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恵み

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私たちの幸福

 私たちの幸福とはどのようなことなのだろう。どこにその幸福があるのだろう。私たちはそれを得たいと願って、頑張っているといえる。

 読売新聞1月3日の「日本あれこれ」欄に「あなたにとって幸福とは何ですか」というアンケート結果が出ていた。

 「現在、幸福だと感じていますか」には「どちたかといえば幸福」が51%「幸福」が36%であった。その中で2つまで回答できる項目の中でダントツなものは「健康なこと」で67%あり、次いで「しあわせな家庭生活」が39%あった。

 私たちはどんなに健康で豊かな人生を送っても、突然の死が襲って来たらどうなるのか。健康であることは喜びだが、神の御国と無関係であるより、たとえこの世で恵まれたと言えなくても、神の御国に家を持てるこの幸いを喜びとし、その完成を待ち望む。

 私たちの幸福は何よりも私たちを造り、生かしている神とともに歩むことにある。私たちの幸福は自分で作り上げるものではなく、源はすべて神にあるということなのだ。

 それで神は言われる。最高最大の幸福は「神の子どもとしての身分である」と。イエスによってもたらされた特権としての神のこどものことだ。この幸福は決して消え去るものではない永遠のものだ。
 その永遠は尽きることのない神との時間をすごすことのできるいのちのことだ。この永遠のいのちが私たちにある幸福である。また、それは神の喜ばれること。

 イエスは言われた。「あなたは、新しく生まれ変わらなければ、神の国を見ることはできない。」と。イエスの十字架で新しく生まれ変えられた。そしてイエスは言われる。「あなたは永遠の死から永遠のいのちに生きる者だ。」と。

 私たちの求める幸福は、神からの祝福。「人の苦労は何もそれに加えない。」とあるように、私たちの働きではなく神の祝福が私たちを富ませるのだ。あくまでもイエスが道であり、イエスを通って父なる神のもとに行くことができる。
 私たちは「日毎の糧を今日も与え給え」と祈り、恵み豊かな神に感謝する。私たちの神は私たちの必要を知っていて、すべての物を豊かに備えて楽しませて下さる。私たちはこの神に望みを置くのである。

1テモテ6:6満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。」

 物の豊かさが人の人生を豊かにするのではない。またいま絆が大切だという。家族が友がともにいることの大切さも大事なことだ。ただそれ以上に神との関係を持つことこそが最大の幸福だ。

 神はともにいて見捨てない。この信仰に立ち、そこに留まるのだ。イエスは「わたしがあなたがたを選び召した。あなたがたはわたしを離れては、何もできない。わたしに留まれ。」と。それが生きる力になるからなのだと。この世だけで終わるいのちに生きるのではなく、復活するいのちに生きるのだ。

 私たちは自分でこのいのちを永らえさせることはできない。いつまでこの地上で生きるのかは神のご計画に御手の中にあることだ。けれども、その生かされているいのちの内に信仰によって歩み続けたい。

 私たちは持ってないようでも持っている者、満ち足りる秘訣を与えられた者。この恵みを忘れないで新しい年の初めに歩み出す。

Merry Christmas!

主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。


 最初にある風景は羊が緑の牧場に伏していたり、川で水を飲んでいたりと、牧歌的である。けれども、現実はそうではない。岩場が多く泉も川も多くない地において、いつでも死に直面している羊をいのちに導く羊飼いがいると言っている。

 私たちには多くのものが自分を導くものとなり得る。特に暮らし向きの自慢となる金銭、肩書き、評価が、その人の人生に大いなる影響を与えるものとなる。人々はこの世の富み、権力、名誉なでの益を求めて生きることを良しとしそれを求め、その先にあるさばきを知らず過ごしている。パウロはそのように生きていたのだが、復活のイエスと出会って、それらのものを無意味であるとした。

 イエスを自分の羊飼いとした者の幸いが語られている。イエスは私たちのたましいを生き返らせ、神に似せて造られた者として、神との親しき関係に生きることの喜びをもたらしたのである。

