生活の中の聖書

おやじの好き勝手なつぶやき

マルコ福音書

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全16ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]

さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」とみなで話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。それで、墓の中にはいったところ、真白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』とそう言いなさい。」女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

 墓の入口の石について別訳にこうある。

マタイ28:2すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。

 それで墓に入ってみると、そこにあるのは空になったイエスの遺体を包んでいた亜麻布だけで、おまけに真白な長い衣をまとった青年と見える御使いが立ってれば、誰だって驚く。

 しかし何と言っても驚きは「イエスはここにいない。いま、生きてガリラヤにいる。」ということである。そのことを弟子たち特にイエスを三度否んだペテロに伝えなさい、という。

 何度も人の子は、三日目によみがえる、と言われていたのだから、本当は喜びの驚きなのだが、女たちは目の前の出来事に混乱して墓から逃げ出したのだ。この後、弟子たちにイエスが姿を現し「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」と言って、天に上げられて神の右の座に着くことになるのである。

 パッションという映画で一番印象的な箇所が最後のすがすがしい顔のイエスだった。裸のまま墓から出て行こうとしているシーンだった。いまでも心に焼き付いているシーンである。

 そしてこのイエスのよみがえりは私たちにも当てはめられることなる。私たちは十字架を突き抜けて、復活のいのちに生かされている。罪過の中で苦しんでいたけど、いまはそこから開放され、新しい生き方をさせてもらっている。

 私たちはもう確かに、死もない、苦しみも、病もない御国に入れられていることを喜ぶ。そして罪から離れて、本気でイエスに生きる。神が望んでいることは、生きた私たちの信仰なのだから。
 
 私たちはもう復活に与っているとも言えるのだ。と言うのもイエスを救い主と信じる者に与えられるイエスのよみがえりのいのち、すなわち永遠のいのちが覆っているからである。後は、その時を心の底からと待ち望むのだ。

ピリピ3:20〜21けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

 この復活のイエスのからだと同じ姿こそ希望、喜びである。 

すっかり夕方になった。その日は備えの日、すなわち安息日の前日であったので、アリマタヤのヨセフは、思い切ってピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願った。ヨセフは有力な議員であり、みずからも神の国を待ち望んでいた人であった。ピラトは、イエスがもう死んだのかと驚いて、百人隊長を呼び出し、イエスがすでに死んでしまったかどうかを問いただした。そして、百人隊長からそうと確かめてから、イエスのからだをヨセフに与えた。そこで、ヨセフは亜麻布を買い、イエスを取り降ろしてその亜麻布に包み、岩を掘って造った墓に納めた。墓の入口には石をころがしかけておいた。マグダラのマリヤとヨセの母マリヤとは、イエスの納められる所をよく見ていた。

 イエスは犯罪人として十字架で息を引き取ったのが3時頃で、そして夕方になって、からだを取り下ろして、埋葬するところである。

 日没になると安息日になるゆえに、イエスのからだを引き取るためには時間の猶予がない。あわただしく取り掛からなければならない。安息日になれば細かい規定によって労働が禁じられている。からだの取り下げ、埋葬が仕事となってしまう。それ自体が律法に違反することなのだが、さらにこのような決まりがある。

申命記21:22〜23もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない。

 イエスのからだをそのままさらすことが出来ないのだ。申し出たのがアリマタヤ出身の議員ヨセフであった。当然ながら、ユダヤ議会、社会から追放を覚悟しなければ出来ないことなのだ。おまけイエスは犯罪人として処刑されたのだ。彼は思いきってピラトに願い出ている。それは彼もまた神の国を待ち望んでいた、弟子であったからである。

ヨハネ19:38そのあとで、イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。それで、ピラトは許可を与えた。そこで彼は来て、イエスのからだを取り降ろした。

 その時、ピラトは百人隊長を呼び出して確かめたのだ。イエスが死んだことを確認したのである。それでからだの引き取りに同意したのだ。これは有力な議員であったことだから出来たこととも言える。

ヨハネ19:33〜34しかし、イエスのところに来ると、イエスがすでに死んでおられるのを認めたので、そのすねを折らなかった。しかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。

