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私の音楽体験記事は,2007年12月を最後に,以来,ちょうど9年が経過しました。 これまでは,どちらかというと,クラシックとの出会いやジャズとの出会いも含め,そのいきさつなどを書きましたが,その後,ジャズへの理解が深まったことによって,マーラー以降の20世紀音楽にそれほど抵抗感なく聴けるようになったことが,音楽鑑賞上の大きな成果となっています。
それは,一口にいえば,時代が近いということもできますし,ジャズのミュージシャンの多くがドビュッシーとか20世紀の作曲家の影響を受けていることもあると思います。
また,20世紀は,どちらかというと,作曲不振,演奏上位といわれておりますが,今世紀に入った今もそうでしょう。
それは大体19世紀までは,作曲家がどういう作品を書いたか,ということに人々の関心を集めていましたが,20世紀に入ってからは,特に複製技術の発展と相まって,過去の作品よりも,過去の作品をどのように演奏したかということに人々の関心が移っていったこともあるからでしょう。
裏を返せば,もはや過去の大作曲家の作品ほど,人々に感銘を与えることが難しくなっていったということもあります。
特に,戦後の現代音楽は,一部LPやCD化されたものを除き,殆ど大衆が耳に触れることなく,専ら戦前までの名曲を中心に,今日ほど,これでもかというように多くの演奏家がコンサートを開き,あるいはレコーディングする時代となっていることからすれば,それは明らかです。
戦後に開花したモダン・ジャズについていえば,作品に相当するテーマ曲を,単に演奏するための肥やしに過ぎないものとし,それによっていかに演奏するかが注目されたことは,ジャズも演奏という点で,同じ基盤(時代背景)が生んだ芸術だったといえます。
20世紀のクラシック音楽の中には,もうすでに五線譜はやめて,図形楽譜とか,いくつかの断片(モチーフ)を提示して,どういう順番に弾いてもかまわないというように,演奏者の自発性に委ねるというような作曲方法もでてくるようになりました。
このことは,まさに作品(作曲)に対する関心よりも,演奏そのものが芸術として注目される時代となったという象徴的な表れではないでしょうか。
ジョン・ケージという作曲家は,チャンス・オペレーションなる音楽(偶然性の音楽)を1950年代になって考案したのですが,これはモダン・ジャズと非常に似通ったスタイルの音楽のようで,ケージがアメリカの音楽家であったという点でも同じ時代背景から生まれた芸術ではないでしょうか。
さて,19世紀は主としてベートーヴェン〜ワグナーといった作曲家によるドイツ・ロマン主義が主導権を握っていた時代だったわけですが,19世紀も後半,20世紀近くになると,1883年のワグナーの死に象徴されるように,その後は,印象主義,表現主義,原始主義,神秘主義,騒音主義といった音楽上のイズムが台頭し,一極集中といった時代は終わったわけですが,モダン・ジャズも50年代まではビ・バップ〜ハード・バップが主流だったが,50年代末から60年代になると,ファンキー・ジャズ,ジャズ・ロック,モード・ジャズ,フリー・ジャズなど,様々なスタイルのジャズが生まれ,こちらも一極集中の時代が終わったわけで,歴史は繰り返すというわけではありませんが,実に似通った経路をたどったと思います。
因みに,表現主義の立場をとったシェーンベルクは,やがて十二音技法という作曲方法を発見し,「これで今後100年間のドイツ音楽の優位が保証できると思う」と語っていたというエピソードがあります。
その十二音技法による音楽は,弟子のウエーベルンによって更に深化発展させられ,後期ウエーベルンの作風は,第二次大戦直後の作曲界のスタートとなって,やがて,ミュージック・セリエルといったスタイルの音楽を生んでいったということは,周知のとおりです。
しかし,そのミュージック・セリエルといった音楽は,1950年代までが最盛期とされ,その後様々なスタイルの現代音楽が生まれていることは事実であるので,ミュージック・セリエルだけが現代音楽だとはいえない状況となっております。
因みに,表現主義とは,20世紀初頭,印象主義に対する反動として絵画を中心に起こった芸術運動の概念を音楽に転用したものといわれ,音楽上は,内部から外へと独自の感情世界を主観的に表出することを主眼とした,主にゲルマン系の運動だとされています。
