作業から逃れ去ってしまうすべての出来事なのである。


 以上,後藤氏の書かれたことは,誠に理路整然としており,これからジャズを聴いてみようと思われた向きにとって,なるほどそうかと思われたに違いありません。
 しかしながら,ジャズを説明するには,適切であるかも知れませんが,そのために,クラシックを引き合いに出し,誤解を招くような表現は,クラシックをミス・リードしかねないと思われるので,半分,自分の中にある一クラシック・ファンとして,少々コメントをしてみたい。
 まず,譜面化ということだが,作曲家の作品が譜面化の結果であり,モーツァルトの「交響曲40番」は,その一つで,こういうものこそがクラシックだと思い込んでいるのではないかと思われるフシがある。
 だから,「ところで僕のようなクラシック門外漢が面白いと思うのは,同じモーツァルトの「40番」でも,ジョージ・セルとクリーブランド管弦楽団がやれば,また違った演奏となってしまうところだ。そしてより一層興味深いのは,それにもかかわらず「40番」は「40番」であり続けるという,ジャズ・ファンとしては誠に不可思議な現象である。」と書いているのではないか。
 にもかかわらず,「ベーム=ベルリン・フィルの「40番」とセル=クリーブランドの「40番」を比較するときに,彼らの「40番」解釈について考えてみることは決して不当ではあるまい。むしろクラシックでは,演奏家と演奏曲目を同時に視野に収めた議論のほうが普通だろう。」と,現実的なところで一定の理解を示しておられるのは,どういうわけだろうか。
 まあ,譜面化された作品というのは,料理に例えれば,レシピに相当するもので,これに従ってその料理が作られるけれども,店によって,料理人によって,塩を何グラム,砂糖何グラムと同じように作っても,同じ味とはならないのは,わかりきったことです。
 その点,ジャズはレシピのない料理だとすれば,それこそどんなものを食べさせられるのか分からない,ということにもなりかねない。
 だから,目の前にある様々で雑多な食材などからある料理を作る作業がジャズだとすれば,確かに「徹頭徹尾ミュージシャン自身の創造能力が問題にされる。」のは確かだ。
 しかし,レシピのある料理でも,同じ味のものは,そこ以外になく,美味い不味いがあるとすれば,やはり料理人の,演奏者の創造能力が問題にされるのではないか。
 また,「ジャズは多くのミュージシャン達の,日々のリアルな演奏行為によって支えられてきた,生きた音楽だ。たとえ彼らが死んでしまっても,その演奏が録音されて残っている限り,彼らの音楽は生命を保ちつづける。」といってるが,そのこと自体は正しいにしても,そのことからクラシックは生きた音楽ではなく,死んだ音楽だというような誤解を招きかねません。
 クラシックは,作曲家の作曲(譜面化)により作品が残され,これを現実の音響として鳴り響かせるには,演奏行為が不可欠で,ただ楽譜を手に入れたというだけでは,音楽それ自体を楽しむことができないのはいうまでもなく,演奏という追創造行為によって,音楽が完結するわけであり,演奏なくして譜面化されたものがクラシックだと考えるのは,誤解していると思われても仕方がありません。
 要するに,クラシックだって,生演奏がある限り,「日々のリアルな演奏行為」があるわけで,フルトベングラーやトスカニーニなどの演奏も,録音されて残っている限り,彼らの音楽は生命を保ちつづけており,生きた音楽だといえるのではないでしょうか。
 さて,この話題を記憶に止め,別の視点で考えてみたいと思いますが,そもそも音楽は楽譜ありきで歌われ,演奏されたのでしょうか。
 楽譜がなかった時代は,素晴らしい歌も唄い継がれなければ,消失してしまったでしょう。しかし,その歌を記録に止めたいというようなことから,楽譜というものが考案され,そのプロセスの中から今日の五線譜という楽譜ができあがってきたわけです。
 ひとたび楽譜というものに音楽が記録されるようになると,それ以降の歴史上の音楽は作曲=楽譜(作品)という形態が主となり,ジャズのように楽譜をもたない音楽は,この文脈からすれば特殊であるともいえます。
 従って,ジャズは楽譜のなかった時代に先祖帰りした音楽かといえば,そんなことはなく,時代に逆行したものでもありません。いうまでもないことですが。
 ところで,今日わたくしたちが聴いている流行音楽などは,20世紀になって生まれたものですが,これらは西洋近代音楽の理論的な基盤(音楽理論)なくしてはありえなかったということは,自明となっていることであります。
 また,ジャズもその文脈の中から生まれた音楽であるといえます。要するに,ヨーロッパ大陸で生まれた西洋音楽(音楽理論を含む)が,主として19世紀後半以降,移民に伴いアメリカ大陸などに拡散したことにより世界の音楽シーンを大きく塗り替えていったともいえるわけです。
 日本の場合は明治以来,欧化政策の一つとして,西洋音楽を取り入れましたが,このことが日本の流行歌をも生んだ基盤としてあったのも事実です。
 さて,音楽を聴くということを,歴史的な経緯として,ニコラウス・アーノンクールという指揮者がこんなことを述べています。


 「18世紀までの人々は現代音楽しか聴かなかった。19世紀になると,現代音楽と並んで,過去の音楽が聴かれるようになりはじめた。そして20世紀の人々は,過去の音楽しか聴かなくなった」


