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アブラハム

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アブラハムは、もうひとりの妻をめとった。その名はケトラといった。彼女は彼に、ジムラン、ヨクシャン、メダン、ミデヤン、イシュバク、シュアハを産んだ。ヨクシャンはシェバとデダンを生んだ。デダンの子孫はアシュル人とレトシム人とレウミム人であった。ミデヤンの子は、エファ、エフェル、エノク、アビダ、エルダアであって、これらはみな、ケトラの子孫であった。アブラハムは自分の全財産をイサクに与えた。しかしアブラハムのそばめたちの子らには、アブラハムは贈り物を与え、彼の生存中に、彼らを東のほう、東方の国にやって、自分の子イサクから遠ざけた。以上は、アブラハムの一生の年で、百七十五年であった。アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた。彼の子らイサクとイシュマエルは、彼をマクペラのほら穴に葬った。このほら穴は、マムレに面するヘテ人ツォハルの子エフロンの畑地の中にあった。この畑地はアブラハムがヘテ人たちから買ったもので、そこにアブラハムと妻サラとが葬られたのである。

 アブラハムの生涯は神の約束のことばを信じる信仰によるものであった。アブラハムは信仰によって永遠を待ち望みつつ、平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、サラと同じマクペラの洞窟に葬られたのだ。

ヘブル11:13〜14これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。

 アブラハムの生涯は生まれ故郷、父の家を離れて神が示す地に行くように、旅人、寄留者としての人生だった。このアブラハムの生き方はすべての人の目的を示している。

1ペテロ2:10あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。

 いままでは根なし草のようであたが神の子どもの目指すところは天のふるさとなのだ。それでいま置かれているこの地上での生を確かにして、歩みをしていくのである。

 そして神はアブラハムに与えられた祝福の約束をイサクを通して、また子孫を通して拡がっていくことになるのだ。それはすでにイエスによって救いのわざがなされ、いまも私たちの世界に拡がり続けている。私たちキリスト者はこの祝福のうちに生きている。私たちも子孫たちに信仰を受け継がせることが望まれている。

 アブラハムはもうひとりの妻をめとった。その名はケトラと言う。そのケトラの子孫のことは詳しくは分からないのだが、彼らもまたイシュマイルとともにアブラハムの子孫なのだ。いまはアブラハムのイサクの子孫であるイスラエルと敵対しているのだが、いつの日には彼らもアブラハムの祝福が及ぶことになる時が来るのだ。
 
 平安な老年を迎えられたのは天にある神の国に対する確信である。アブラハムは神とともにいる人生を送ることが出来た。これはアブラハムだけのことではなく、いまの私たちすべてがもつべきイエスにある確かな希望のことなのである。

 アブラハムは信仰に生き、信仰に死んだ。私も高齢者といわれる範疇に入っている者として、信仰に生き、信仰に死ぬ者でありたい。

朝になって、彼らが起きると、そのしもべは「私の主人のところへ帰してください」と言った。すると彼女の兄と母は、「娘をしばらく、十日間ほど、私たちといっしょにとどめておき、それから後、行かせたいのですが」と言った。しもべは彼らに、「私が遅れないようにしてください。主が私の旅を成功させてくださったのですから。私が主人のところへ行けるように私を帰らせてください」と言った。彼らは答えた。「娘を呼び寄せて、娘の言うことを聞いてみましょう。」それで彼らはリベカを呼び寄せて、「この人といっしょに行くか」と尋ねた。すると彼女は、「はい。まいります」と答えた。そこで彼らは、妹リベカとそのうばを、アブラハムのしもべとその従者たちといっしょに送り出した。彼らはリベカを祝福して言った。「われらの妹よ。あなたは幾千万にもふえるように。そして、あなたの子孫は敵の門を勝ち取るように。」リベカとその侍女たちは立ち上がり、らくだに乗って、その人のあとについて行った。こうして、しもべはリベカを連れて出かけた。そのとき、イサクは、ベエル・ラハイ・ロイ地方から帰って来ていた。彼はネゲブの地に住んでいたのである。イサクは夕暮れ近く、野に散歩に出かけた。彼がふと目を上げ、見ると、らくだが近づいて来た。リベカも目を上げ、イサクを見ると、らくだから降り、そして、しもべに尋ねた。「野を歩いてこちらのほうに、私たちを迎えに来るあの人はだれですか。」しもべは答えた。「あの方が私の主人です。」そこでリベカはベールを取って身をおおった。しもべは自分がしてきたことを残らずイサクに告げた。イサクは、その母サラの天幕にリベカを連れて行き、リベカをめとり、彼女は彼の妻となった。彼は彼女を愛した。イサクは、母のなきあと、慰めを得た。

