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おやじの好き勝手なつぶやき

福音

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 イエスの十字架と死からのよみがえり、昇天、いまも生きておられ、私たちのためにとりなし、祈られている。この一連の出来事は私たちのためだった。これこそが福音である。

使徒信条「主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。」

 イエスは木曜日の晩に、祭司長、民の長老たちから差し向けられた剣や棒を手にした大ぜいの群集の一団に捕らえられる。そしてイエスを大祭司カヤパのところへ連れて行った。そこには、律法学者、長老たちが集まっていた。祭司長たちと全議会はイエスを死刑にするために偽りの裁判をした。

 次に翌日の金曜日にポンテオ・ピラトのもとに連行し、十字架につけよと要求する。ピラトはイエスをむち打ってから、十字架につけるために引き渡した。イエスは十字架で救いが完了したと叫ばれ、こうして昼の3時ごろ息を引き取られた。そして墓に葬られた。

 弟子たちは師イエスが十字架で殺されたのを見て、すべてが終わったと失望した。それほどに死は単なる悲しみをもたらせるだけではなく、すべてを奪い、終わらせるものだというのは私たちすべての者の偽りない思いだ。

 女たちはイエスのからだの納められる様子を見届けた。けれども日曜日の明け方早く行ってみると、石が墓からわきにころがしてあったので、入って見るとイエスのからだはなかった。よみがえられたからだ。イースターの朝である。

 父なる神はイエスを死に渡したままに置かれない。イエスにおいて死を打ち滅ぼされた。これは人にはできないわざである。けれども神はイエスを死から生によみがえらせた。神はその全能の力をイエスのうちに働かせて死者の中からよみがえらせた。創造主なる神にできないことはない。

 イエスは自分のことをよみがえりの者だ、と言っている。

黙示録1:17〜18恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

 私たちもまたいつか死ぬ。けれどもイエスがいま生きておられるように、私たちもまた死で終わるものではなく、生きていても死に至る者ではなく、死んだとしても永遠にそのままでいる者ではない。その先にまことのいのちに生きる者である。

 また、私たちは生きておられるイエスのいのちに生かされている。それで日々において、ともにいることを楽しみ、喜び、イエスと交わりをしていく。

使徒2:32神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。

 イエスの死に失望落胆していた弟子たちは、復活のイエスと出会い自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきませんと力強い証し人としての務めを果たして行った。私たちもイエスは生きておられる、いまここに、と証し続けていく。

私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。



 神が私たちの上にどうしてあわれみ、恵みを注がれる必要があったのか。私たちには罪からの報酬は死でしかないのである。しかし、そんな神の御前に汚れている私たちを生かすために神がことを行ってくれたのが恵みである。

3〜5キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。

 私たちが救われるのはイエス・キリストの十字架と復活の恵みであり、神のみこころによるものなだったのだ。これが福音の中心的なメッセージなのである。ほかに福音はないのだ。神との和解と平和の関係を確立させることなのだ。

 大切なことはいのちを助けることか、滅びさせることなのかである。聖書は言うのである。福音は「すべて信じる者に、救いを得させる神の力」であると。

1私が使徒となったのは、人間から出たことでなく、また人間の手を通したことでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中からよみがえらせた父なる神によったのです。
11〜12兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。



 パウロは言う。使徒となったのも、福音の啓示も私たちの内に人となって住んだイエスによってであり、父なる神からだと言うのである。救いはどんなに人間が考えても出来ることではない。イエス・キリストを信じる信仰によってしか得ることが出来ないのであると。

2:16しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。

 それなのに、ああそれなのにである。かき乱す者たちがいて、救いに至る道がただ信仰によるキリストの福音であることを忘れ、割礼などの行ないをプラスしなければならないという人間の教えに従っていることにパウロは驚いたのである。

8 しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。



 律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるのであるからパウロは「それを認めず、神のみことばに混ぜ物があってはならない。」と強い調子で言うのだ。また「人の歓心を買おうと神のみことばを割り引いてはならない。」とも言うのだ。

 終わりの日には偽教師、偽預言者が現れると言われている。気を付けなければならない。

私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。

 私たちの国はイエス・キリストには関心はあるのだが、信仰となると受け入れられない。また多くの人は「信仰に良きものがあろうか。」と思い、愚かなことだとするのだ。

 しかし、福音は罪の奴隷からの解放を告げる神の力あることばなのである。それだけではない。さばきからの解放であり、義とされるのである。それを得る唯一の道は信じることなのだ。

1コリント1:18十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

 福音の働きは救いをもたらす神の力であるよき知らせをすることである。ゆえに、私は福音を恥とは思いませんと言うのである。

1コリント1:22〜24ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。


 私たち人は神に背いたので罪に定められた。その罪には私たち人は無力なのである。解決することが出来ない。ペテロはそのために神が何をされたのかを声を大にして語ったのである。イエスの十字架の死と復活の出来事が私たちに救いをもたらしたと。人が救われるのは福音だけである。

