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「通」好みのブルックナーの神髄

 さて,同じように長い曲を書くブルックナーも,日本人の「通」好みの作曲家だ。

 クラシックを聴く習慣のない人には,ほとんどなじみのない名前だろう。

 ブルックナーはオーストリア出身で,ヴァーグナーとは違ってたくさんの交響曲を書いた。

 名指揮者ギュンター・ヴァントや,日本人指揮者の長老,朝比奈隆はブルックナーが得意だった。

 彼らは,そのストイックな風貌が人びとに神秘的な印象を与えていた。

 ブルックナーには厳格そうな指揮者のほうが似合っているし,それを振る姿は神格化されやすいのだ。

 ブルックナーは初心者には厳しい。

 聴き手に媚びずに,色気もないので,最初はなかなか入り込みにくい。

 しかも,同じような旋律が繰り返し出てきて頂上を極めて終わりかと思えば,また静かな音楽が続き,そしてまた上昇する,と延々と繰り返すので,最後には「早く終わってほしい」と思うようになる。

 本当のクラシック好きにはブルックナーの音楽の神髄がわかるのだろうが,苦手だという人も多い。

 おそらく両極端に分かれるはずだ。

 彼の音楽はヴァーグナーよりずっと直線的で優美さがなく禁欲的だ。

 まるで巨大なオルガンのような分厚い音が鳴り響き,音で大きなモニュメントを築き上げようとしているかのようである。

 この音楽の大きさ,神秘性はどう理解すればいいのだろう。

 そしてそれに比べて一人ひとりの人間のなんと小さいことか。

 人間はこの音楽を前にして,すべてを投げ出して頭を垂れるしかないのだろうか・・・・。

 ブルックナーは,技法的にはヴァーグナーから多くを学んだ。

 そして彼はベートーヴェンの「第九」にきわめて深い感銘を受けたという。

 また,ヒトラーはヴァーグナーやベートーヴェン同様,ブルックナーも愛し,彼はその胸像の前で脱帽したといわれている。

森佳子著「クラシックと日本人」(青弓社,2004年6月20日発行)より抜粋


【ジャズ・ヒロシの感想】

 この「通」好みのブルックナーの神髄は,前回の「ヴァーグナー崇拝」に文章として続くものだが,「ヴァーグナー崇拝」の記事が長かったのに反して,長い音楽のブルックナーにしては,非常に短くまとめられている。(笑)

 というわけで,ワタクシの感想も手短にしたい。(笑)

 前にも書いたことだが,ワタクシのブルックナーとの出会いは,中3か高1の頃だった。

 高田馬場にあるムトウ楽器店のクラシック・コーナーだった。

 当時ここは店の2階にあり,独立した室だったので,外から隔絶されていた。

 店の二十代かと思えるお兄さんの導きにより,カール・シューリヒト,ウィーンフィルによる第9番の冒頭を聴かされ,即購入したのがきっかけだった。

 ブルックナーという作曲家は全く知らなかったし,音楽の教科書にも名前がなかった。

 しかし,近所のおじさんの家でこれを聴いて,衝撃が走った。

 これは凄い曲だというのが第一印象だった。

 特に第1楽章には圧倒的なインパクトがあった。

 そんなことから,高1の時,クラブの顧問の先生にそのことを話したが,ブルックナー?,という印象だった。

 また,第1楽章の主題の譜面を音楽の先生にも見せたら,流石に音楽の先生だけあって,すぐさまそれを口ずさんでくれたが,それ以上のコメントはなかった。

 近所のおじさんも,買ってきたLPをかけたものの,何を買ってきたのだという怪訝そうな顔つきだった。

 まあ,そんなことだったから,あ〜あ,誰もわかってくれないと,暗澹たる気持ちになった。

 そういう体験があったものだから,筆者がいう「ブルックナーは初心者には厳しい。」ということが即座に理解できなかった。

 自分自身の体験では,ブルックナーの方がマーラーよりもとっきやすかった。

 そのことは,以下の記述と符合するのではないかと思う。

 作曲家柴田南雄氏の著書「音楽の理解」(青土社1978年発行)の「ロマン派の交響曲」の項で,「マーラー(1860〜1911)は,交響曲としか言いようのない曲種で途方もなく新しいことを敢行した作曲家であり,その存在意義は断然大きい。」とし,ブルックナーとマーラーは「人間も作品も似ても似つかない。ブルックナーもずいぶん変わった点はあるが,その本質はごく伝統的であると思う。」と書かれている。

 要するに,とっつきやすいかどうかは,マーラーが「途方もなく新しいことを敢行した」点で,とっつきにくく,ブルックナーの「その本質はごく伝統的である」ため,とっきやすいということになるのではないだろうか。

 しかし,ブルックナーの方がとっつきやすいといっても,五味康祐氏が「やっぱり長いなあ。水増しされてるなあ。」と嘆き?,閉口しているように,「最後には「早く終わってほしい」と思うようになる。」というのも事実あると思う。

 ワタクシも一時期,そういう感じになったこともあった。

 要するに,筆者がいうように,同じような旋律が繰り返し出てくるので,緊張感が保てないのだ。

 たぶん,ここが「初心者には厳しい。」ところではないだろうか。

 だから,筆者のいうように,苦手だという人も多く,評価が両極端に分かれるということになるのだろう。

 評価が両極端に分かれるという意味では,ワーグナーもそうらしいが,特にブルックナーは,女性には嫌われているようだ。(笑)

 その点,マーラーは変化に富んでおり,少しも飽きさせない。

 しかし,そういうブルックナーの難しさを克服できれば,至福の時が待っているのだ。

 以上で,感想は終わりにするが,「ブルックナーのシンフォニー」という吉田秀和氏のエッセイ(昭和44年,レコード芸術)から抜粋しておまけとし,ブルックナーの長さに貢献?したい。(笑)

 先日,アメリカ合衆国からきたあるピアニストと雑談していたら,このごろはアメリカではマーラーとブルックナーの演奏がやけに多く閉口だ。どうしてこんなことになったのだろうかとぼやいていた。

 私が,ブルックナーをはじめてきいたのは,1953年,そのアメリカにおいて,フィラデルフィア・オーケストラをヴァン・ベイヌムが指揮したときである。

 ベイヌムは「第七」をやった,と覚えている。きき終わって休憩に廊下に出たら,ヴィリ・アベルと名乗る老人に出会い,「ベイヌムの指揮は,ニキッシュに似てると思うが,どうか?」などいわれた。

 アベルという名にすでに驚いたうえに,ニキッシュなどという名を持ち出された私は,挨拶の仕様もなかった。

 そんなことを覚えているのも,当時はまだ,アメリカではブルックナーをとりあげるのは冒険で,現に演奏中に席を立って出てゆくものもいたくらいだったからである。

 ニューヨーク・タイムスのオーリン・ダウンズのこの演奏会の批評も,明らかにこの交響曲を持てあました感じが出ていた。そういう情勢が,その後一変したらしいのである。

 日本とて,同じようなものだ。

 最近はブルックナーをやると,かえって客が集まるのだそうである。

 ブルックナーの何の魅力にひかれてのことか!