 そしてヨセフはイエスのからだに亜麻布で包み、岩を掘って造った墓に納めた。そして墓の入口には石をころがしかけておいたのだ。それをマグダラのマリアとヨセの母マリアが、イエスのからだが納められた所を確認したのである。この後、イエスのからだがない墓を見ることになるとは知らずに。

 使徒信条に「主は十字架につけられ、死にて葬られ」とある。このことはイエスが十字架で死んだで終わらずに、確かに墓に葬られたという証しである。

 すべての人生は墓で終わるのである。しかし、私たちは希望がある。それはイエスが復活したように、私たちも死では終わらない、朽ちないからだに復活するという希望である。

彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。イエスの罪状書きには、「ユダヤ人の王。」と書いてあった。また彼らは、イエスとともにふたりの強盗を、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。十字架から降りて来て、自分を救ってみろ。」また、祭司長たちも同じように、律法学者たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「他人は救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王さま。たった今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」また、イエスといっしょに十字架につけられた者たちもイエスをののしった。さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。そばに立っていた幾人かが、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる。」と言った。すると、ひとりが走って行って、海綿に酸いぶどう酒を含ませ、それを葦の棒につけて、イエスに飲ませようとしながら言った。「エリヤがやって来て、彼を降ろすかどうか、私たちは見ることにしよう。」それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった。」と言った。また、遠くのほうから見ていた女たちもいた。その中にマグダラのマリヤと、小ヤコブとヨセの母マリヤと、またサロメもいた。イエスがガリラヤにおられたとき、いつもつき従って仕えていた女たちである。このほかにも、イエスといっしょにエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた。

 イエスの十字架の出来事の場面が書かれている。イエスが十字架につけられた時刻が午前九時。そして昼なのに全地が暗くなった。それは全ての人を照らす真の光であるイエス・キリストを退けたことによって闇に包まれ、その光景が三時まで続き、息を引き取られた。

 その中でみなが言う。「他人は救ったが、自分は救えない。キリスト、イスラエルの王さま。たった今、十字架から降りてもらおうか。われわれは、それを見たら信じるから。」このことばは私たちの多くの時の態度ではないだろうか。このキリストところを「親、友、先生、夫、妻、恋人」などに置き換えてみると「だから私の面倒を見るのは当たり前だ。」私たちの自己中心の心が分かる。

ルカ23:34父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。

 ここにはないけれども、大事な十字架でのことばがこれである。イエスは自分で罪人の罪を負いましたから、彼らを赦してくださいと言われたのだ。確かに私たちは自分でしていること、考えること、また話していることの意味を理解している、良く分かっていると思っているようなのだが、本当は何も分かっていないのだ。
 
 この時の群衆はイエスは神の子と言うから、奇跡が起こり助かることを期待して見ていたけれども、奇跡は起こらなかった。しかし同じ光景を目にしても、信じる者もいれば、そうでない者がいる。そのことの証しが十字架上の出来事を見続けた百人隊長は「この方はまことに神の子であった。」とイエスの死を通して、一人の異邦人の心が揺り動かされたのである。

 一方で女たちは遠く離れて立ち見ていた。イエスは「わたしは捕らえられ十字架にかかり殺される。でも復活する。」と何度も語られていたが、親しい人の死と見て、ただ失望と悲しみで一杯になっていたのだ。私たちはこの三時間の中でイエス様を見つめたこの百人隊長のようにイエスを見つめることの大切を学びたいと思う。

ルカ23:48この光景を見に集まっていた群衆もみな、こういういろいろの出来事を見たので、胸をたたいて悲しみながら帰った。

 この出来事を見てイエスの罵っていた彼らは喜びながら帰ったのではなく、心の中にある罪に気づき悲しみながら帰ったのだ。

 イエスの最後の言葉は「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)だった。これは、神に対する「すべてお任せします」という全くの信頼の言葉だ。

 私たちは「自分、自分」ということが強くて、色々な思い煩いや、不安、恐れを経験すると思う。だから何も出来ないむなしい自分に帰るのではなく、神に委ね本当の平安のうちに安らぐ者になりたいのだ。

 私たちの一切の罪を引き受けられて、杯を飲み干され、ここですべてのことが終わったことを宣言された。キリストの十字架によって、私たちの罪は「全額支払い済み」とされ、完全に清算されたのだ。それが神殿の幕が上から下まで真二つに裂けたことである。新しい時代が始まったのである。