 要するに,18世紀までは作曲家と演奏者は同じ人であったということであり,いいかえると,作曲家は自分の曲しか演奏しなかった。従って,その音楽はその時代の人々にとっては現代音楽であったわけです。
 まあ,作曲家と演奏者が同じということでは,ある意味ジャズと似ているかも知れません。なお,演奏者といっても複数いる場合は,指揮者として自分の曲を演奏したということです。
 19世紀になると,過去の音楽も演奏されることになり,このため作曲家は他者の作品を意識せざるを得なくなり,また,他者の曲も演奏されることから,作曲と演奏についてそれぞれ分業化が進んだともいえます。
 20世紀にもなると,音楽の大衆離れが急速に進んだという経緯もあって,理解しやすい19世紀までの(近代)音楽しか聴かなくなったというわけです。
 要するに,作曲家自身が演奏した時代から作曲と演奏の分化がもたらされ,作曲自体が不振となった20世紀には演奏が優位となったともいえます。
 19世紀は大作曲家を輩出し,その作品に注目が集まったが,20世紀にもなると,ピエール・ブーレーズが作曲を棚上げ?し,専ら指揮者として活躍するようになったように,作品よりもいかに素晴らしい演奏だったかというようなことが,特に演奏がレコードとして残される時代には,演奏そのものが注目されるようになったということです。
 つまり,新たな作品よりも,過去の作品の優れた演奏に人々の関心が集まったわけで,作曲よりも演奏に価値がおかれたことを意味し,それが20世紀だったことを考えますと,後藤氏が「ところがジャズの演奏において表現されるものは,身体の具体的な経験であって,絶対に理念によって置き換えることが不可能な「一回性の出来事」なのだ。だから当然,これを採譜して抽象化する作業は,不毛で無意味なものにならざるをえない。」と述べていることは,この時代の演奏そのものに価値がおかれたことと無関係ではなく,むしろそのことを象徴していることではないかと思います。
 従って,モダン・ジャズにおいては,作曲は演奏テーマに限られ,専ら即興演奏を重視したものとなったことは,ジャズが20世紀最大の演奏芸術であることを意味しているわけです。
 演奏芸術である以上,自ずと高度な演奏が繰り広げられたわけですが,コルトレーンのシーツ・オブ・サウンドやエルビン・ジョーンズのポリリズムなどが,そのことを象徴していると思います。
 つまり,ジャズはアドリブに特化されたことにより,芸術性が高まり,正にこのことが聴き手にとって容易な音楽ではなくなったことは,今更申し上げることではありません。
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 ジャズとクラシック(第9回)の寺島氏と後藤氏の対話が非常に好評・大ウケ?だったので,その続きを最後まで掲載することとして,読者の欲求不満?を解消し,そのご要望?にお応えし,何かの?ご参考になればと思って,続編とさせていただきました。
 因みに,「名演をつくるのは誰なのか」ということがテーマとなっているところから,始まります。


後藤 僕は,やっぱり「名演」が生まれるには「状況」があると思いますね。時代状況,社会状況,そしてそれに対するグループや個人の状況。それを抜きにしての「名演」というのは,あり得ない。技術的な支えは当然必要だけど,その人間がその瞬間に存在している,そのことが演奏に表れてくること。それが原点だと思うんです。


寺島 その時代状況なるものがジャズ鑑賞をつまらなくしている。自分が名演を決めればいいんだ。


後藤 (びっくりして)聴く人が?


寺島 そう。時代を追求すれば必ず過去形のジャズが出てくる。ジャズに時制はない。
どんなに古いものだろうと,これは自分にとって名演だというものが名演なんで,そうでなかったら,つねに他人のサジェスチョンに頼ってしまうことになる。それではジャズ・ファンの立場は確立されないと思うね。


後藤 (きっぱりと)いや,過去に名演といわれたものはいまでもやはり名演です。当然,多少のズレはあるけれど,基本的に先人の耳は正しいと思います。


寺島 でも,それは飽きますよ。先人よりおれはこう聴く!!のほうが正しい聴き方。


後藤 いや,名演は,字義通りに言えば本当にいい演奏なんだから飽きないですよ。名演と,よく知られたヒット・ナンバーは別です。単なるヒット・ナンバーなら飽きます。


寺島 うん,そこは同じです。飽きないのが名演だ。ただ,具体的に言うと,たとえば「スターダスト」という曲が好きじゃなかったのに,誰かの演奏で好きになったら,それは名演だと思う。プレイヤーが素材を,曲を,自分流に解釈して,あたかも自分が作曲したかのような,そういう演奏をしたとすれば,それが名演です。


後藤 それはたしかにその通りだね。


寺島 ただ,あなたはアドリブ中心,僕はテーマの展開とか曲の解釈を第一に,アドリブを第二に聴く。アドリブだって単なる旋律にすぎんのです。


後藤 そんな・・・・・・,困ったなあ(笑)。


寺島 あくまで趣味でいい。ある程度聴いたら趣味の差し替えをして,一生自分の好きなものだけを聴いていけばいいんですよ。


後藤 いやいや,そこはちがう。音楽聴いてて,それが趣味になったらおしまいよ。


寺島 趣味という言葉をもっと次元を高めて話したいですね。僕にとって,ジャズは最高の趣味ですから。


後藤 趣味って言葉を聞くと,どうも老人の盆栽いじりかなんかを思い出してしまうんですよ。そんな小さな世界だったら,僕,二十年もジャズとつきあいませんよ。もっと広い,もっと価値のある,たとえば他者とのコミュニケーションを拓くものとしてのジャズがある。だって,やっぱり,生き方変わるもの。お金とかモノじゃない,目に見えない音楽が,とんでもない力を持っているということがわかってくると・・・・・・。僕らは安全地帯から,これは名演だとかちがうとか勝手に言ってるけど,演奏するほうは命がけでしょ。一瞬のためにね。そして,あとはすべて失ってる。軽々しく趣味だなんて言えませんよ。


