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伝道者の書のまとめ。
この書の一つの結論が「空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。」(1:1)である。そこからの解決は人間の創造のもとに帰ることなのである。もう一つの結論はこうである。「あなたの若い日にあなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない。』という年月が近づく前に。」(12:1)だ。
聖書は私たち人間はすべて滅びへの道に歩んでいると教える。しかし私たち人間はそのことを知らず、名誉、社会的地位、財産を追い求め生きている。しかしその先が滅びであるとするなら空の空なのだ。
人は本来、創造主なる神が息を吹き込み生きる者とされたのである。そして神の意志に従う者とされた。しかし、人は神との関係を捨て、自分の意志に従う者となってしまい、迷い出てしまったのだ。
人がなすことは神が人のために造られたものを正しく管理し、用いていくことであった。しかし、神に信頼するという単純さを脱ぎ捨ててしまい、あれもこれも自分でやり、可能となると思い込んだのだ。
神から離れた人の人生は、神からの報いがない人生なのだ。悪者にはしあわせがない。その生涯を影のように長くすることはできない。彼らは神を敬わないからだ。見た目にはうまくいっているように見えるが、決してそうではない。さばきが待っているだけなのだ。
とかくこの世は知恵によるより、力を働かせることを良しとする。この世は地位ある人、権威ある人、力ある人を褒めたたえ、話題にする。そこで人々はそれを目差し、思いを巡らし、人の上に立つことを目的とする。それが政治、経済、文化、スポーツ、芸能などの世界であっても。それこそが人生の目的であるかのように。
しかし、このイエスの知恵に生きていないのであれば、結局は暗闇に座すことになるのだ。いのちを殺すことになるのだ。そこに待っているのは破壊なのである。
人の愚かさは神との関係が的外れにあるのだ。知恵ある者の心は神に向き、愚かな者の心はこの世に向くのだ。人が神と無関係に生きることが愚かさなのであるからだ。
私たちはともかく長く生きることがいいことであると思っている。そしてその人生がいつまでも続き、若き日を楽しみ、自分の好きなようにすることで満足し、しあわせになると思っている。しかし、気が付けばむしろ自分の無力さに、嘆き、空しさを得る結果になっているのだ。そこに本当の満足を見出さない。
それは神を知らず、自分の心のおもむくままに、目の望むままに過ごしているからなのだ。それでも人は神を求めず、その繰り返しをしている。ゆえに、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけと言うのだ。
すべてには定まった時がある。過去があり、現在があり、未来がある。そして何よりも私たちは死を迎える時があるのだ。私たちにはこの時に対しては、まったく無力な者のである。
これはいつでもどの時代に於いても緊急な問題なのだ。であるから、この死を解決しなくてはならないのだ。死は年齢、健康、名声、財産、貧しさも関係なく100%起こることだからである。
私たちには残念ながらこの死に対しては無力なのだ。ただ滅びガあるだけなのだ。そしてまた、私たちは死の先に何が待っているのかを知らず、恐れるのだ。
私たちは死の恐怖に支配されている。人々はこの時を知らず、神もなく、望みもなく生きて、何か良きことが訪れるであろう未来を頼りなく待ち望んでいる。
死はすべての人に起こることなのである。だからこの死の問題を考え、解決することが、大切なのだ。中世の修道士は「メメントモリ」と挨拶したと言う。それは「死を覚えよ。」という意味で、人は死すべき人間であることを忘れるな、と言うのである。
永遠の滅びと永遠のいのちとではそれこそ天と地の違いである。永遠の苦しみと永遠の喜びを比べれば、考えただけでも、永遠のいのちと喜びを選び取るだろう。いまもなお、神は死と滅びからの解放の知らせを伝えているのである。その道こそ、イエスの福音なのだ。
このイエスを見出すことが出来るか、が永遠を決めるのである。ゆえに12:1「あなたの若い日にあなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない。』という年月が近づく前に。」なのである。
私たちキリスト者はその先にある喜びを見るのだ。この死は死では終わらないことを。御国があることを。共によみがえり、再び会う喜びである。よみがえりのイエスのうちにある者は、死から復活の喜びに移されてるのである。
私たちキリスト者は常にいまが恵みであり、その恵みの内に生かされていることを喜ぶことが出来るのだ。さらにキリスト者には大いなる希望がある。イエスの再臨である。そのことを見つめつつ、イエスとともにあることを感謝して、心を整えて頂き、与えられたいのちに豊に生きるのだ。
神が私たち人間を創造されたのは、人間が神のことばによって平安の内に神の創造を喜び、生きることだ。その姿を見て神が喜びを受けるためなのだ。
そしてその関係に私たちが与ることが出来るように、イエスがこの世に来られたのだ。
神イエスとの人格的な結びつくことが、真に知恵を知ることになるのだ。この知恵は、私たちの顔を輝かし、生き方を変えることが出来るのである。ここに生きることが喜びとなり、いのちとなるからだ。
神の目にはすべての人間は罪人である。神はいかに人が汚れた者であるかをご存知であり、そんな私たちをあわれみのゆえにイエスをこの罪の世に送り、暗闇から光に移し、むなしい歩みから解放すため、救いの道を備えてくれた。イエスの十字架はそのためなのである。
私たちキリスト者はいつでもキリストの十字架の血によって、赤く染まった罪汚れた衣、私たち自身が何も罪がないような白く輝いていることを忘れず、内に住む御霊によって歩むことなのだ。
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