さて,ここから,わたくしの独断と偏見,ないしは思い込みという,およそ学説とは縁もゆかりもない珍説・俗説?を開陳し,思いつきだという批難のそしりを免れないことを覚悟で,大雑把なところでいわせていただきますと,まず,表現主義に至るルーツといいますか,その萌芽は,ベートーヴェンの後期の作風にあるのではないかと思われます。
ご存知のとおり,ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲は,晩年におけるベートーヴェン個人の心情の吐露といった感が色濃く表れていると思うからです。
この晩年のベートーヴェンの血統を継いだのが,ワグナーという作曲家で,劇というストーリーの中で人物の心理描写を音楽的に行っているからです。
また,ベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲には,無限旋律(広義には,リズム的・和声的な段落感・終結感をもたない,自由な旋律一般をさす。)というものも表れているといわれ,無限旋律で有名なワグナーが,ベートーヴェンの後期の作風を研究?あるいは参考にしたのではないかと思われます。
そのワグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」は,半音階のおばけともいわれ,半音階を駆使したことにより,調性感のあいまいさを生み,これがシェーンベルクらの無調音楽に繋がっていった,ということは,よくいわれていることです。
一方,ベートーヴェンの第九交響曲のような大管弦楽は,ベルリオーズの幻想交響曲を経て,マーラーなどの大掛かりな交響曲へと発展していきましたが,そのマーラーは現代音楽への道を開いた人だともいわれております。
マーラーの音楽は,調性音楽の限界にも達し,交響曲第10番(未完)のアダージョは,無調の世界と隣り合わせとなっている感じがいたします。
また,音楽の中心が次から次へと様々な楽器(群)へと目まぐるしく移ったり,異なる旋律の併存などといったマーラーの多声音楽は,ある特定の調性感を弱め,これが調性の破壊に繋がっていったものではないかと思います。
ところで,調性が確立されたのはバロック初期だとされ,以来,延々と機能和声を主体とした音楽が山ほど作曲され,様々なイズムやスタイルの音楽が生まれましたが,その結果,調性自体が否定されるような無調の音楽が生まれるに至ったことは,音楽の根幹に関わることだったと思います。
わたくしは,以前,西洋音楽の発展史観というものを信じていたものですから,無調の音楽はさぞ素晴らしいものだと思い込んで聴いたところ,砂を噛むような思いをしたことがありました。
ところが,無調音楽に慣れますと,無調も数々ある調性の一つ(無調という調性)だという感が否定できなくなりました。
そのことからすると,第1次大戦と第2次大戦間の音楽(現代音楽につながる音楽)は,後期ロマン主義(ベートーヴェンから地続き)だという音楽史観は,そのとおりだと思えるようになりました。
さて,これまでのわたくしの音楽鑑賞上の革命は,2回ありました。1回目は,前回に書きましたマーラー体験です。
マーラー以前の,例えば,ブルックナーにしろ,ブラームスにしろ,ザックリいうと,主旋律に対する伴奏的旋律で音楽が構成されており,主旋律さえ分かれば,伴奏的なものは,多少聴き逃しても,チンプンカンプンになることはないが,マーラーの場合は,主旋律が頻繁に移りかわり,どれが主旋律かも分からないというか,複数のモチーフが同時的に表れ,そういった鳴り響きの細部まで聴感上把握できないと楽しめないところがあります。
だから,それだけマーラーを聴くには,集中力が要求されますが,そういう音楽に慣れますと,これまで聴いてきたブラームスなどの交響曲の伴奏部分がより一層把握できるようになり,全く印象が変わったことは,前回述べたとおりです。
そういう観点から,例えば,ドヴォルザークの新世界交響曲。これなんかは,ある意味手垢のついた通俗名曲の誹りを免れませんので,クラシック・ファンの間で,「何だ,まだ君は新世界なんか聴いてるのか」といったように,ばかにされることを恐れて,本当は好きなんだけど,それがいえないというような存在の曲です。
確かに,誰にでも分かり,そのよさがすぐに感じられる曲で,クラシック入門曲の最たるものの一つだといえますが,それだけに,すぐ飽きられてしまう曲でもあるようですので,マニアは見向きもしないといった向きがないでもありません。
しかし,この曲の細部まで聴き取ろうとすると,容易ではないかもしれません。わたくしは,マーラー体験後,この曲の細部まで聴き取ることができるようになったため,これはドヴォルザーク最後の交響曲に相応しい凄い曲だという実感があります。これが分かると,曲と一体となり,完全燃焼することができます。