 きまっているではないか! ブルックナーといえば,まず,あの重厚さ,荘重さ,金管の重量感のあるファンファーレと,壮麗な旋律,和声の妙,対位法のおもしろさだなどという人もいる。

 そうにちがいないが,それよりもブルックナーといえば,まだ,何か一通りの聴き方,つまり一つにきまった演奏の仕方しかなく,これを達成しているのだけが真のブルックナーで,あとは芸の境にいたらぬもの,不完全なもの,あるいは邪道であるものというふうにきめてかかるような気配が濃厚な,この国のブルックナー・ファンのあり方が,私には,あんまりわからないのである。

 ひいきの引き倒しというか。いかに好きだといってもこう自分の好みにしがみつき,他人を排斥するのは感心しない。

 ブルックナーといっても,もう少数の専門家しかやらない時代は,とっくに過ぎ去ったのである。

 それはこの作曲家の生前から死んだ直後のシャルク兄弟とかリヒターとかのころの話だ。

 そのあとフルトヴェングラー,クナッパーツブッシュ,ヴァルター,ヴァインガルトナー,クレンペラー,メンゲルベルク,ベイヌム,ヨッフム等々の錚錚たる大家たちが競ってブルックナーに対するそれぞれの見解を示し,その真髄と信じるものを演奏によって公衆に提出したあと,今日では,ブルックナーを全くやらないというほうがその人の音楽観と音楽性を端的に示すという時代に入っているのである。

 いまではクレンペラー,ジョージ・セルからごく若いメータにわたる広大な年代の層にわたる指揮者たちが,こぞって彼をとりあげている。

 あと何年かしたら,ブルックナーがベートーヴェン,モーツァルトらと同じように,全く国際的なレパートリーになるかどうかは,また別の問題があるけれども,考え方によっては,ブラームスだってまだ充分にそうなっていないのであり,逆にまた,トスカニーニ,デ・サバタ,モントゥー,ミンシュ,クリュイタンスといったラテン型の指揮者たちがブラームスを完全にとり入れてしまったように,ブルックナーもそうならないとは誰にもいえないのである。

ヴァーグナー崇拝

ヴァーグナー崇拝


 ドイツのオペラ作曲家ヴァーグナーは,日本では「通」好みの作曲家の一人だ。

 彼はオペラを総合芸術とみなして,文学としても重視していた。

 芸術家にありがちな自由奔放な生活を送った人で,ベレー帽をかぶった横顔の肖像画で知られている。

 また,ほかの作曲家の彼に対する評価はどこの国でも高く,その才能は羨望の的であり,同時に乗り越えなければならない存在でもあった。

 それにしてもクラシックの啓蒙書で,なぜヴァーグナーなのかと思われるかもしれない。

 しかし彼こそが,日本人の初期のクラシック観を形成した人物なのだ。

 日本人にはヴァーグナー崇拝者が多い。

 ヴァーグナーだけ聴くという「通」も多い。

 ヴァーグナー上演で有名なバイロイト音楽祭は,日本人でいっぱいだという。

 全四作の「ニーベルングの指輪」は,一作づつ四夜に分けて上演するのだが,日本人には人気のレパートリーである。

 一作だけでも相当に長いので聴くのはたいへんだが,ファンは苦にしないようだ。

 しかしドイツ以外では,ヴァーグナーだけ聴くというクラシック愛好家は少ないだろう。

 ドイツ人でさえ,「ニーベルング・・・」を聴きにいくときは,がまんして聴いているのだそうだ。

 オペラを聴きつづけてきた私も,ヴァーグナーを聴くためには相当の忍耐がいるのだ。

 ヴァーグナーやブルックナー,マーラーは,日本人の「通」が最も評価している作曲家ではないだろうか。

 彼らにかかるとまるで聖人か宗教者扱いである。

 まず,三人に共通しているのは,曲が長いということだ。

 慣れない人が長大で重苦しいこれらの曲を味わえるようになるまでには,かなりの時間を要するだろう。

 修行のような訓練をへて,次第に彼らの音楽に恍惚感を覚えるようになり,彼らを神格化するようになる。

 余談だが,個人的には三人のなかではマーラーがいちばん聴きやすいと思う。

 初心者にはまず『交響曲第1番「巨人」』を聴くことから勧める。

 最初から『交響曲第2番「復活」』などのような,長い作品はやめたほうがいい。

 明治時代のヴァーグナーは,特別な存在だった。

 明治・大正期の音楽雑誌「音楽界」(楽界社),「音楽世界」(十字屋田中商店楽器部),「音楽」(共益商社楽器店)などを見ると,ヴァーグナーの記事が毎号必ずといっていいほど掲載されている。

 作品解説や美学上の問題など,さまざまな視点からいろいろな人たちが書いている。

 当時の知識人たちは,彼を紹介することを競い合っていたのである。

 たとえばMH生という人物(当時,雑誌に寄稿する人は,このようなイニシャルのペンネームをよく使っていた)は,1907年に「音楽世界」四月号の「ワグネル小伝」(ワグネルはヴァーグナーのこと)で,ヴァーグナーについて,「世に偉人なるものを挙ぐれば,吾人は只に楽界の偉人としてのみならで,人として偉大なるワグネルを挙げねばならぬのである」と語る。