寺島 (しみじみと)僕にもそういう時期があったなあ。大変失礼だけど,悲壮感が先に立っちゃってる。だって,命がけみたいな演奏ほどつまらない。スポンテニアスなハッピー・セッションに名演が多い。ジャズと心中するんじゃなくてね,親しい友達の話を聞くような感じで聴いてもいいんじゃないかな? でないとジャズ馬鹿になっちゃう。あなたのことじゃないよ(笑)。


後藤 ジャズ馬鹿ですよ,私は(笑)。でも,ジャズはそういう日常的な市民生活とは同居不可能という気がするんですよ。


寺島 いや,同居可能。そうしないと必ず行き詰まる。


後藤 どんなものですかね,日常性と同居可能なジャズなんてのは・・・・・・。ジャズはやっぱり毒ですよ。でもね,いいジャズを聴くと,意欲みたいなものが涌いてきませんか。


寺島 それは僕もそう。意欲の喚起剤だね。そういうジャズの役割を感じますね。いいジャズを聴くと,瞬間的に,なにか行動しなくちゃいかんと思うもの。生活の原動力。活力源。やっぱりそういうものが名演なんだ。


後藤 ね,いいジャズを聴いて暗くなるはずないんですよ。ジャズ・ファンがネクラだって言われるのは,感情移入が強すぎるんです。それはジャズを聴いているんじゃなくて,自分の心情を拡大してるにすぎない。


寺島 ネクラでどこが悪いんですか(笑)。僕はどっぷり感情移入して聴くことが正しいジャズの聴き方だと思ってますので,最後にちゃんとつけ加えさせていただきますよ。


後藤 聞こえません(笑)。


                   (東京・新宿「ニュー・ダグ」にて)


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 わたくしたちが耳にするクラシックの多くの作品は,歴史的プロセスを経る中で,優れた演奏家により,繰り返し演奏されてきたことが,今日,芸術作品として評価され,定着しているものであります。
 ジャズの方は,過去の優れた演奏が録音され,アルバムという形で残されことによって,名だたるミュージシャンの芸術が理解され,その評価も確立し,今日に至っているところであります。
 そうでないと,過去の優れた演奏は幻の名演として語り継がれていくだけで,誰も耳にすることはできません。
 その結果,ジャズは「名演・名盤」というカテゴリーに,その多くのアルバムが集約されていますが,聴き手個人からすれば,それらのアルバムの全てに「名演・名盤」を実感することは,困難であるのも事実だろうと思います。
 つまり,クラシックの作品が芸術だからといって,その全てを聴き手個人がそれを実感し,理解できるとは限らないように,ジャズの「名演・名盤」の場合も同じだと思います。
 だからこそ,得手・不得手があり,好き嫌いというのがいわれる最大の根拠となっているところです。
 勿論,個人による理解の程度というものによるところもありますので,得手・不得手,好き嫌いというものの有り様は,様々であろうと思います。
 このことは,素人のわたくしたちばかりでなく,ジャズの著名人の間でもいえることであります。
 そのことを,「ジャズはテーマかアドリブか」という寺島氏が後日,珍妙な議論といった後藤氏との対話の中にみることができます。
 寺島氏と後藤氏のジャズに対するスタンスの違いは,以前にもこのブログで再三いってきたことでありますが,今回はその生の言葉をご紹介することによって,実感できるのではないでしょうか。
 少し長くなりますが,対話は後藤氏が,パーカーが最高で,だからビ・バップが最高だといわれた後に,続くところからです。


寺島 僕は,パーカーは「歌」の心を表現しなかったから嫌いだ。ジャズの本質は「歌」心だと思うし,そういう自分の感性を信じてジャズを聴くせいか,パーカーというのは,わからない。それより「パーカーは神様」という言い方が,どれほどジャズ・ファンに悪影響を及ぼしているかを言いたい。あなたが雑誌に書いてた「最初パーカーがわからなかった。五年間聴いてもわからなかった。でもあるとき突然わかった」という言い方のほうが説得力がある。あれはジャズ・ファンでなきゃ言えない。


後藤 どうも(笑)。まあ,嫌いと言ってる人になにか言ってもしょうがないけど,たしかにパーカーについて言えば難しい。でもね,失礼だけど,自分の感性を大事にするといった聴き方じゃ,パーカーはわからないですよ。


寺島 (まさか,という顔で)どういうことですか。


後藤 僕に言わせれば,それは思い上がり以外の何でもない。われわれ,自分の感性なんて大したもんじゃないって,百も承知でしょ。それをパーカーの感性と比べたって・・・・・・・。むしろ自分を空虚にして,音楽そのものの尺度で聴くべきですよ。パーカーが何をやっているのか,それを理解しようとして聴く。自分の好みだけで聴くなんて,ジャズに対する一種の冒涜だと思うね。


寺島 そこまでへり下ってジャズを聴くことはないでしょう。自分の感性に合わなきゃ,パーカーだって聴くことはない。パーカーがダメならマクリーンを聴けばいいんです。


後藤 それは寺島さんのご意見でしょう。それはその人の勝手です。でも,いま言ったようにして,あるプレーヤーがわかっちゃったら勝です。もう絶対ジャズから足を洗えない。自分だけの思いこみでその周辺をさまよっていると,いつかジャズから去っていくことになる。(寺島氏,黙って水割りを飲む)ジャズの世界のほうが圧倒的にでかくてパワーあるもの。だからこそ惹かれるわけでしょ。自分と同じぐらいのスケールのもので満足するんじゃ・・・・・・・。好きとか嫌いとか,そういう卑小な世界じゃないですよ,ジャズって。


寺島 わかりました(笑)。僕は音楽家とファンは対等だと思う。しかし,そういうふうに,あなたは独特の「自分の世界」を持っている。それはそれで素晴らしい。


後藤 その「自分の世界」という言い方はちがうと思います。「自分の聴き方」とか「自分自身の世界」なんてものはありませんよ。あえていうなら「ジャズの世界」です。そこにパーカーがいた。それを僕は見た。僕が自分で勝手につくり上げたわけじゃない。