 私たちが受けるべき罪を十字架の上で受けることのゆえに「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫ばれた。絶望した叫びだ。そうする他、私たち罪人を救う術がないのである。そこに私たちのための父なる神の悲しみが表現されている。

 私は「わが神、わが神。どうしてわたしをお救いになったのですか。」と言わざるを得ないのだ。このことによって、罪より贖われ、救いに入れられ、永遠の生命に与る者とされていることを信じ、感謝するのである。

兵士たちはイエスを、邸宅、すなわち総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。そしてイエスに紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、それから、「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」と叫んであいさつをし始めた。また、葦の棒でイエスの頭をたたいたり、つばきをかけたり、ひざまずいて拝んだりしていた。彼らはイエスを嘲弄したあげく、その紫の衣を脱がせて、もとの着物をイエスに着せた。それから、イエスを十字架につけるために連れ出した。そこへ、アレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が、いなかから出て来て通りかかったので、彼らはイエスの十字架を、むりやりに彼に背負わせた。そして、彼らはイエスをゴルゴタの場所(訳すと、「どくろ」の場所)へ連れて行った。そして彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒をイエスに与えようとしたが、イエスはお飲みにならなかった。それから、彼らは、イエスを十字架につけた。そして、だれが何を取るかをくじ引きで決めたうえで、イエスの着物を分けた。

 イエスは十字架刑に処せられた後、ローマ兵全部隊の内に置かれた。ここに現されていることは、一人では何も出来ないが、集団になるとみんなで渡れば怖くないという群集心理が働き、感覚がマヒして意地悪い行動をする姿である。

 王侯貴族を表す紫の衣装を着せられ、王のシンボルとして王冠を、それもいばらで編んだものをかぶらせたのである。何とも残酷である。このようにイエスは痛みと辱めを受けたのだ。もちろん、私たちにとって他人事ではない。人はいつでも残酷になれるのだからだ。

イザヤ50:5〜6神である主は、私の耳を開かれた。私は逆らわず、うしろに退きもせず、打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。

 イエスはが「ヴィア・ドローサ=悲しみの道」と呼ばれる道の途中で、ムチ打たれたからだが衰弱し、倒れたのである。誰もそれを見て同情し、身代わりになる者はいない。そこに田舎から過越の祭のためにエルサレムに出て来たクレネ人のシモンにその役割が巡って来てしまった。それも無理やりにである。

 シモンは何が起こったのかは理解出来なかったであろう。けれどもイエスの後を歩かされたのだ。ムチ打たれた背中から血が滴り落ちているイエスの後ろ姿がそこにあるのだ。

 そうしながら、これまでの経過を思い起こし「何故、イエスはこのように苦しみの中を黙々と進むのか。」と痛みは理解出来ても、シモンには十字架の死の後、復活の出来事まで分からないことであった。

 この場にいる人々も私たちもシモンと同じで,イエスのこの姿を理解出来ないのだ。それが私たちのためであることを。いや、本当は私のためにだったのである。

ローマ4:25主イエスは,私たちの罪のために死に渡され,私たちが義と認められるために,よみがえられたからです。

 イエスは神からソッポを向いて、平気で生きている人、敵対している人たちのために、この苦しみを受け入れられ耐えられたのである。それは私たちへのアガペーの無条件で愛するためだからであったのだ。

 はっきり言って、イエスの死を理解するには、やはり時間が必要になる。であるから、私たちは日々聖書を通して聞くことや、礼拝でイエスのことを聞く必要があるのだ。また、イエスの証し人として語り継ぐ必要があるのである。このシモンも後にキリスト者となるのだ。それがアレキサンデルとルポスとの父とあることなのだ。