 彼をまるで宗教者かなにかのように尊敬している様子がわかる。

 また,樂峯生という人物は1910年に「音楽界」五月号の「リヒャルト・ワグネルの音楽」という記事で,「凡そ芸術は言語と等しく,実に人間結合の一機関であって,従って進歩=幸福に対する人類前進行動の一機関であると思ふ・・・・」とし,さらに,芸術は善良なる感情をはたらかせるものだと断言したうえで,「惟ふにワグネルの大作品のごときは,又此事実の上に生まれ出でしならんか。余はここに,彼れの音楽がじつは善良なる芸術的運命を有するを信ずると共に,更に絶大なる芸術的作品なる事を賞賛し以て此稿を終わらんかな」と書いている。

 つまりヴァーグナー作品は,人間の進歩と幸福に不可欠な善なる感情を育てる芸術の根幹をつかさどるものだ,と手放しで絶賛しているのだ。

 「善=芸術」という単純なシェーマによってすべてをはかろうというのだから,いまの私たちにはとても理解しがたい。

 当時,ヴァーグナーはヨーロッパで絶大なる影響力があったから,渡欧していた日本人は影響を強く受けたにちがいない。

 彼らは当然その情報をもち帰っただろうが,クラシック後進国の日本では,神のような存在に感じられただろう。

 しかし,もしもその当時,ヴァーグナーでない別の作曲家がヨーロッパに君臨していたとすれば,日本のクラシック史はまったく別の道を歩いたのかもしれない。

 中村洪介「西洋の音,日本の耳」(春秋社,1987年)によると,「明治時代,殊に明治三十六年(1903年)をピークに,日本の文壇にきわめて強い影響を与えた奏正音楽家はリヒャルト・ヴァーグナーである」とある。

 中村によると,森鷗外が最も早くからヴァーグナーに関心を寄せていたようだ。

 その後,土井晩翠,島崎藤村,上田敏,永井荷風,石川啄木,田山花袋といった,錚々たる文人たちがあとに続いた。

 そして,日本人によるヴァーグナー支持を決定的にしたのは姉崎嘲風だった。

 前にもふれたが,当時の日本でオペラをまるごと上演することは困難だった。

 明治時代に東京帝国大学ワグネル会が「タンホイザー」の日本初演をあきらめてから十年後,1913年には「ヴァーグナー百年祭」が東京音楽学校奏楽堂でおこなわれている。

 しかし,このときもオペラのなかの抜粋ばかりが歌われた。

 文人たちの熱狂ぶりは,日本に「ヴァーグナー聴かずのヴァーグナー論者」を数多く生み出すことになったと中村はいう。

 ヴァーグナーはオペラ作曲家だが,マルチ舞台芸術人間でもあった。

 つまり本人はただの音楽家であるつもりは全くなかった。

 しかし残念なことに,当時の日本で完全なオペラ上演はできなかった。

 むろん,オペラのあらすじやその思想は雑誌に紹介されていた。

 ごく一部の文化人のなかには,ヨーロッパのオペラを観た人もいたが,大半の日本人はヴァーグナー作品を劇としてでなく,音楽として聴いていた。

 彼の本当の芸術にふれる機会はなかったのだ。

 もっとも,ヴァーグナーの作った歌のなかには,それだけで深く感動を与えるものも多い。

 たとえば「タンホイザー」のヴォルフラムの歌。

 メロディーは単純で,なにも高度なテクニックはない。

 しかししみじみとしていて飾りけがなく,それでいて繰り返し口ずさみたくなる。

 あるいは「ニーベルングの指輪」第二夜,「ヴァルキューレ」のジークムントの愛の歌。

 これは,双子の妹への許されざる愛がテーマなのだが,そのメロディは心を打つ。

 こういう歌を聴けば,とにかく長くて退屈なヴァーグナー作品への苦手意識が,少しは解消していくのではないだろうか。

 日本ではヴァーグナーのオペラが全編とおして演じられることはあまりないが,序曲だけとか部分的に聴く機会は多い。

 おそらくだれでも耳にしたことがあるはずだ。

 また,彼に関する書物は多く,世界中で彼に対する関心度がどれだけ高いかを物語っている。

 そして,いまでは彼の音楽は日本にすっかり根づいている。

 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」前奏曲は,単独で演奏されることが多い。

 「ニーベルングの指輪」の「ヴァルキューレ」のテーマは,テレビのコマーシャルにもよく使われている。

 「ローエングリン」の婚礼の曲も,メンデルスゾーンのものと同様,だれでもよく知っている(しかし,ストーリーのなかで,この音楽は不吉な未来への前ぶれでもあり,結婚式の入場行進曲としてはふさわしくないにも思うのだが・・・・)。

 日本で親しまれているこれらの曲は,堂々として,勇壮で,輝かしく,品格がある。

 ヴァーグナーはおそらく独自の完全なる理想への上昇志向をもっていて,それを果たしてくれる英雄=神を音楽で描いたのだ。

 ところで,ヒトラーに愛されたヴァーグナーが反ユダヤ主義であり,ヴァーグナーの聖地であるバイロイトがまさにナチの牙城となったのは周知のとおりだ。

 ドイツ民族の血の誇りがヴァーグナーの音楽には表現されていて,そこがヒトラーに気に入られたのだ。

 当時の日本人にはそのような誇示された民族的アイデンティティーが,自分たちの理想であるように感じられたのだろう。

 二十世紀前半でドイツがたどった道を,日本もまた同じように歩いた。

 高揚していく国粋主義はだれにも止められず,ドイツも日本も,音楽をその手段の一つにした。

 長い間,ヴァーグナーは日本人にとって理想だった。

 「西洋音楽はすごいのだ」という意識が,当時のドイツがとっていた外交政策をますます正当化することになった。

 音楽には洗脳力があるし,国民を一つに束ねることができる。

 日本とドイツの侵略から破滅への道程は常に音楽とともにあった。

 このさい,ヴァーグナーのオペラのストーリーは置いておく。

 ヴァーグナーの音楽は崇高で,巨大な宇宙を築く。

 そしてその重厚な響きが,聴く人を圧倒する。

 たとえば「ヴァルキューレ」のテーマでは,トランペットの勇ましいメロディが重々しく突き抜けるように空間を支配し,深く心のなかに入ってくる。

 そしてそれは,英雄の誕生と将来の勝利を予感させ,「神の民族の勝利」へ向かうのである。

 それは「万世一系の現人神」が統べる国,日本と共通のものをもっているのかもしれない。

 日本人が,ヴァーグナーが表現したドイツ人の「血の誇り」に憧れてきたのも自然なことなのだ。


森佳子著「クラシックと日本人」(青弓社,2004年6月20日発行)より抜粋



【ジャズ・ヒロシの感想】

 明治というと,「富国強兵」,「文明開化」,「欧化政策」というような言葉が浮かぶが,長い間鎖国していた日本が西洋文明に触れ,その落差に驚嘆する?とともに,西洋への憧れ,西洋に追いつけ追いこせといった風潮とその時代が西洋では丁度ワーグナー全盛期であったため,わが国における明治のワーグナー・ブームといった現象が生まれたというわけです。