寺島 大変な信者がいたものですね。ジャズに完全に屈服している。まあ,パーカーならパーカーでいい,それだけは誰にも負けないというものをつくって,それを慕っていくことで,他のミュージシャンが見通せるようになる。ジャズ・ファンがジャズと長くつきあうには,そうやって自分のジャズを次々に探してゆくことだと思うんです。


後藤 いや,僕はジャズに敬意を払っているだけです。そういうふうに自分の感性だけを頼りにして聴いていると限界がありますよ。そうした個人の好みでジャズの一部をとらえて何か言うのはちがうでしょ。


寺島 はい,はい(笑)。そこで伺いたい。パーカーがわかったというのはどういう感じ? 僕はいまは「パーカーはわからない」と平気で言えるようになったから,ぜひ伺いたい。


後藤 うまく説明できないけれど,いままで音楽的に無意味だったものが,「あ,なるほど,こういう意味を持っているのか」という,ある種のインパクトを感じたんです。


寺島 ジャズを長年聴きつづけてきましたが,いまの僕の言い方でいうと,わかるというのは「たのしめる」ということに集約される。一度聴いたレコードを「また聴きたい」あるいは「この人の別のレコードがほしい」,そういう軽い理解でいいと思うね。だからこれからジャズを聴こうという人は,名演リストのものは一応みんな聴いた上で,その中から三つでも四つでも,気に入ったものを掘り下げていけばいいと思うんです。


後藤 僕は,やはりビッグネームを時代を追って聴くことだと思う。それは,自分が二十年聴いてきて,やっぱり昔からいいと言われているものが残ってるからなんです。最初は言葉による知識,それを耳とからだで一所懸命に聴いた結果,平凡だけど,その通りだった。


寺島 ある程度ジャズを聴き続けていったら,あるところで否定することがあってもいいんじゃないかな。疑ってみることは必要でしょう。僕がそう言うのは,実際にそういう経験があるから。あるレコードを評論家がクールな演奏だというんで二十年もそのレコードを放っておいた。この前それを聴いたら,こんな温かい演奏はないんですよ。こうなると,もう一種の弊害ですね。


後藤 いや,それは好き嫌いで聴く弊害じゃないかな。


寺島 好き嫌いは決して次元の低い聴き方じゃない。僕はおいしい所だけを抽出して聴く快楽主義だから言いますけど,好き嫌いで聴くのがジャズ鑑賞を長続きさせる一番の方法だと思います。真剣勝負で聴こうとするから飽きてしまうんですよ。


後藤 (冷たく)僕もあと十年経ったら寺島さんみたいに思うかもしれない。でも,好き嫌いを言ったら,それで終わりでしょ。それは他人に関係ないじゃないですか。


寺島 (水割りをグッと飲んで)他人のために,僕はジャズを聴いているんじゃない。自分のために聴いている。他人がどう思おうと,いっこうに構わないですね。


後藤 そうすると,ジャズって,本当に閉塞的な狭い世界のものになっちゃう。


寺島 ジャズは,非常にマイナーなものだから素晴らしい。非常に個人的なものだ。


後藤 いや,マイナーだけど,文化現象である以上,個人的なものじゃないと思うな。


寺島 僕は近頃,こう考えているんです。ジャズは生涯のいい伴侶なんだと。その伴侶とつきあっていくには,やっぱり少しは工夫も必要なんですよ。


後藤 ジャズは,やっぱり外来文化だから難しいと思うんです。しかし,その難しくてわからないところが,長続きすることと表裏一体の関係にあると,僕は思うんです。だから,工夫もなにもいらない。きっちりジャズを聴けばいい。それが正しいジャズの聴き方ですよ。


寺島 ハッハッハ・・・(大笑)。やっぱり僕と後藤さんの十年という差は相当大きいね。そういうシビアなものをずっと聴いていけば,誰だってしんどいと思う時がある。そういう時にはボーカルを聴いてみるとか,スイング・エラにさかのぼるとか,ちょっとわき道にそれてみる。それが極意ですよ。


後藤 (シラケて)大人の意見だなあ。要するに自分が弱かったからジャズも弱くしようというわけだ。だったら,もうジャズ・ファンやめたら?


寺島 一途な人ほど破綻が多いんですよ。たまには浮気も必要だということ。それでこそ添いとげられる。つっぱらずに一歩引いてみるのも人生です。


 どうでしょうか,長年ジャズをお聴きになっていらっしゃる方でも,このようなジャズに対する見解の違いがあるわけですから,そのことがジャズの奥深さを物語っていることかも知れません。
 当然のことながら,見解の違いがあるということは,ご両人がお書きになられている著書にある推薦アルバムも自ずと違ってくるわけです。
 しかしまあ,寺島氏が「大変な信者がいたものですね。ジャズに完全に屈服している。」と語っていたのは印象的でしたが,この議論はいくらやっても永遠に平行線になってしまうのでしょうね。
 実におもしろい対話だと思っていましたので,あえてご紹介させていただきました。


                             (つづく)


(前から続いています。)

本当のところって?

 「どっちが上かってことよ。単刀直入にいえば。」

 そういうステレオ・タイプというか,白か黒かという2分法的な考え方というのは,柔軟な思考を妨げるんじゃない。

 「そんなこといって,逃げてる。逃げてる。」

 いやなやつだな。どうしてそういうふうにしか考えられないんだ。
 
 「今回は,どうしても,そのことを訊きたい。」

 ならいうけど,そんなこと考えたことありません。

 「欺瞞的。」

 失礼なやつだな。欺瞞的とは,何を根拠にいうんだ。

 「そういう中途半端な人は,信用されないんだよ。」

 そうかー? 今やジャズもクラシックも聴くという人は沢山いると思うよ。あなたは,そういうことを知らないで決めつけてくる。独善的だよ。

 「まあいいや。どう考えているのか訊かせて欲しい。」

 しつこいね。どういったら信用してもらえるのか。

 「それが,あなたがブログをやっている責任でしょ。」

 どうして?