 この世にあって牧場の羊とされた私たちキリスト者は、この世の者でないために死の陰の谷を歩く経験をするのだが、その中にあって神からの慰めを持って歩めるのだと言うのである。平安は苦難の中にある喜びのことである。

ヨハネ16:33わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。

 イエスは罪と死の支配する世に打ち勝ったお方である。このお方がともにいるのなら、私たちが羊飼いイエスの声を聞き従おうとする時、私はイエスのいのちに満たされる。あなたが私とともにおられますから、私は、乏しいことがありません、と言えるのだ。

 また敵の目の前で神が私たちのために宴会を用意していると、驚ろくことが書かれている。私たちが仕え人であるのに神が給仕してくれると言うのだ。この状況から誰が神の御手から奪えるのか。

 私たちを追いかけてくるのは苦難ではなく、神のいつくしみと恵みなのだ。私の杯は喜びであふれることになる。それで「恐れるな!」と言っているのだ。何と驚く恵みではないか。

イザヤ58:11主は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。

 私たちが求めているのは苦難からの解放だけではない。神の家に住むことなのだ。イエス・キリストを心からあがめ、ほめたたえて、ともに歩むことである。

詩篇27:4私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです―

 キリスト者は大きな変化を受けた者なのである。見た目においては大きな変化が見えなくても、過去といまでは雲泥の差のある生き方に変化しているのである。

 以前の私たちの向かうところが神ではなく、自分の肉の欲という的はずれな方向に向かっていたのである。さらに、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、神に頼るのは人間として弱い者で、落後者だと教え込まれて神を否定し、この世の栄華を追い求めることへと駆り立てられていたのだ。
 
2コリント4:3〜4私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々の場合に、おおいが掛かっているのです。その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。

 この世の神が福音が届かないように、信じないようにと、私たち人間に働きかけ、神のことばをつまらないものにと思いをくらませているのである。

 けれども、神はその支配から解放し、暗闇から光に移すためにイエスを遣わされたのだ。どこまでも「神ともにいますーインマニエル」であることを示すためにである。クリスマスの出来事はその幕開けなのだ。そして私たちもともに歩み、永遠を楽しむ者とされたのだ。

 生まれながら御怒りを受けるべき子らであったが、あわれみ豊かな神はその大きな愛のゆえに、この罪と死の支配の中で死んでいる者をそこから引き上げるために御子イエスを与えられたのである。

 恵みは神からの賜物である。何か良きことをしたことに対し与えられる報酬でもない。私たちはそれを要求する資格も、受ける資格もない者である。神に逆らっている者であるにも関らず、与えられる恵みなのだ。

 そのように歩んでいた私たちはイエス・キリストに出会って再び生きる者とされたのである。そして私たちには無縁なのにイエスの血を代価として罪を赦され、私たちは神の子とされたのだ。ただただ神の恵みである。

 私たちは今一度、このクリスマスの時に「私は自分の罪過と罪との中に死んでいた者、空中の権威を持つ支配者の霊に従っていた者、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行っていた者、生まれながら御怒りを受けるべき子でした。」ということを自覚して、それが過去のこととされた、ということに喜ぶのである。

 そして罪過の中に死んでいた、御怒りを受けるしかない私たちの罪をイエスの上に置き、私たちの罪を処罰してくださったことを覚えて、死ぬべきいのちをイエスのいのちと引き換えに新しいいのちに生かしてくださった、あわれみ豊かな神の大きな愛のゆえに救われた、恵みに感謝するのである。

このすべての出来事は、主が預言者を通して言われたことが成就するためであった。

 私たちすべては、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない者である。不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されている。

 その状態から離れ去ることは私たちに不可能なのである。そのためには誰か罪のない者が必要なのだ。そのために、創造主の神が私たち被造物の人間の世界に来られた。

ヨハネ1:14、16〜17ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。・・・私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。