 しかし,明治にワーグナー・ブームがあったことは,この本を読んで初めて知ったが,「ヴァーグナー聴かずのヴァーグナー論者」を数多く生み出すことになったとは,実に珍妙な話である。

 まあ,数十年前に興ったマーラー・ブームとは全く異なった現象であるが,明治のワーグナー・ブームについては,「明治のワーグナー・ブーム近代日本の音楽移転 」(中公叢書)という本に書かれているようです。


 さて,「ほかの作曲家の彼に対する評価はどこの国でも高く,その才能は羨望の的であり,同時に乗り越えなければならない存在でもあった。」というように,作曲家であれば,誰もその影響から逃れることはできなかったといわれているほどの存在であったといわれ,作曲家にとって,乗り越えなければならない存在でもあったということは,今日の聴き手にとってもそれはいえるのではないかと,個人的には思う。

 この本にも書かれていますが,私もある時期,ワーグナーとブルックナーしか聴かないということもありました。

 しかしその後,マーラーを知って,レパートリーが拡大しましたので,それ以外の作曲家の曲も多く聴くようになりました。

 筆者は「通」が評価する三人の中では,マーラーがいちばん聴きやすいと書かれていますが,私はブルックナーだと思っていました。

 でもしかし,同じような長さのマーラーよりもブルックナーの方に退屈さを感じさせるといわれていますので,そういう意味では,筆者のいわれていることが正しいと思います。

 ところで,ヒトラーがワーグナーに心酔してたというが,それがいかほどのものであったか,ということについて,歴史のサイド・ストーリーとして興味があるというような趣旨のことを,日本政治思想史の研究家だった丸山眞男氏はいっていたようです。

 因みに,丸山氏は,クラシック音楽にも造詣が深く,否定的であったワーグナーであったが,バイロイトで「ローエングリン」を聴いて,恥ずかしいことに,いっぺんにワーグナーにいかれちゃったという趣旨のこともいっていたといわれています。

 まあしかし,初心者にとっては,ワーグナーは難しい存在ではありますが,これだけクラシックが大衆化した今日,全く手の届かない存在ではなくなったのも事実だと思います。

 さて,ちょっと脱線してしまったが,先に掲げた作曲家とその作品とは別に,とっつきやすい作曲家というのもある。


 たとえば,ドヴォルザークやチャイコフスキーがそうだが,前者では,新世界交響曲といわれる第9番,後者では,バイオリン協奏曲がある。

 また,シベリウスの交響詩「フィンランディア」も聴きやく感動的な曲だ。

 というわけで,ある曲やある箇所(楽章)を何回も聴けば,自ずとわかってくるが,その熱意がなければ,これはできない。

 そうやって,きっかけがつかめれば,あとは色々と手広く食指を広げればいいし,宮本氏の奨めるいくつかの楽しみ方が参考になると思う。

 しかし,そうやってクラシックのよさがわかり,感動できるようになったからといって,直ちに四百年に対応することは難しい。

 このため,きっかけを得て,手広く聴いていっても,真に感動するまでには時間がかかるし,そうしてのめり込む前に挫折してしまうかもしれない。

 だから,クラシックはある意味年季のいる音楽で,老人が多いというのもそのためだったのである。

 そういう意味で,クラシックの趣味は一生ものといえるが,演奏家が晩年,円熟してくるように,聴き手も老人になる頃には,円熟してくるわけで,音楽の受け止め方がより深く感じられるようになる。

 だから,定年後,「クラシックでも聴いてみよう」と思われるのは,いいことだが,以上のことから,長年聴いてきた人とは,かなりのハンデがあるのは,覚悟しなければならない。

 まあ,失われた時間を取り戻すといえば,カッコイイが,よほどの努力を要するのではないかと思う。

 ところで,交響曲という単語は,シンフォニーの邦訳だが,語源的にはギリシャ語の完全なる協和の響きという意味に由来するといわれている。

 邦訳の「交響曲」は,響きが交わる曲という意味に解すことができ,実に的確な訳だと思う。

 つまり,交響曲はオーケストラの様々な楽器が奏でる音や響きを聴く曲で,それらを聴き分けることが求められる。

 だが,交響曲の多声的な音やハーモニーなどを同時的な時間軸で聴き分けられるようになるには,ある程度の訓練がなければ,容易ではない。

 しかし,これができるようになると,音楽に対する感銘度が全く違ったものになってくる。

 それは表層的なものからより本質的なものへと音楽の理解が進むというわけだが,ただ漫然と聴いているのでは容易ならざる世界なのだ。

 因みに,交響曲の初めは,純器楽によるものであったが,ワーグナーのオペラも声楽付きの交響曲と解され(シェーンベルク),マーラーの声楽付きの交響曲(第2〜第4,第8,「大地の歌」)もあるが,何れも響きが交わる曲という意味では,交響曲の本質に変わりないということになるわけであります。

 さて,様々な楽器の音やハーモニーなどを聴き分けるためには,オーディオも疎かにすることはできない。

 弘法筆を選ばずという言葉があるが,初心のうちはできるだけいい音で聴きたい。

 最近の音響製品は,ひと昔と違って,明らかによくない音というのはないと思われるが,いい音を出すには,使いこなしも重要なので,どうやってよりいい音を出すかということに配慮しなければなりません。

 因みに,逸品館というオーディオ・ショップのコラム?には,次のようなことが書かれていました。

 『逸品館がお薦めするオーディオ機器は,例え価格が安くても「音楽が伝わる力」を持っています。逸品館お薦めのオーディオ機器を使っていたら,「クラシックがこんなに素晴らしい音楽だったと初めて気づいた」という声が寄せられることがあります。それは,やはり同じようにオーディオ機器が良くなって「クラシックの良さに目覚めた私」には,とても共感ができる,嬉しく思えることです。』