 「だって,あなたのブログを色々な人が見に来ているでしょ。」

 そりゃー,偏見だな。複数分野の音楽趣味をもっちゃいけないってこと。

 「誰がそんなこといった。人の話を全然聞いてないね。」

 わかった。わかった。それじゃぶっちゃけた話をしよう。
 この問題は以前にも出したことがあるので,もうその時に解決済みとなっている。だからもうそれを蒸し返したくないんだ。
 でも,あなたが納得できないみたいだから,いうけど,そういう人は一方の音楽を理解していないというだけのこと。ジャズのU人だって糞味噌にいってるけど,結局自分が理解できない音楽はダメな音楽だと決めつけてるだけのことで,「自分は無知ですよ」と宣言しているに等しい。

 「そうすると,あなたは両方理解しているってこと。」

 あなたは,相変わらずステレオ・タイプの思考しかできないね。理解しているかしていないかという二つの人種しかいないと思ってるの。
 そうじゃないだろう。音楽がわかるとかわからないということは,それを発した人の個人的なというか,主観的な心証に属することなんだよ。
 つまり,ある曲を聴いて,複数の人がイイネーといったって,全く同じ心証を得ているとは限らず,理解にも深さというか,程度があるということなんだよね。ワカッター?

 「挑発的ないいかただな。だからどうなんだよ。」

 だかーら,いったじゃないの。という歌があったね。

 「揶揄しないでくれ。そこがあなたの一番悪いところなんだよ。あっ,年がバレちゃう。」

 おっ,今度は個人攻撃か?

 「もう,あなたとは話したくない。」

 出ました。それはジャズのU人がよくいうセリフ。彼とはいつも大論争になるんだよね。話はいつも平行線になるんだけど,埒があかないといつもそういってくる。

 「そいつと一緒にするなよ。何かしまらない会話になってるね。」

 う〜ん。ちょっと感情的になりすぎたかな。でも,「もう,あなたとは話したくない。」といういいかたはよくないよ。

 「どうして。」

 だって,そうでしょ。おれはいつもそういうことをいわれると,彼から「この人は分からず屋だなー」と,いわれているんじゃないかと思ってしまうんだよ。

 「それって,自分の思い込みだよ。彼からすれば,話をするのはもう疲れたと思っていっているかも知れないじゃない。」

 ん〜ん。そう思いたいけど,これ以上いうのはやめよう。

 「どうして。」

 さっきからバカの一つ覚えみたいに,どうして,どうしてって。ウルサイよ。

 「あっ,挑発してる。そういうことをいうと正常な会話ができないじゃない。」 

 それじゃ,これでおしまい。

 「ちょっとまてよ。話がとんでもない方向にいってしまった。元に戻そう。ジャズとクラシックについて,あなたはどう思っているのか,いってくれ。」

 えーと,どこまで話たっけ。(しばし,黙考。)
 難しいね。そういうこと,あまり意識してなかったから。さっきもいったけど,音楽の感動というのは,いつも同じとは限らない。
 ジャズでもクラシックでも,最初は何かしらの感動がきっかけとなって,その世界に踏み込んでいくのではないだろうか。
 それがないと,聴き続けるのは難しくなるよね。自分の場合,最初はクラシックだった。その前は,アメリカン・ポップスが好きだったけど,クラシックのよさがわかったら,聴かなくなった。
 それはアメリカン・ポップスにないよさがあったからだが,そこには感動というものがなければ,よさとはいえない。
 でも,その頃の感動と今の感動は同じじゃない。大きな開きがある。それは理解がより深まったというものが含まれている。
 理解が深まるということは,新たな発見があったということを意味する。最初と今の地点は1から2になったというよりも連続しているプロセスであり,その間は様々な推移がある。
 その推移は長く聴き続けたプロセスなしにはあり得ない。だから,今後もそうやっていく以上,もっともっと心証の変化が訪れると思うし,それを否定することはできない。
 ジャズを聴くようになったのも,このことと同じようなことが起こったからだ。だから,ジャズだって,まだまだ先があると思うし,その意味では,いつも音楽はチャレンジだと思っている。
 いい換えれば,リスナーはいつも発展途上にあるともいえる。そういう現実をみれば,ジャズとクラシックはどちらが上かと考えるのは,無意味ではないか。

 「なるほどー,よくわからんが,そういうことなのかな。音楽はチャレンジか,いいこというね。それじゃあなたは,挑戦人だ。」

 変ないいかたするね。挑戦人とは。

 「ハハハハハー。ジョーク,ジョーク。」

 いやなやつだ。気分悪くなったよ。ジョーク・ジョーダンじゃあるまいし。

 「でも,聴いてきたキャリアみたいな違いは,あるよね。ジャズを聴いてきた年数よりもクラシックの方が圧倒的に長いということが,今のあなたにとって,どういう影響がある?」

 それは長く聴いてきた方に,しっくりするところはある。ジャズは大分慣れてきたけど,まだ難しさは感じる。勿論,クラシックだって難しい曲はいくらでもあるし,ジャズも同じだ。
 ついでにいっておくけど,ジャズを40年聴いてきたという人がゴロゴロいるわけよ。そういう人は漫然と聴いてきたわけじゃないでしょ。漫然と聴いていたら楽しめない音楽だからね。だから,ジャズの理解とジャズ歴というのは,ある程度相関があると思う。
 何をいいたいかというとね。10年聴いてきた人と40年聴いてきた人とでは,ジャズの受け止め方に違いがでてくると思う。一般論としてだけどね。クラシックもその点じゃ同じだな。