 アブラハムは神の約束の実現を確信し、見えない事実を確認することが出来たのだ。それで自分のしもべを兄弟のところに送ったのだ。そしてその確信の通りにしもべはイサクの妻となるリベカを見出し、いまイサクのもとにつれてくるのだ。

 しもべはリベカの両親、兄弟からイサクのもとに行くことの了解を得た。そしてその晩は泊まり、翌朝に帰ると申し出る。みなは引き止めるのだが、しもべは一時も早くアブラハムのとこるに帰って、これらの経過を知らせたかったから、帰ることを願った。

 リベカを呼んで聞くと「はい。」と答えた。リベカはこのしもべを通して語りかける神の声を聞き、それを良しとする神の招きに応じようと決断し、また一時も早くイサクに会いたいと旅立つのである。ちょうど、アブラハムが神の声に応じて旅立ったようにである。

 リベカはイサクと出会い、アブラハムへの神の約束である「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。」ということの栄光に与る者とされたのである。

 しもべはイサクにこれまでの経過を話すのだ。これらすべての出来事は私の主人であり、あなたの父アブラハムへの神からの報いであったことだと説明した。リベカもまた、イサクに会う前にベールで顔を覆って、主人となるイサクにすべて信頼して委ねる従順さを示した。この二人は御霊が働くままに受け入れ、自分を全面に出すことなく、その心はどこまでもへりくだっている姿を見ることが出来る。

 イサクはリベカをめとり、彼女を愛し、母のなきあと愛する者を得た喜びで大いなる慰めを得たのである。イサクはこうして新しい人生を始めることが出来た。それもすべてが神からのプレゼントなのだ。

 私たちの父なる神は、私たちの必要をご存知で、たましいの飢え渇きをも知って大いなる慰めと励ましを与えてくださるお方である。私たちもまた、イエスによって新しい人生を生きる者とされたのだ。神は私たちの日常に働きをされている。そのことを無駄にすることのないようにと、神に願い、祈り、神とともに歩み、励むのだ。

 それで今、あなたがたが私の主人に、恵みとまこととを施してくださるのなら、私にそう言ってください。そうでなければ、そうでないと私に言ってください。それによって、私は右か左に向かうことになるでしょう。」するとラバンとベトエルは答えて言った。「このことは主から出たことですから、私たちはあなたによしあしを言うことはできません。ご覧ください。リベカはあなたの前にいます。どうか連れて行ってください。主が仰せられたとおり、あなたの主人のご子息の妻となりますように。」アブラハムのしもべは、彼らのことばを聞くやいなや、地にひれ伏して主を礼拝した。

 アブラハムはイサクの妻を自分の親族の住んでいるところから選ぶようにとしもべを遣わした。そうして出会ったリベカの家に行った。リベカの父ベトエルと兄ラバンの用意した食事を前に言う。「私の用向きを話すまでは食事をいただきません。」と。

 しもべは自分のすべきことを知っている。自分が来た目的を話すのだ。彼は言った。「私はアブラハムのしもべです。あなたは私の父の家、私の親族のところへ行って、私の息子のために妻を迎えなくてはならない。」と言われた。そこで旅立ち、この地でリベカと出会ったと経過を説明する。

 すべては神が私の主人の兄弟の娘を、主人の息子にめとるために、私を正しい道に導いてくださった、と神をほめたたえ、そのわざを証ししたのだ。

 普通ならまず自己紹介をしながら食事をともにし、世間話をし、宴会を楽しむのだが、まず用件を終わらせてから交わることにする、と言うのだ。

 このしもべの姿勢に学ぶことがある。私たちは誰かに証しする時、そのほとんどが自分の生い立ちや苦難の話しで、自慢話をする人もいる。神をイエスがどれほで素晴らしいお方であるか、私たちに何をされたのかを話すことが少ない。そしてイエスを信じればすべてが良しとなるみたいな表面的な益を強調することが多い。