 まあ,ワタクシは中学2年から聴いてきたという,いわば大ベテラン,年季だけは(笑),ですが,もう半世紀以上前のSPを使ってある程度の音を聴き分け,それなりに満足し,最近では昔ほどオーディオにのめり込んでいませんが,ここがこう鳴ってくれればと思うと,何とかしたいという気持ちは捨てきれません。

 さて,ジャズ・ヒロシの感想だか何だか分からない文章となってしまいましたが(笑),筆者の宮本氏は,名曲喫茶「ショパン」の店主だそうで,最初は中野坂上で開店されていましたが,現在は要町で「ショパン」を営業しているようです。

 氏は,学生時代,当時かなりの数があった名曲喫茶に入り浸り,コーヒー1杯飲むと,その日1日はコッペパン1個で我慢したが,食べることを犠牲にしてまでクラシックを聴いたというのだから,そのハングリー精神たるやワタクシごときには遠く及ばないものがある。

 いつか機会があったら,「ショパン」に足を運んでみようかと思っている

  その際は,その後,初老の紳士はどうなりましたか?と,訊いてみたいものだ。(笑)

 因みに,楽天ブログに「名曲喫茶ショパンへ行きました」と書かれたものがあり,宮本氏の人柄が伝わってくるかのようです。


 以上,長くなりましたが,クラシックへの入り口は一つに限らず,いくつもあると思います。

 要は,聴き続ける熱意と継続が扉を開くともいえるのではないでしょうか。

「作曲家を中心に聴く」楽しみ方。


 ある曲を耳にして,いい曲だなあ,いい演奏だなあ,と思ったら,次に考えるのは何だろう。

 私だったら当然「誰が書いたのか」だが,これはおそらく誰でもそうに違いない。

 感動が大きければ大きいほど,そんな曲を書ける作曲家への好奇心は,ふくれあがるものである。

 伝記か何かでベートーヴェンのことを知り,聴覚や視覚を失っていたり,一風変わった性癖や生涯の人だとわかったら,多分,もっと知ってやろう聴いてやろう,ともなるのではあるまいか。

 モーツァルト協会とかショパン協会,あるいはマーラー,シベリウス,ワーグナー,シューベルト,テレマンなどの名を冠したファン・クラブがあることからもわかるように,この聴き方もまた,多くの人々の関心を惹くポピュラーなものである。

 「演奏家を中心に聴く」楽しみ方。

 例外はあっても,クラシック曲というのは,楽譜通りに演奏するのが大原則である。

 ところがアレグロ(速く)とアダージョ(ゆっくりと),フォルテ(強く)と指定されていても,それが正確にどの程度なのかは明確でない。

 そのために指揮者やオーケストラ,独奏者によって,同じ曲が少しずつ違ってくる。

 演奏時間はもちろん,全体としての響きや盛り上がり,強弱のメリハリ,印象その他が違う。

 同じ曲をいくつかの演奏で比較してみると,そうした差が自然とわかり,自分のイメージに合う演奏,好みの演奏家などが誰でもしだいに固まってくる。

 その辺の比較,判断がこの聴き方の楽しいところで,大抵のクラシック・ファンは多かれ少なかれ,この聴き方を実行している,といっても間違いでない。

 「風変わりな作品を集めて聴く」楽しみ方。

 数あるクラシック曲の中には,当然ちょっと変わった珍しい作品というのがいろいろとある。

 例えば既出の「四分三十三秒」や,あちらこちらで音をはずすモーツァルトの「音楽の冗談」。

 催眠用に書かれたバッハの「ゴールドベルク変奏曲」や,同じフレーズをしつこく繰り返すサティの「ヴェクサシオン」など探せばいくらでも見つかるこの種の作品を追いかけて,通常とは,ひと味違った気ままな聴き方を楽しむ。

 一見へそ曲りのようにも見えるけれど,これはこれで音楽史の裏側,作曲家の素顔を覗くようで,じつに楽しい。

 苦手のクラシックにも,たちまち親しさが沸く聴き方である。

  「風変わりな演奏を集めて聴く」楽しみ方。

 さきに,クラシック曲は楽譜通りに演奏するのが原則と書いたけれど,これにはもちろん例外がある。

 原曲がオーケストラ用であるものをピアノに直して弾くとか,その逆にピアノ曲をオーケストラでといったいわゆる「編曲」版はいろいろな形のものがあるし,ポピュラー音楽並みに,大胆な編曲を施した「ジャズ風クラシック」とか,「ムード音楽ふうクラシック」,あるいは「ポピュラー・シンガーの歌ったクラシック」とか「冗談音楽ふうクラシック」などというのもある。

 すべてこの種の演奏を集めると,イージー・リスニングふうにクラシックを楽しめる。

 肩はこらないし,新鮮な感じも味わえる。クラシックは堅くてと思っている人にはまっ先にお奨めしたい聴き方,といえるかもしれない。

 この場合の材料も,レコード・カタログを覗くとごっそりと見つかるだろう。

 「気分に合わせて選曲する」楽しみ方。

 何を聴こうかなという選曲の基準に,その時その時の気分,感情をもってくる楽しみ方。

 今日はいいことがあったら,モーツァルトの「クラリネット五重奏曲」で幸せ気分を盛り上げてみようとか,「テレマンのターフェル・ムジーク(食卓の音楽)」で,王様気分の食事でも味わってみるとか,どうも眠れない,バッハの「ゴールドベルク変奏曲」でも聴いてみようかというふうに生活の中のさまざまな感情に音楽を合わせるわけで,各場面に何を選ぶかは,まったくの自由だ。