 「そりゃそうだろうね。早い話がジャズ喫茶の親父何かは毎日何時間も聴いているわけだろ。だからそこに差が生じるのは当然だよね。」

 そうだと思うね。

 「それと,分野の異なる音楽を聴いてきたことによって,相互に影響するってことある?」

 どうなんだろ。難しいな。ジャズを聴いたことによって,クラシックの20世紀の音楽に馴染みやすくなったことは,いえる。それは,多分,時代が近いということもあると思う。
 ジャズの方はボーカルがないということには,抵抗感がなかったし,比較的短い曲ばかりという印象はあったので,アプローチはしやすかった。それと,20世紀音楽にも慣れてきたということが,ジャズにもいい影響があったように思う。

 「そうすると,ジャズもクラシックも聴いた方がいいということ?」

 う〜ん。これも難しいね。できれば,そうした方がいいとは思うけど。こればかりは,人に押し付けるわけにはいかない。
 話は変わるけど,ジャズは非常にリズムがはっきりとしたところがある。一般的には。このはっきりしたリズムにソロ楽器がアドリブするというのは,クラシックにはない音楽なんだよね。当たり前のことだけど。だから,最初はそれに慣れるのに苦労したな。
 その点はロックとかリズム&ブルースを聴いてきた人がジャズを聴くのとは違うと思う。そういう人の方がジャズに入りやすいのかも知れない。

 「それはいえると思う。」

 でしょ。だからね。ジャズがわかるようになったら,ロックやリズム&ブルースにも以前よりは親しみやすくなったという印象はあるんだよね。

 「そういうことかー。色々聴いてみるということは必要だね。」

 ジャズって,テーマに,ポピュラー音楽みたいなものが使われるじゃないですか。だから,そういう分野に明るい人の方がジャズに入りやすいのじゃないかと思うのだが,どうだろうか。おれなんか,原曲知らないからどこまでがテーマなのかわからないことがあるよ。

 「そんなこと訊かないでー。こちらはあなたに訊く立場なんだから。」

 たまには,こっちから訊いてもいいだろう。

 「わかるわけねーだろう。基本的には同じような体験をしてみないことには,わからないということがあるんだよ。そのくらいわからないのか。」

 まあ,まあ、興奮しないでもらいたい。

 「興奮なんかしてないけどさー。ジャズとクラシックって,聴き方の違いというのはあるの?」

 これまた難しいこと訊くねー。どうなんだろ。ジャズだからこう,クラシックだからこうと聴き方を変えるということだよね。そんなこと考えたことなかったな。(しばし,黙考。)
 ないんじゃないかな。それよりも,共通しているんじゃないかと思う。要するに慣れるということだけど,それには集中して聴く方がいい。
 よくいわれることだけど,プロ野球だとスイッチが入るとかいってるよね。2イニング跨ぎのリリーフで,1イニングだけだと思っていたら,もう1イニングのリリーフにその準備ができなかったため,切れてしまうという話を聞くことがある。音楽の集中もスイッチを入れて聴くということだと思う。そういうことでは,ジャズもクラシックも同じじゃないかと思う。

 「なるほどねー。就中,集中が大切ってわけね(笑)。」

 笑うんじゃない!。ギャグはそれくらいにしろ。

 「しかし,そういう聴き方では疲れてしまわない。」

 それも慣れだと思う。習慣化してしまえば,どうということはない。慣れないから緊張で疲れるわけだ。でも,こういう習性が身についてしまうと,BGMを流して聴けなくなるんだよ。だから,ながら族ができない。

 「それも,困ったもんだね。」

 まあ,困って,悩んでいるというわけではないけどね。しかし,困るといえば,最近は年のせいか眠くなっちゃってね。目が覚めたら,最後の曲をやっていたなんてことがあるよ。笑い話になるかどうかわからないけど。

 「ハハハハハー,年はとりたくないね。老化現象だよ。ちょっと,話を戻すけどさー,これは本当のところよくわからないのだけど,たとえば,クラシックの初心者って,ホルストの惑星という曲をよく聴くような印象があるのだけど,それってどうなの。」

 確かに,そういう印象はあるね。でもどうしてかはわからない。惑星という曲はまともに聴いたことがないんだよ。聴く気にもなっていないけどね。

 「入門曲なのか,それとも他に理由があるのか,謎だね。」

 そうだよな。初心者はモーツァルトやベートーベンあたりがいいと思うけどね。しかし,それは古い考えかも知れない。

 「それとさー,ベテランのジャズ・ファンていうかな,何かスノッブみたいな人いるじゃない。そういう人って,クラシックは現代音楽のようなものを好んで聴くような印象があるんだよね。」

 ん〜ん,ありそうなことだね。ジャズのU人もアルバン・ベルクとかジョン・ケージなんかも好きみたいだよ。前にもいったけど,ウエーベルンも聴くとかいってたな。
 よくわからないけど,ギンギンのフリー・ジャズとどこかしら接点でもあるのかね。まあ,いいけどさー,その辺はクラシック・ファンで聴いているという人は少ないと思うよ。

 「不思議だね。これも謎かな。」

 そういうことでは,クラシック・ファンがジャズを聴くと何を聴くと思う。

 「そうだな,ジャック・ルーシェ,オイゲン・キケロ,MJQあたりかな。」

 ピンポ〜ん。最近じゃヨーロピアン・ジャズ・トリオなんかも入るかも知れない。よくわからないけど。
 まあ,平均的なクラシック・ファンは現代音楽のようなジャズはダメなんだな。