使徒2:37人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と言った。

 それでペテロは「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに勧めた。そしてその日、3000人がバプテスマを受けたのである。

 福音を聞き、イエスについてのことばを受け入れた人は、さばきから永遠の喜びへ移されるのである。福音を信じる者には神の義が与えられるのだ。

ローマ3:23〜24すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

 罪は神に対する背きであるから、神は許されない。しかし、人へのあわれみのゆえにイエスにあって、神が福音を備えたのである。私たち誰でもが価なしに受け取るためである。

 その人はいままでイエスと同じように罪を知らない者とされるのである。驚きではないか。耳を疑いたくなる宣告ではないか。しかし、確かにそうなのだ。ゆえに、私たちキリスト者は福音を聞き、受け入れ、救われたのであるから、この驚きの福音を伝え続け、ともに御国の家族となるためにである。

ローマ10:14 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。

わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。

 これはイザヤ書61章1ー2節を通して語られた救いの預言である。

「主の恵みの年」とは、ヨベルの年と言われ、奴隷の解放、借金の免除、土地の返還が行われる時のことである。

レビ記25:10 あなたがたは第五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰らなければならない。


 しかしイエスはこの喜びの時は、いまである。わたしのことばを聞いたその日であると言うのである。確かに、今は恵みの時、今は救いの日なのだ。いつでも喜びの日なのだ。そのためにはイエスの福音を受け入れることが必要である。

 恵みはそれを受けるに値しない者に対する、一方的であり、無条件であり、無償の神から与えられるものである。それがイエス・キリストの十字架であり、それまでして私たちを救い出す神の愛が私たちに与えられているのである。その恵みが働くことによって、苦しみを喜びに変え、癒され、希望を持つのである。

 イエスはそれを目で見える形で現されたのである。

ルカ7:21〜22ちょうどそのころ、イエスは、多くの人々を病気と苦しみと悪霊からいやし、また多くの盲人を見えるようにされた。

そして、答えてこう言われた。「あなたがたは行って、自分たちの見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。



 福音はイエス・キリストによって見渡す限りの荒れ地を豊かな実のなる肥沃な地に変えるのだ。経済的に苦しむ、精神的に、肉体的に苦しむ者を解放するのである。例外はない。すべての人にである。私たちを解放出来るのはイエスだけである。

ルカ4:21イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」

 イエスはこの預言はメシヤであるわたしによって実現したと宣言されたのである。そしていま、このことばをあなたも聞いたのだ。

 神は私たちの罪を買い取り、もう罪のない者として受け入れる道を備えられたのである。

使徒4:12この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。

 私たちキリスト者のすることはこれである。
 
ガラテヤ5:1キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。


時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。

 イエスが宣教の始めに発したことばである。イエスがこの世に人として来たのは、このためであった。

マルコ1:38イエスは彼らに言われた。「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。」

 福音とは「よろこばしきことの知らせ」である。「ゴスペル」God-spelー神のことばである。人を生かすものである。

 それは私たち人に何が真の問題であるかを知らせることであり、またその解決がここにあることを知らせ、神との和解が出来ること。罪の赦しがあること。死からいのちに移されること。さばきから永遠の喜びに生きることを知らせるのである。
 
 イエスは「神の国が来た。」とは言わず「近づいた。」と言ったのである。それは神の国の完成なる日があるからだ。イエスは一度目は人の目には弱き姿であった。それは私たちの罪からの身代わりとなるためにであり、二度目は王の王、主の主として栄光に満ち、力強い姿で来られるのである。その時、福音を信じ、悔い改めた人が空中でイエスと顔と顔を合わせるのである。

 時は満ちたとある。すべてに神の時があるということである。神が人類の救いのために定めた時が満ちた、と言うことだ。その時を知り、イエスを神の御子と信じ、良き知らせを受け取るのだ。そして自分がいままで神を知らず、知ろうとしなかったところから方向転換するのである。

 悔い改める、心の向を変えることを始めるためには、まず自分を見つめてみることからスタートするのである。それは「あなたはどこにいるのか。」と言う神の声を聞くことなく過ごして来たからである。

 そうして「はい。ここにいます。いままでの方向違いを認めます。」と神にあわれみを願うのである。神に頼るしか自分の人生が立ち行かないことを求めるのである。そこに神からの福音が働き、心に変化が始まるのである。

 あの放蕩息子は好き勝手な生き方を選び、それに生きたのだが、人生が立ち行かない事態に遭遇して、我に返った。そして「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行ったのである。その時、父は喜びの宴会をもったのだ。

 「このみじめな人生をいつまで送るのだろうか。」と過去、現在にとどまるのではない。「そうだ。神に行こう。」である。悔い改めは前向きである。神に向かうなら生き方が変わることを体験するのだ。

 神を知りともに歩む生き方へと方向転換する。そこからスタートである。私たちは神との和解、平和が必要なのである。そこに神の力が働き、豊かな実を結ぶ者とされるのだ。
使徒3:19そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。
 
使徒17:30神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。

 福音は私たちを神のもとに立ち帰らせるのである。

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