 といっても,いきなりでは候補曲が浮かばないから,予め場面とそれに合いそうな曲をあれこれと設定,ピックアップしておく。

 ゴールドベルク変奏曲のように,もともと催眠用に書かれたというエピソードがあるものなどは,そのまま利用してもよいし,こだわらずに当てはめてもかまわない。

 あくまでも自分の好みを優先させる気軽な聴き方である。

 「ナマ演奏で聴く」楽しみ方。

 レコード,ビデオ,テレビなど,いながらに楽しめる媒体のお蔭で,とかく忘れがちになるのが,ナマで聴く音楽の楽しさである。

 プレイヤーと直に接し,一回限りのスリルと興奮を,身体ごと受けとめる。

 これこそ音楽との本来的な付き合い方というべきで,時間と経済的余裕がある人なら,何はさておき実践してみる価値があるだろう。

 難点は,どんな曲目でも自由に聴けるというわけでなく,演奏者との組合わせもまったくあちら任せという点である。

 この点を我慢し,レコードなどとの併用で利用するなら,まあ,理想的な音楽ライフを満喫できるのではあるまいか。

 そのほか,「曲の構造に注目して聴く」楽しみ方とか,特定のテーマでプログラムを設定する「レコード・コンサート風」の楽しみ方,などというのもある。

 ともかくクラシック音楽の聴き方,楽しみ方にはいろいろな形があり,どれを選んでも興味深く,音楽のすばらしさを実感させるものばかりである。

 一つの方法を選んでも,聴き進むうちには必ず他の方法と交錯し,やがてはそちらにも興味を持つはず。

 そして知らぬ間に全体への理解や知識も広がっている,という好ましい展望が期待できるわけである。


                 宮本英世 著 1994年11月10日音楽の友社発行誌より


【ジャズ・ヒロシの感想】

 この記事に出てくる初老の紳士は典型的な会社人間だと思うのだが,世の中には,こういう人生を送ってきた人は,多くおられるのではなかろうか。

 ワタクシなんかは,早く仕事を終えて,好きなことをやろうとばかり思っていたから,この方のように,「地位も収入もかなり上の方」ではないが。(笑)

 要するに,人生において,どこにどれだけエネルギーを費やしてきたかで,その人の形がある程度決まってしまうのではないだろうか。

 だからA氏は,自分の生活まで犠牲にして,地位も収入もかなり上というものを手に入れたわけだ。

 しかも,「働くだけが楽しくてという生活を続けてきた」というのであれば,ある意味幸せな人生だったといえるのではないかと思う。

 そういう人が何を迷ったか?,「クラシック音楽を,老後の趣味に」などというのは,どうかと思うのだが,定年を迎えた紳士が現在クラシックの趣味を満喫しているかどうかは,分からないので,決めつけるわけにはいかないが,どんな余生?を送っているのだろうか。

 もし,A氏がクラシック音楽に挫折していたとすれば,「ゴルフも麻雀もカラオケも,普通の人がやるような娯楽はひと通りやったものの,それはすべて仕事のため,人間関係をうまく運ぶためで,本心から好きだと思ったことはない」というわけだから,残念ながらクラシックもそれと同列となってしまったともいえようか。

 だとすれば,「働くだけが楽しくてという生活を続けてきた」というわけなのだから,定年後もどこかで働くことを考えればいいのではないかということになる。

 これに反して,A氏がクラシックにのめり込んでいる生活を送っているとすれば,それは万々歳なのだが,果たしてその可能性はいかほどのものだろうか。

 さて,宮本氏は音楽著述家だけあって,クラシックを楽しむための方法論を幅広く展開しており,その見識には敬意を表したい。

 この点,ワタクシの経験を踏まえて,「クラシックを楽しむコツ」とやらを考えてみたい。

 ワタクシの場合は中学2年の頃から聴いてきたが,それはクラシックを聴くきっかけがあったからであり,まずそのきっかけをつかむことが何よりも重要となる。

 何事も,そのきっかけがあったからこそ,その世界に興味がわき,趣味となっていくわけであるから,このきっかけをどうつかむかが最初の課題で,四百年を対象としたのでは,余りにも歩留まりが悪い。

 この点でいえば,基本的にバッハ以前と20世紀の音楽は外すのが順当だと思う。

 従って,19世紀ドイツ系の音楽が一番ポピュラーであるが,中でも19世紀前半の音楽に絞ってみるべきだと思う。

 また,ジャンル別では,交響曲や管弦楽曲(序曲,交響詩),或いは協奏曲などのオーケストラ曲に人気がある。

 勿論,何事にも例外はあるが,以上の範囲からターゲットを絞ってみてはどうだろうか。

 ワタクシのきっかけとなった曲は,メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲なのだが,BGM的環境の中で,知らず知らずのうちに覚えてしまった曲だった。

 だから,これはと思う曲があったら,繰り返し聴き続けてみるといいと思う。

 交響曲などの長い曲の場合,通して聴くのはシンドイというのなら,第1楽章だけ聴き続けてみるのもいいかもしれない。

 音楽史的には,ハイドン,モーツァルト,ベートーヴェンの古典派とシューベルトやメンデルスゾーンといったロマン派あたりにその対象があると思われるが,強烈な個性のあるベートーヴェンが一番とっつきやすいと思われる。

 ある意味,ベートーヴェンはクラシック音楽の原点ともいえる存在で,そのよさが分かれば,上記作曲家の音楽も攻略できると思う。

 これに対して,新ロマン派といわれたリストやワーグナー,新古典派といわれたブラームスは,ちょっと敷居が高くなる。

 従って,ベートーヴェンの交響曲第3番,第5番,第7番,バイオリン協奏曲,ピアノ協奏曲第3番〜第5番あたりがいいと思うが,第九の第4楽章もいい。

 また,レオノール序曲第3番やエグモント序曲,コリオラン序曲などの序曲も交響曲に比べ短い曲なので,とっつきやすい。

 シューベルトなら未完成といわれる交響曲第8番がまっさきに思い浮かぶ。

 メンデルスゾーンでは,イタリアといわれる交響曲第4番,バイオリン協奏曲,序曲「フィンガルの洞窟」,真夏の夜の夢あたり。

 ではなぜオーケストラ曲がいいのかというのは,小編成の楽曲では味わえない,管弦楽によるクライマックスやダイナミズムがあり,その高揚感は非常に魅力的であるからであり,そこにポピュラー性がある一因となっている。

 まあ,そういう点では,ワーグナーやブルックナー,マーラーあたりにその最たるものがある。

 因みに,国立音楽大学楽理科を卒業された森佳子氏によれば,この3人は日本人の「通」が最も評価している作曲家ではないだろうか,と「クラシックと日本人」という本の中に書いてあるが,この「三人に共通しているのは,曲が長いということだ。慣れない人が長大で重苦しいこれらの曲を味わえるようになるまでには,かなりの時間を要するだろう。修行のような訓練をへて,次第に彼らの音楽に恍惚感を覚えるようになり,彼らを神格化するようになる。」とまで書かれている。