 「興味深い話だね。」

 まあ,みんながみんなそうだとは限らないと思うけど,そろそろ,この辺でやめとくか。五千字もとっくに越えていることだし,あなたと話していると疲れたよ。

 「それは,こっちのセリフ。ネタが切れたんだろ。」

 おまえなー,最後まで絡むなよー。

 「次はどんな話をしてくれるんだい。」

 一応,材料はあるんだけど,あなたとの対話にはならないかも知れない。

 「そんなに,嫌わないでよー。」

 次回は,もっとマジでやるつもりだよ。フザケタやつとは話したくない。
                                     
                         (つづく)
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 ジャズ喫茶四谷「いーぐる」の後藤雅洋氏によれば,昔,ジャズはそうとうトンがった音楽だったようで,今日ジャズがオシャレな音楽として一般に思われていることからすると,随分世間の見方が変わったと思います。
 そのためか世間ではクラシックよりもジャズの方に人気があるようです。
 クラシックは,「クラシック=教養=お勉強」というように,勉強しないとわからない音楽だと長い間思われてきたところが,クラシックの最大の不幸ではないかと思います。
 普通に音楽を聴いて楽しめるということではジャズもクラシックも同じであることに変わりないのですが,お勉強アレルギーがある?以上いたしかたないことかも知れません。
 また,現代は様々なジャンルの音楽が溢れ,一つの平面上において自由に音楽が選択できるという誠に幸せな時代を迎えておりますが,様々な音楽ジャンルがあるゆえに,価値感の多様化(好みの多様化。「価値=好み」とは必ずしも一致しない。)をもたらしたことにより,ジャズもクラシックも音楽の単なる一ジャンルに過ぎなくなったということもあって,今後もファン層の拡大ということでは,相対的に低下したのではないか思われます。
 とはいえ,今やジャズは街角,店内などに流されるようになったというロビー活動?があるため,クラシックよりは深刻ではないかと思われます。
 しかしまた,そのことによって,ジャズというものがBGMとして聴かれる音楽だと思った向きもあるようで,BGMとして聴かれるがために,ジャズってそんなに難しい音楽かと疑問を抱かれる方もあったようです。
 まあ,クラシックだって,BGMとなってしまえば,難しいかどうかということは問題となりませんから,BGMという土俵に載せてしまえば,ジャズもクラシックも同じことかも知れません。
 たとえば,世の中,ジャズとクラシックがBGMだけとしてしか聴かれなくなったため,ミュージシャンたちはコンサートなんかやめちゃって,専らBGM製作だけのレコーディングしかしなくなった。
 こうなると,難しいかどうかということは,そもそも問題とならないから,わたくしはジャズを聴いています。わたくしはクラシックを聴いています。それぞれが(BGMとして聴いて),いーですネ,いーですネと語り合うなんてことになったら,どうでしょうか。


 おもしろいネ。


 「ふざけるな!」


 いや,ふざけてマス。


 「しかし,ジャズがBGMとして聴かれる音楽じゃないかと思う向きがあったということは,ジャズの危機じゃないか。」


 いや,そんなことオマヘン。ジャズ・ファンはいつもジャズ・ファンで,ジャズに変わりありませんから。
危機というよりも聞き(危機)捨てならない。


 「なるほど,それでクラシックの方はどうなの。BGMとして聴かれるものだと思われたら,危機じゃないの。」


 クラシックはそれ以前から絶滅危惧種とかいわれているわけだから,そういうことは問題にならない。


 「それじゃ,絶滅する可能性があるわけだから,絶滅したらどうするの。」


 心配無用。動物なんかでも絶滅危惧種に指定して,保護しているように,保護されるだろうから,心肺(心配)停止にはならない。


 「ふ〜ん。それって,動物と同じってこと?」


 いやいや,あくまでたとえだよ。動物と一緒にされちゃ困る。でも,わたくしのみる限り,そうはいっても,細く長く生きながらえるのじゃないかと思う。
 それとさっき,ジャズがBGMとして聴かれる音楽だと思われると,危機じゃないかといわれたけど,よく考えてみると危機かも知れないね。


 「そうだろ。そうなったら,真のジャズ・ファンが増えなくなるわけだから,クラシックと同じ危機なんだよ。」


 まあ,偽のジャズ・ファンが増えるかもしれないが,実際誰もがジャズをBGMとしてしか聴かないということは考えにくいけど,どうもよくわからないところは,ジャズを聴きたいという人が多いとかいわれているようで,それ自体好ましいことなんだけど,何かポップスを聴くのと同じような感覚で接しようとしているのじゃないかと思うのだけど。


 「まあ,要するに手軽に聴ける音楽という感覚ね。それは一時期ジャズはポピュラー音楽の一分野と思われていたことも,その要因としてあるのじゃないかと思う。」


 つまり,クラシック対ポピュラーという構図の中にジャズも入れているということね。それはダンス音楽だとかブラスバンドとかいうところからジャズが発していたということが,関係しているのかも知れない。よくわからないけど。
 まあ,そういうことよりも,何の苦労もなくポップスを楽しんで聴けるという無自覚の感覚がジャズやクラシックに対したときに,自然とそういう感覚でもって聴いてしまうということがあるのじゃないかと思うのだが,どうだろう。


 「確かに,そういえるかも知れない。ポップスなんかBGM的に流して,半聴きでも楽しめるじゃない。だから,ジャズに安易な態度で向き合ってしまいかねないし,そういうスタンスで聴ける音楽で楽しんでいるから,クラシックでもサティーのようなものがもてはやされたりする。それこそ音楽の危機じゃないか。」


 いいこというねー,たまには。
 しかし,あれだねー。話は変わるけど,ジャズとかクラシックとかいってるけど,CDなんかの値段はポップスなどと同じだし,音楽の価値が反映されているわけじゃないんだよね。