夜が明けるとすぐに、祭司長たちをはじめ、長老、律法学者たちと、全議会とは協議をこらしたすえ、イエスを縛って連れ出し、ピラトに引き渡した。ピラトはイエスに尋ねた。「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」イエスは答えて言われた。「そのとおりです。」そこで、祭司長たちはイエスをきびしく訴えた。ピラトはもう一度イエスに尋ねて言った。「何も答えないのですか。見なさい。彼らはあんなにまであなたを訴えているのです。」それでも、イエスは何もお答えにならなかった。それにはピラトも驚いた。ところでピラトは、その祭りには、人々の願う囚人をひとりだけ赦免するのを例としていた。たまたま、バラバという者がいて、暴動のとき人殺しをした暴徒たちといっしょに牢にはいっていた。それで、群衆は進んで行って、いつものようにしてもらうことを、ピラトに要求し始めた。そこでピラトは、彼らに答えて、「このユダヤ人の王を釈放してくれというのか。」と言った。ピラトは、祭司長たちが、ねたみからイエスを引き渡したことに、気づいていたからである。しかし、祭司長たちは群衆を扇動して、むしろバラバを釈放してもらいたいと言わせた。そこで、ピラトはもう一度答えて、「ではいったい、あなたがたがユダヤ人の王と呼んでいるあの人を、私にどうせよというのか。」と言った。すると彼らはまたも「十字架につけろ。」と叫んだ。だが、ピラトは彼らに、「あの人がどんな悪いことをしたというのか。」と言った。しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ。」と叫んだ。それで、ピラトは群衆のきげんをとろうと思い、バラバを釈放した。そして、イエスをむち打って後、十字架につけるようにと引き渡した。

 「使徒信条」にある「イエスはポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」と言う告白はこの場面のことである。

 ローマのユダヤ総督ピラトのもとに祭司長たちがイエスを送ったのだ。そうして、ローマの手による裁判が始められたのである。

ルカ23:1〜2そこで、彼らは全員が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。そしてイエスについて訴え始めた。彼らは言った。「この人はわが国民を惑わし、カイザルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることがわかりました。」

 ユダヤ議会と祭司長たちはイエスを死罪にしたが、死刑を執行する権限がなかった。それでイエスをメシアと信じる人々に「イエスはメシヤではない。ローマに反逆して木に架けられて殺されるだけのただの男である。」とするために、ピラトに判決を求め、ローマの方法で十字架刑にしたかったのだ。

使徒13:28そして、死罪に当たる何の理由も見いだせなかったのに、イエスを殺すことをピラトに強要したのです。

 ピラトはイエスに「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」と聞き、イエスは「そのとおりです。」と答えている。もちろんこれはこの世の王としてではない。御国の王と言うことである。

ヨハネ18:36わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。

 ピラトはもう一度イエスに「何も答えないのですか。」と聞いたがイエスの平然とした態度にピラトは驚いたのだ。そこでピラトはその祭りには、人々の願う囚人をひとりだけ赦免するのを例としていたので、暴動のとき人殺しをしたバラバを引き出し、ピラトは彼らに「イエスを釈放するのか、バラバをか。」と言った。

 祭司長たちは群衆を扇動して「バラバを釈放せよ。」「イエスを十字架につけろ。」と叫ばせた。そしてピラトはこのことばを聞くのだ。

ヨハネ19:12もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです。

 ついにピラトは皇帝からの評価に、ローマの人々からの受けるであろう恥辱から自分を守ることを優先し、どんな悪いことをしたというのか見当たらないと言っていたにも関わらず、私には責任がない、自分たちで始末するがよいとバラバを釈放し、イエスをむち打って後、十字架につけるようにと引き渡したのである。

 私たちキリスト者もそのことによって救われ神の子どもとされ、イエスを王として歩んでいる者である。そのキリストの似姿へと変えられているのだ。感謝である。

 さて、私たちはどちらを選ぶのだろうか。誰に信頼して歩むのであろうか。私たちのすることはただ神の救いを、恵みの十字架と復活を受け取るだけなのだ。それを喜びとし、感謝することである。それが神の望まれることであり、神の喜びとなるのである。

 バラバのためにイエスは十字架を引き受けたのだ。バラバは自分の冒した罪の罰の執行を待つだけの者だった。その彼が無罪放免され、自由とされた。また神はピラトの罪を、私たちを赦すために、イエスを見捨てたのである。

ローマ5:6〜8私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

全16ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]


.
jc_*rot*er
jc_*rot*er
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
友だち(7)
  • takuya
  • ふみくん
  • shi**sora2*00
  • nojimapark
  • TERU-HIDE@初日
  • かよちゃ
友だち一覧

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

ブログバナー

Yahoo!からのお知らせ

検索 検索

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事