 けれども、しもべは自分がどれだけここまで苦労を重ね、来たのかではなく、一貫して主人アブラハムから言われたことの正しさ、神がそのように導かれたのだと、神の素晴らしさを証ししている。また、願ったから、自分の何かがあったので神が為してくれたとも言わず、あくまで神の必要が成されたと言っている。

2コリント4:5私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるキリスト・イエスを宣べ伝えます。私たち自身は、イエスのために、あなたがたに仕えるしもべなのです。

 自分を見れば何も良きことが出来ないのでみじめになる。そのような私たちを神は自分の子どもにしてくれている。私たちには何一つ誇るところなだない。私たちはただ神のことばキリスト・イエスを宣べ伝えることだけなのだ。キリスト・イエスを宣べ伝えるところに神の働きが起こる、あると言うことなのだ。

 そういうわけで、しもべは二人に私の主人アブラハムの願いを聞いてくれるならそのように言って欲しいと言うのである。それに対しラバンとベトエルはこのことは神の導きであることだから、その通りにしてください、と言ったのだ。

 しもべはここで自分だけではなく、ラバンとベトエルにも導きをされたことを見て、改めて神を信じる者にもたらされる喜びと平安に感謝とともに、畏れ、地にひれ伏して礼拝したのだ。神の計画は私たちの思いを超えて進む。私たちが神とともに永遠に生きるためにである。 

らくだが水を飲み終わったとき、その人は、重さ一ベカの金の飾り輪と、彼女の腕のために、重さ十シェケルの二つの金の腕輪を取り、尋ねた。「あなたは、どなたの娘さんですか。どうか私に言ってください。あなたの父上の家には、私どもが泊めていただく場所があるでしょうか。」彼女が答えた。「私はナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘です。」そして言った。「私たちのところには、わらも、飼料もたくさんあります。それにまたお泊りになる場所もあります。」そこでその人は、ひざまずき、主を礼拝して、言った。「私の主人アブラハムの神、主がほめたたえられますように。主は私の主人に対する恵みとまこととをお捨てにならなかった。主はこの私をも途中つつがなく、私の主人の兄弟の家に導かれた。」

 しもべは「あなたは、どなたの娘さんですか。」と聞く。その答えに驚く。少し前にアブラハムに伝えられたことがあった。それはアブラハムの兄弟ナホルの家の出来事だった。その中で妻ミルカが八番目に産んだベトエルのことが語られ、そのベトエルに娘リベカが生まれたことを聞いていた。

 この娘はまさにアブラハムに伝えれた兄弟ナホルから出たベトエルの娘であったのだ。しもべは自分の思い描いたことを、神がそのままピッタシカンカンのわざを実現してくれたことに驚き、神は私の主人に対する恵みとまこととをお捨てにならないと神をほめたたえ、そしてこの私をも途中つつがなく、私の主人の兄弟の家に導かれたと感謝をささげたのだ。

 私たちは先のことは分からない。けれでも自分の思いではなく、神の導きに信頼するなら、神は見捨てることなく、恵みをもって追いかけてくださるお方なのだ。

 神は私たちを恵みで満たそうとされている。このしもべは神の御前にへりくだっている。神はおごり高ぶる者とともにいるのではなく、へりくだる者の傍らにともにいるお方だ。

 私たちは祈りの結果を求めるだけで、その結果を与えてくれる神をないがしろにすることが多い。しもべは結果によって神に信頼したのではなく、結果を見て、信頼している神の約束の確かさ、ことばの確かさを実感し、さらに信頼する信仰を強くしたのである。

 私たちの信仰は御利益宗教ではない。神は自動販売機でもない。願ったことを祈ったりすればその通りになるというものではない。けれども神を信じ、信頼し歩み出す時、神は私たちのいまを最善をもって対処してくれるお方であることを知るのだ。