 ワタクシがクラシックを聴き始めた頃は,交響曲などの管弦楽を聴いているヤツは初心者として軽視され,弦楽四重奏などの室内楽を聴くのが「通」だというフシがあった。

 もっとも,その頃は,ブルックナーやマーラーは,ブームとして浮上してきてはいなかったが,1979年あたりからCDが出現したことにより,それらの長大な曲をLPよりも少ない枚数で収録できるようになったため,マーラー・ブームなどの端緒となったともいわれている。

 ワタクシなんかは,CDが出る前にLPでマーラーやブルックナーに夢中になっていたが,その頃は,マーラー・ブームという言葉は耳にしていなかったけれど,水面下では,その伏線があったのではないかと思う。

                                                             (つづく)

 老後の心配について,つい最近,ちょっとした体験をした。近所に越してきたという初老の紳士と知り合ったのだが,この人が典型的なワークホリック。


 銀行に勤めて三十数年とかで,地位も収入もかなり上の方にあるらしいが,働くだけが楽しくてという生活を続けてきたらしい。

 ゴルフも麻雀もカラオケも,普通の人がやるような娯楽はひと通りやったものの,それらはすべて仕事のため,人間関係をうまく運ぶためで,本心から好きだと思ったことはないというのである。

 万事がうまくいっていたし,サラリーマンとはそういうものだと思っていたから,老後についても,経済的な心配がないかどうかしか考えなかったのだという。

 ところがあと三年,二年と定年が近づくにつれて,いきなり変わってしまうライフ・スタイルが実感として想像できるようになった。

 「これは何とかしないととあせり始めているわけですよ」と真剣な目で私を見る。

 「それでね。お伺いしようと思ったのは,以前から気になっているクラシック音楽を,老後の趣味にしようと思うんですが,コツというか,どんな聴き方をしたらよいのか。その辺を教えていただきたいんですよ」

 仕事柄,こんなふうに聞かれることは珍しくないのだが,私はいつも戸惑ったり考え込んだり迷ってしまうのである。

 一体,音楽を好きになったり楽しんだりするのに,コツなどというものが要るのだろうか。

 ピアノやギターを弾く,レコード・コレクションをするといったことなら,うまくやるコツがあるかもしれないけれど,こう聴けば好きになれるとか,こう聴くとよろしいといった客観的な法則などあろうはずもない。

 仮りにあったとしても,そんなものに縛られた聴き方がどれほど楽しいといえるだろう。

 専門家や評論家になるのならともかく,趣味で聴くクラシックはそれこそ自由に,勝手気ままに聴くのが自然じゃないかしら。

 何かの方法を奨めて,それがその人の音楽人生を決めてしまうとしたら,何だかおこがましく気が重い。

 下手なコツより,ともかくたくさん聴くことですよ。そう当たりさわりなく逃げたいところだが,「それじゃ,あまりに素っ気ないじゃないか」「せっかく尋ねているのに,不親切だねえ」と,どこからか非難の声が聞こえるような気がする。

 それやこれやで内部葛藤を繰り返した揚句,初老のA氏には,およそ次のような聴き方をご紹介したのである。

 ひと口にクラシック音楽といっても,通常私たちがレコードやコンサートで楽しんでいる音楽は,大雑把にバロック時代以後,1600年頃からの音楽と考えていいのではなかろうか。

 その少し前,十五,六世紀ルネッサンス時代の声楽曲や,中世のミンストレル,六世紀後半に始まるグレゴリア聖歌などを好む人もいなくはないけれど,全体的に見れば,ごく一部である。

 大方のクラシック・ファンが相手とする対象は,その1600年から現在まで,約四百年のヨーロッパ音楽ということになるだろう。

 まあ,どんな音楽でも,遡ればそのくらいの歴史はあるかもしれないから,そのこと自体は「あゝ,そうか」でいいのだが,ポピュラー音楽や歌謡曲などと大きく違うのは,一方がその時の流行曲を楽しむのに対し,クラシックの場合には,四百年に含まれる曲全体が楽しみの対象になることである。

 もちろん前者についても,時代に関係なく古い曲,新しい曲の区別なし何でもこだわらずに聴くという人はいるだろうし,いわゆる”懐メロ”のレコードなども数多く出されてはいる。

 しかし何といっても中心はその時代のヒット曲であり,古いものといっても,せいぜい数十年の範囲を遡る程度に過ぎないであろう。

 クラシックでは,基本となる音楽形式がきわめてモノを言う。それらはいきなり生まれるのではなく,常に歴史的な発展の中で生み出されるものだから,どの曲も必ずそうした影(影響)を引きずっている。

 ベートーヴェンを好きになり,彼のことを知ろうと思えば,彼に影響を与えたモーツァルトやハイドン,古典派と呼ばれるその時代,あるいはその前後にあたるバロックやロマン派の時代にまで関心を持たざるを得なくなる。

 バッハやブラームス,メンデルスゾーン,ワーグナーなどを好きになっても,同じことが必要となる。

 つまりクラシック音楽を楽しむ場合には,その曲その作曲家だけを歴史から切離してとらえることがきわめて難しく,結局,四百年全体を興味の対象とせざるを得なくなるのである。

 こんなわけで,ポピュラー音楽などに比べると,クラシック音楽の守備範囲はともかく広い。

 曲の種類はもちろん,それらが時代とともに変化,発展したさまざまな形がある。

 一国でなく,ヨーロッパ各国から登場する数多くの作曲家と,彼らが遺した膨大な作曲群 ― 当時者たちでさえ一部しか聴けなかったであろうこれらの作品を,現代に住む私たちは,何と一遍に相手に出来るわけである。