 私たちの思いとは違う方法で来られた。人の行いではなく神の霊似よってナザレの乙女マリヤの胎に宿ったのだ。神はいのちを創造されるお方である。イエスは人間と同じように生まれたが、それはパウロのように神に特別に選ばれ者とされて生きたのではない。神が人となって来られたのだ。

 いにしえからの預言がその名を「インマヌエルー神は私たちとともにおられる。」という呼ばれるイエスにおいて成就したのだ。それがクリスマスの出来事である。これが恵みである。

ルカ1:35聖霊があなたの上に臨み、いと高き方があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。

 驚くべきことにイエス・キリストを自分の救い主と信じた者も、罪が赦されるだけではなく、イエスと同じように神の子と呼ばれるのだ。

ヨハネ1:12しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。
 
 私たちは神の子どもとされるにふさわしい者ではなかった。私たちは自分を高みに置いていた罪人であった。けれども、いまは神のあわれみによって、にも関らずの愛をもって私たちを恵みのうちに生かしておられる。神の祝福が注がれているので私たちは信頼する。

 神はすべてにおいて備えを先行させてくださっている。天地万物を造り、動物を、植物を備え、そこに私たち人間を置かれたのだ。恵みから始まったのである。

ローマ11:6もし恵みによるのであれば、もはや行いによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくります。

 信仰の勝利の秘訣は恵みに安息することで、自分で頑張って得ようとすることではないのだ。私たちはすでにイエス・キリストにあって神に受け入れられている。だから、喜びをもって進むのだ。

 神の望まれていることは私たちがイエス・キリストに目を向け、私たちに何をもたらしたか、十字架でいのちを捨てたことの意味をより深く知ることなのだ。

ヘブル9:26しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。

神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。

 創造主なる神が私たちを罪と死の支配する暗闇から救うために遣わされたのがイエスである。

 イエスは暗やみの圧制者サタンに捕らわれて奴隷となっている私たちを光の中に引き移されるために来たのである。

エペソ6:12私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

 ここにあるように、この世を支配しているのはサタンである。生まれながらの私たちの主人はサタンで、私たちは奴隷なのだ。それでそのままでは永遠の滅びに至るしかない者である。しかし私たちの造り主の神は私たちが暗闇にとどまっていることを良しとはしないのだ。だからイエスが来たのだ。神が救いの道を備えたのだ。

 神はイエスのいのちと引き換えに、私たちに永遠の滅びに至る道から、永遠のいのちの道にもたらされるプレゼントを用意されたのだ。それがクリスマスである。このプレゼントは誰でもが喜んで受け取ることが出来るのである。

 私たちキリスト者は今まで罪の奴隷であり、サタンの奴隷であったのだ。キリストから離れていた私たちはこの世にあって望みもなく、神もない人たちだったのだ。

 そのような者を神はイエスを自分の救い主キリストとしたことによってサタンの支配から救い出されたのである。罪の奴隷から神の奴隷に戸籍が変わったのである。

1ペテロ1:18〜19ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

 奴隷が解放されために払う身代金を神が支払ってくれたのである。それがイエス・キリストの十字架で支払ったいのちだった。御子イエスは私たちの罪の罰を受けるために来たのだ。事実、それを成し遂げてくれたのである。

 だから、神はイエス・キリストを自分の主とした者を罪なき者とし、肉体の死はあるが永遠の死へのさばきから引き離されたのである。

エペソ1:7私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。

 この神からの恵みを受け取った者は、新しい生き方に生きる者となるのである。なぜなら、恵みは本来、それを受けるに価しない者に対して、にも関らずの愛をもって一方的に無償で神から与えられるもののことであるからだ。

 私たちはあわれみと愛の恵みによって救われている。その視点に立って日々に救いを喜び、感謝する者である。私たちには何一つ良きことがなく、また良きことが出来ない者でありながら愛され、神の聖徒とされている者だ。ねばならない、と言う強迫観念ではなく、神との関係の確かさを喜び、恵みをより確かなものとしていくことなのだ。

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