ピリピ4:4いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

 いまCMで「あなたはひとりじゃない。みんなが一つになれば乗り越えられる。日本に力を信じてる。」と連日のように流されている。私たちの神はこのような呼びかけをするだけではなく、実際に私たちを祝福するために、御子イエスを与えてくれたのだ。

 私たちは誰であっても幸福を求めて生きている。喜べ!と言うことはどの状況にあっても神がいつでも私たちの最善を知り、その栄光のわざを起こすお方であることを私たちも知っていることにある。

 私たちの人生における現実を願いと祈りによって神に知ってもらう。神は私たちのことを心配してくださるからである。そして神は私たちが願う前に神は備えをもってさらに恵もうと待っている。そのお方である神を知っていゆえに私たちは結果が自分の思いとは違っても恐れることなく信頼するのだ。

しもべは主人のらくだの中から十頭のらくだを取り、そして出かけた。また主人のあらゆる貴重な品々を持って行った。彼は立ってアラム・ナハライムのナホルの町へ行った。彼は夕暮れ時、女たちが水を汲みに出て来るころ、町の外の井戸のところに、らくだを伏させた。そうして言った。「私の主人アブラハムの神、主よ。きょう、私のためにどうか取り計らってください。私の主人アブラハムに恵みを施してください。ご覧ください。私は泉のほとりに立っています。この町の人々の娘たちが、水を汲みに出てまいりましょう。私が娘に『どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください』と言い、その娘が『お飲みください。私はあなたのらくだにも水を飲ませましょう』と言ったなら、その娘こそ、あなたがしもべイサクのために定めておられたのです。このことで私は、あなたが私の主人に恵みを施されたことを知ることができますように。」こうして彼がまだ言い終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せて出て来た。リベカはアブラハムの兄弟ナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘であった。この娘は非常に美しく、処女で、男が触れたことがなかった。彼女は泉に降りて行き、水がめに水を満たし、そして上がって来た。しもべは彼女に会いに走って行き、そして言った。「どうか、あなたの水がめから、少し水を飲ませてください。」すると彼女は、「どうぞ、お飲みください。だんなさま」と言って、すばやく、その手に水がめを取り降ろし、彼に飲ませた。彼に水を飲ませ終わると、彼女は、「あなたのらくだのためにも、それが飲み終わるまで、水を汲んで差し上げましょう」と言った。彼女は急いで水がめの水を水ぶねにあけ、水を汲むためにまた井戸のところまで走って行き、その全部のらくだのために水を汲んだ。この人は、主が自分の旅を成功させてくださったかどうかを知ろうと、黙って彼女を見つめていた。

 しもべはアブラハムとの約束を携えて目的地ナホルに旅立った。そもべもまた、創造主なる神を信じている。それが祈る時の「私の主人アブラハムの神、主よ。」という呼びかけに神に信頼していることが表されている。

 しもべは目的地に着いてしたことは神に祈ることだった。その祈りはただイサクの妻を与えてください、という抽象的なことばではなく、この後に起こるであろう出来事を具体的に描写するものであった。

 イサクは遊牧人だ。水汲みは女のすることだったからそれをイメージして、その生活を積極的に手助け出来る妻が必要とこのしもべは考えたのだ。

 すると祈ったそのままが現実となっているのを見るのだ。リベカはすべてが当たり前のこととして行うのである。この娘は非常に美しかったとあるが、それは見た目だけではなく内側もそうであったことをも見ることが出来る。

 しもべはそれが偶然のことなのか、それとも願ったことの実現なのか、ただ黙って成り行きを見守っている。しもべは自分の思いはあるが、ことを行ってくれるのは神であることを知っていたのだ。

箴言16:3あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。

 聖書は自分の考えではなく神に拠り頼めと言うのである。神がどのようなことをするのかを体験して欲しいのだ。神から外れては間違った選択を推し進めてしまうからだ。

 私たちも祈り、後は神が何をなさるかを黙って見守ることが必要である。自分の計画、思いはある。けれども神には私たちの思いを遥かに超えた計画がある。そして神がそれらを実現するのである。私たちはその時の実現を待ち望むという信仰を確かにしたい。

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