 好きになればこれほど嬉しいことはないし,たとえ一生付き合ってもネタが尽きるということは,まずない。

 ところが,きっかけがつかめず好きになるところまで行ってない人には,この膨大さが逆にネックになっているのである。

 というのは,さまざまな曲の中から,たまたまその人の感性に合う,琴線に触れる曲に出逢えれば,これはすんなりと好きになれて問題はなさそうだ。

 しかし出逢えない場合は「何だか肌に合わない曲ばかりたくさんあるなあ」と,戸惑ったり嫌気がさしたりする可能性が充分あるのである。

 学生時代には鑑賞教材として,日常生活ではテレビやラジオから,それこそいろいろな曲を私たちは耳にしている。

 だが,それとてクラシック全体から見れば,じつはほんの一部にすぎない。

 しかも断片的にしか聴いていない。

 ぴったりな曲にぶつからない,きっかけがつかめないという人がいても決しておかしくない。

 どうしたらよいのかと迷う人がいても,これまた当然なのである。

 さてそこで,A氏のように「関心はあるが,のめり込むきっかけをつかめなかった人」は,今後どうすればよいか。

 まずクラシック音楽と付き合うための基本姿勢として次のようなことを心懸け実行したらよいのではないか。

 (1)他の趣味と同じく,聴こう,知ろうとする好奇心を強く抱くこと。あたかも恋をした若者が相手のことをあれこれと知りたがるように。

 (2)たくさん聴くことがすべてと心得ること。

 (3)たとえ初めはわけがわからなくても聴くことを習慣にすること。

 (4)記憶と関心のために,聴いた曲はメモしておくこと。

 (5)楽しさと刺激のために同好の仲間を作ること。

 もう一つは,大胆だがこんな方法である。

 「きっかけになる曲を見つけて,クラシック音楽にのめり込む? それじゃ,いつからのめり込めるかね」というわけで,これでは前途遼遠,いつになるかわからないから,むしろ逆の手を使う。

 すでにクラシック音楽を好きになり,ファンとして楽しさを満喫している人たちが,どんな方法をとっているかをさぐるわけだ。

 もちろん一つでなくいろいろあるだろうが,これを並べてみて,気に入った方法を借用してしまうのである。

 どんな楽しみ方をとるにせよ,初めにご紹介した約四百年の枠内にある作品が材料である。

 そう,例えてみれば「クラシック四百年」というパイを出されたと思えば,わかりやすいかもしれない。

 一見大きくて,どこからナイフを入れたらよいのか面食らうが,よく見るとこのパイには,いくつかの切り口が付けられている。

 しかも各々の切口には,何やら小さな文字が焼き込まれている。

 どこを切っても同じ味,というのではないらしい。

 ともかく試食とナイフ片手に目を近づけると,切り口の文字がこんなふうに読める。

 「音楽史を辿って聴く楽しみ方」「曲種別に聴く楽しみ方」「楽器別に―」「作曲家を中心に―」「演奏家を中心に―」「「風変わりな作品を集めて―」「風変わりな演奏を集めて―」「気分に合わせて選曲する―」「ナマ演奏で―」etc

 クラシック音楽を好きで聴いている人というのは,同じ四百年に含まれる音楽を,およそ以上のようないくつかの角度から楽しんでいる,といってよいだろう。

 これらのどれかに徹底的に片寄っている人もいれば,二つ,もしくは三つくらいを重複させている人もいる。

 あるいは「すべてをほどほどに」とか「時期によって柔軟に」という人もいるようである。

 いずれの角度から楽しむにしても,「たくさん聴く,聴こうとしている」というのが,共通した姿勢である。

 そうとわかれば,きっかけがどうこうと躇っていても仕方がない。この中のどれかを手始めに,端から実行してやろうではないか。

 この中に含まれる作曲家や作品は,どのくらいの数になるのだろう。

 正確にはわからないが,国内で発売されている音楽人名辞典などに収められている作曲家三千数百人から推してみて,一万人くらいは優にいるかもしれない。

 そしてまた作品も,掲載された約四万曲から想像するところ,十万や二十万曲は書かれているのではなかろうか。

 とはいえ,実際にレコード等で聴けるのは,せいぜい五百人,一万曲といったところだろう。

 そこで具体的な楽しみ方だが,まず「音楽史を辿って聴いていく」やり方。

 詳しくやると限りがないので,とりあえずはこんなふうに考えてみる。

 どんな本を見ても出てくるように,

 (1)バロック時代,1600〜1750年頃。
 (2)古典派時代,1750〜1800年頃。
 (3)ロマン派時代,1800〜1900年頃。
 (4)国民楽派時代,1850〜1900年頃,ロマン派と重なる。
 (5)二十世紀,というふうに発展段階によって分けられている。

 どこから始めても構わないが,こうした流れがあることを頭に置きながら,それぞれの時代に登場する主な作曲家と作品を聴いてみるのである。

 大雑把ながらも全体を聴くところまで行けたら,それだけで,「なるほど。クラシック音楽って,こんなふうに変化してきたのか」と実感することが出来るだろうし,特に興味の沸いた時代については,さらに細かく聴き進んでみても面白い。

 国や地域による特色やバロック以前の音楽,音楽史の本などにもおそらくは興味が広がって,楽しさも倍増するはずである。

 次に「曲種別に聴く」楽しみ方。

 ポピュラー,歌謡曲などが歌もの中心であるのに対し,クラシックの場合には,その他にもいろいろある。

 むしろそちらの方が多いことは想像がつくかと思う。

 楽器編成,規模,構造(形式)などから,これは(1)交響曲 (2)管弦楽曲 (3)協奏曲 (4)室内楽曲 (5)独奏曲 (6)声楽曲 (7)オペラ,オペレッタ (8)宗教曲 などに分けることができる。

 どんな曲もよく聴けば必らず,これらのどれかに分類できるというわけで,覚えやすく,レコード店の陳列,レコードカタログ,曲目解説書なども,都合よくこの分け方で紹介しているものが多い。

 例えばシューベルトの「未完成」を聴いて交響曲の魅力にとり憑かれたら,とりあえずこの曲種(ジャンル)の名曲をひと通り聴いてみようかとか,八つのジャンルの代表的名曲をざっと覚えてやろうといったやり方で,一つずつ征服していく。先が楽しみな聴き方である。

 「楽器別に聴く」楽しみ方。

 どんな作品も,考えてみれば何らかの楽器のために書かれている。

 時には全編これ無音の「四分三十三秒」(ジョン・ケージ)なんて曲もないわけではないが,これなどはあくまでも例外だ。

 ある曲を聴いて特定の楽器に魅せられた,虜になったという経験は,多かれ少なかれ誰にもあるものである。

 「彼女の弾くピアノにしびれたのが,ピアノ曲ばかり聴く始まりだった」というような方法でクラシックにのめり込む人は,世間には結構多い。

 ピアノならピアノ,ヴァイオリンならヴァイオリンと,好きな楽器の名曲を徹底して聴くのもいいし,各楽器の代表曲をひと通り,と幅広く挑戦するのもこれまた楽しい。

 カタログを覗くと,そんな夢を叶えてくれるレコードがいっぱい出ている。

                                                             (つづく)

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