 「それって,どうなの。ファンからみればポップスと同じ扱いに不満はないの。」


 確かに,ファンからみれば贔屓の音楽が評価されないようにみえるのは,忌々しいことのように思うかも知れないけど,消費者としてみれば,音楽価値で高くなったら困るので,現状でいいと思う。


 「中古市場だと,当初の販売価格よりも高値を付けているものもあるよね。そういうのはどうなの。」


 それは希少価値ということで,高くなっているんじゃないか。勿論,音楽価値も考慮されているとは思うけど。
 元DUの人がいっていたけど,その人はジャズを担当していて,本人も相当のジャズ・マニアだったらしいんだ。
 だから,ジャズの目利きができるから,それで価格設定をしていたらしいんだな。ところが,あるときから,社の方針が変わって,販売実績で価格を決めるということになったので,そのやり方に不満だったようで,配置転換なんかもあったりして,辞めちゃったらしいけど,会社の先行きをこれでいいのかと憂慮していたようだよ。


 「確かに,ジャズやクラシックの販売担当にはマニアックな人がいるよね。そういう人は自分の好きな音楽分野で仕事ができることに,やりがいがあったと思うんだけど,社員のやる気をなくすような経営方針はどうかと思うね。」


 そうだね。クラシックの方でよく目にするんだけど,この曲は誰の演奏がいいのですかと,初心者のような人が店員に訊いているんだよ。
 まあ,人に訊くくらいだから自分に自信がないわけだよね。そういうのって,マニアというよりも初心者に多いだろ。
 
 「でも初心者にそれを求めるのは,無理じゃない。」


 確かにそうかも知れないけど,それだったら,演奏云々以前の問題だよ。初心者だったら,まず,足腰をしっかり固めてからでないとね。


 「どういうこと。」


 初心者は作曲家がどういう音楽を書いたかとか,曲そのものもよくわかっていないわけだ。だから,どうしても誰それのこういう曲を聴いてみたいと思ったときに,いい演奏のものを買ってみたくなる心理が働くために,人に訊くわけだよね。
 この曲は誰それの演奏が最高だなんていう評論家などの折り紙付きのものを信用して買ってしまうと,それ以外の演奏を聴こうという関心がなくなってしまうことがなくもない。
 だから,初心者は演奏よりも,曲のよさを知ることの方がいいと思う。それで,気に入った曲があれば,それを他の演奏でも聴いてみると演奏の違いがよくわかるし,場合によっては,評論家のいうことと違う見解となるかも知れないし,曲の深みもわかってくるということもあるので,最初から拘らない方がいいと思う。


 「でも,推薦盤がよかったということもあると思う。」 


 勿論,そういうことは否定しないけど,推薦盤であろうとなかろうと,自分がいいと思えなければ,何にもならない。


 「だったら,どれから聴こうと本人の自由じゃないか。」


 それをいったら,身も蓋も無い。まあ,何を聴こうと,どれから聴こうと個人の自由とか,好みとかいうけれど,そのこと自体にいいがかりをつけるつもりはないが,この手の音楽をものにしようとするには,かえってそのことがマイナスとなることがなくもない。


 「どういうこと。」


 要するに,初心者が自分の判断では決めかねるから,人の意見に頼ろうとする。勿論,頼ること自体悪いわけではないけれど,その選択や価値判断を他人に委ねるという姿勢があるにも拘らず,自由だとか好みだとかを安易に口にするのには,もう少し謙虚になってはどうだろうかと思うわけです。


 「なるほどねー。それも一理あるかも知れない。自分がよくわからないのに,何から聴こうと,何を聴こうと,好き嫌いをいおうと,個人の自由には違いないが,それを声高にいうのは,いかがなものかっていうわけね。」


 一理? そのいい方にはひっかかるけど,このことを軽く考えられちゃ困るんだよ。まあ,いいけどさー。


 「そういうことって,ジャズの場合はどうなの。」


 ジャズは難しいね。クラシックよりも詳しくないからね。
 でも,ジャズのビギナーが好みだとかを声高にして,ああだ,こうだというのは,演奏がどうのというクラシックの初心者の場合と基本的には同じだと思うけど。


 「そうだよなー。初心者は好みとか,自分の感性を基準として判断しちゃいかんというわけだよね。」


 それと,一番厄介なのは,いっぱしのクラシック・ファンがジャズもわからないくせに,ジャズを聴いて評論家気取りで,あーだ,こうだとのたまうんだよ。
 そういう人って,それなりに音楽を聴く耳をもっているという自負があるものだから,実に厄介だよ。


 「あんたもそうだったんじゃないの。」


 何を,失礼な。


 「怒らない。怒らない。怒れば怒るほど,そう思えてくるよ。」


 わかった。わかった。もういわないでくれ。
 
 「いっぱしのジャズ・ファンも,クラシックを聴いて,同じようにいう人もいるんじゃない?」


 それはあるかも知れないね。ジャズのU人なんかは,クラシックを糞味噌にいってるからね。


 「それって,自分の聴く音楽が最高という思い込みがあるんだろうね。自分の判断が基準となっちゃうわけだ。」


 まあ,そういう人は救いようのないところがあるね。自分の感覚が絶対だという自信があるものだから,議論しても平行線となってしまう。


 「要するに,自分の音楽観のようなものが確立されちゃっているから,その視線が正しい見解にとって邪魔になるということね。」


 そういうこと。まあ,気持ちはわかるけどね。俺はこれだけわかっているんだという自負心が強いんじゃないかと思う。


 「もうそうなったら,弊害だね。」


 しょうがないね。自分が気づくまでは変わらないと思う。
 
 「しかし,あなたはジャズもクラシックも聴くけど,本当のところはどうなの。」
                          
                         (つづく)

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