だから,このマーラー体験が音楽鑑賞上の一つの革命(これまで聴いてきた曲が大いに見直され,分からないと思ったワグナーの楽劇も分かるようになるなど)となったわけです。
因みに,作曲家の柴田南雄氏は,マーラーの第1番〜第4番までが,ワグナー的世界,第5番以降はシェーンベルク的世界といっておりますので,初心者は,第4番までの曲から入られた方が無難かもしれません。
さて,第2の革命は,十二音音楽との出会いです。十二音音楽による効果は,マーラーを含め,これまで聴いてきた調性音楽をモノクロTVだったとすれば,それがカラーTVに変わるといったふうなのです。
実に,これまでよりもなお一層,鮮やかに調性音楽が聴こえてくるというわけですが,そればかりでなく,調性が確立される前の多声ルネッサンスの音楽までもが分かってくるといった具合なのです。
このように,第2の革命を経た後は,ジャズにおいても,例えば,トリオやカルテット,或いは渾然とした集団即興演奏でも各楽器の聴き分けも,以前よりは容易となった感があり,今ではこれまでにない音楽の感動の新しいステージとなったという感があります。
中学生の頃,アメリカン・ポップスを経てクラシックに目覚め,以来,浮気することなく聴き続け,おまけにジャズや十二音音楽といったものまで聴くようになったことは,当時としては,想像もつきませんでしたが,中学生の頃,ワグナーを聴かされ,「これはあなたには分からない」といわれたことが,くやしくて,何とか分かってやろうと思うバネとなったわけで,これが音楽鑑賞上大きな支えとなっています。
音楽は出会いであり,それとどう向き合うか。好悪で判断すれば,その方向の世界に止まるし,これは何だろうと,真剣に向き合っていけば,新たな世界が開けると思います。
初めてマーラーを聴いたときだって,十二音音楽を聴いたときだって,分からないと思った。
しかし,その分からなかった音楽が分かってしまうと,不思議とその手の音楽がわかるようになっている自分に気付きます。
新たな感覚を獲得したということなのでしょうか。後藤雅洋氏が「チャーリー・パーカーがわかるとジャズがわかる」といったのも同じことです。
最後になりますが,体験に伴う具体的な個々の曲とかは,今後,別個にご紹介するとして,手前味噌ではありますが,ジャズとクラシックは,理解を求められる音楽の両輪であると思います。
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私の音楽体験
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グスタフ・マーラーに目覚めた頃は,専らリヒャルト・ワグナーやアントン・ブルックナーにも夢中になって聴いていたのですが,その後,主な流れとして,ロベルト・シューマンのロマンチックなところにも目覚めて,シューマンの器楽曲や室内楽をずいぶんと聴きました。 |

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クラシック音楽を聴き始めた頃は,メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲をきっかけに,モーツァルトやベートーベン,シューベルト,ドボルザークなどの曲を心浮き浮きするような感動で聴いていったのですが,リストやワグナー,ブラームスの音楽は難しかったために,「N響名曲事典」や「名曲解説全集」などの楽曲解説を中心とした本を頼りに理解しようとしました。 |

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私がクラシック音楽を聴き始めた頃のことですが,初めて開眼したのがメンデルスゾーンのバイオリン協奏曲(ホ短調)でした。 |
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一般にジャズはお洒落な音楽,クラシックは高尚な音楽だという認識があるようです。50-60年代のモダンジャズは決してお洒落な音楽ではないのだが。それと比べると今のジャズがクールで雰囲気的にもムードがあり,また,店内でバックグラウンドでジャズを流していることなどからそういう印象を与えているのかも知れない。また,クラシック音楽はLPやCDの普及などで,より大衆化されたとはいえ,一部には敷居が高いとの印象もあるようです。 |
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