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おやじの好き勝手なつぶやき

神がともにいる

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主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることを成功させてくださるのを見た。

 兄弟によって銀20枚でイシマエル人のキャラバン隊に渡され、そしてエジプト人ポティファルに奴隷として売られた。父ヤコブの寵愛を受けていた時には考えられないこととなったヨセフ。

 故郷から父から遠くに引き離されたヨセフ。あの放蕩息子も父から遠くなったが、それは自分が望んだことで、後に帰ることができた。けれどもヨセフはそこから何もできない孤独な時を迎えた。

 ヨセフも落胆し怒り、希望を見失っただろう。父ヤコブもひとりになって恐れた。そしてその時、自分の神を見出し、神とともに歩むことの幸いを得て前進している。ヨセフも神から夢を見せられ、神からの務めに用いられることが来ることを示されていた。そのことに思いをよせ、神を待ち望んだのだ。

 神がヨセフとともにおられたので、することに無駄がなく主人に信頼を置かれるようになった。主人の目にかなったのだ。ポティファルはヨセフにこれまで見たことのない、奴隷の態度ではない謙遜さと忠実さを見たのだ。それでヨセフの上にイスラエルの神の祝福を見出したのだ。

 ここで見たように、神がとともにいることの祝福はその者だけに留まるのではなく、周りにも注がれて行くものなのだ。

 けれどもここでポティファルの妻によって濡れ衣を着せられる出来事が起こる。それで主人に投獄される。妻の誘惑の乗らなかったのは主人の信頼を裏切らないため、誠実であろうとすることだ。

 そして何より「どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」ということば通りにヨセフは神の御前に正しい者として歩んでいたのだ。

 この神の前に歩んでいる信仰が大切なのだ。ヨセフはそのことで投獄されるのだが、この苦難にもなお、神の御前に誠実であったのだ。それゆえに監獄のうちにあって、世話役としての務めを得ている。

 その後、エジプト王が見た夢を解き明かした。その時もヨセフは感謝な心をもって、それをしたのは私ではなく私の神がパロの繁栄を知らせてくださったのだと証しする。

 その内容は七年の大豊作と七年の大飢饉があるというものだ。またそれへの備えをも伝えた。豊作の時に少しも無駄にしないように蓄え保管し飢饉の時に役立てることを。

 このことでパロはヨセフにエジプト全土を支配する者とした。そしてヨセフはこれまでの一連の出来事は自分がなしたことではない、すべてに神の御手が働いたことだとして、ヨセフは神の取り扱いにまかせ、信仰によってその務めを果たすのだ。

 ヨセフの与り知らないところで神の御手が働いていた。奴隷となった時も、投獄された時も、エジプトの支配をまかされた時にも神がとともにおられ、計画のうちに導かれていたのだ。神がとともにおられたので幸運な人となり、何をしても成功したといわれる生き方に歩むことができたのである。私たちにもそう働いてくださる神である。

箴言3:6あなたの行く所どこにおいても主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

 聖書には夢や幻で神の思いや計画を現す場面が多くある。この時代、夢を通して神の思い、計画が現されると思われていた部分があった。それで人々は夢に現われたことに特別の関心があったのだ。

 神はヨセフを多くの兄弟のうちから選びだされた。それは神の主権によるものであり、神の御手のうちにあることで、この夢はまさに神の選びと召しが現れている。

 ヤコブの寵愛を受けている11番目の息子ヨセフが夢を見た。「どうか私の見たこの夢を聞いてください。見ると、私たちは畑で束をたばねていました。すると突然、私の束が立ち上がり、しかもまっすぐに立っているのです。見ると、あなたがたの束が回りに来て、私の束におじぎをしました。」ヨセフは「また、私は夢を見ました。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいるのです。」父は彼をしかって「おまえの見た夢は、いったい何なのだ。私や、おまえの母上、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、地に伏しておまえを拝むとでも言うのか。」と言いました。兄たちは彼をねたみましたが、父はこのことを心に留めていました。

 自分のうちに秘めておけばよかったのだが、話したことで父に戒められ、兄弟たちには憎まれ、殺そうと思われた。けれども父ヤコブはこの夢のことは神の心ではないかとして心のうちに置いた。ヤコブにすれば自分の経験からして、これらのことは神の計画によるものだと思ったのだ。

 ある時、ヤコブはヨセフを兄弟たちが牧しているところに行かせる。そこで出来事が。兄弟たちはヨセフを殺そうと企むが、ヨセフを捕えて穴の中に投げ込み、獣の餌食にと図る。けれどもそこに通りかかったイシマエル人のキャラバン隊に銀20枚で売ることになった。このようなヨセフの状況をも神は用いて、選びの責任を取ってくださる。

 この時の兄弟たちはヨセフに対するもののようで、実は神に対して悪を図っていたのだ。「さあ、彼を殺して穴に投げ入れ、悪い獣が彼を食ったと言おう。そして彼の夢がどうなるかを見よう。」ヨセフが見た夢は自分たちがヨセフの家来になるというものだった。ヨセフがいなくなればそれは実現しないとすることだったのだ。

 神の計画は確かなものであり、誰が阻止することのできるものではない。神は人間の愚かさを通してまた、当のヨセフの、また兄弟の予想をも乗り越えたものを起こされる。

 この結果、ヨセフは後にこのように言っている。「あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変わらせて、今日のように多くの民の命を救おうと計られたのです。」と。

 このようにヨセフをエジプトに送ることが、イスラエルの発展、繁栄にと繋がることになったのである。ヨセフが見た夢はこの先のエジプトで実現することになる。

 私たちはどうしても自分の益を求めてしまう者である。神の導きは私たちの思惑とは違って、神の善の支配に入ることだ。人の導きは全き保証はないが、神の導きは全き完全なものである。

 私たちには知ることができない神の大いなる計画は私たちにもあることを知り、神に信頼をその道に導かれていきたい。

 神は人間の罪を罪とせず、御子イエスに罰を十字架で下した。古から約束された救い主を遣わし、滅びからの救いをもたらす計画を実行されたのだ。福音は私たちがイエスの勝利の内側に置かれることだ。私たちはすでにそこに置かれている者とされている。

主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。あなたは前からうしろから私を取り囲み、御手を私の上に置かれました。そのような知識は私にとってあまりにも不思議、あまりにも高くて、及びもつきません。
 
 神が私たちと同じか、少し優秀だとするならそれは創造主なる神ではない。神は私たち人間の思いをはるかに超えた、偉大なお方である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、そして私の神である。私たちはその神に知られている。

 私たちが勝手に見放された、見捨てられたと思ったとしても、私たちから目を離さずを、祝福のうちに御手に捕らえてくれている。神に知られている私って、すごくない?というわけだ。私たちはこの神がいることを意識することは大きなことだ。そこには生ける神を求める思いが生まれるからだ。それで私たちは知っていてくれる神を喜ぶのである。

 ここでは神に対して自分の内側にある欠け、破れを探ってくださいと神に自分のすべてをさらけ出している。私たちの欠け、破れが病であれば癒し、自分の失敗であれば回復を、神から離れることであれば悔い改めをと、いつもあわれみをもって支えている。ゆえに私たちは信仰生活を送ることができているのだ。

黙示録3:20見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

 救われた喜びのうちにイエスとより親しき関係を築き上げていく。そこにあるのがイエスといつもともにいる平安だ。イエスを信じる私たちのうちに聖霊がおられる。私たち救われた者はそれで完全とされたわけではない。だから日々において自分の内側を開け放していくことが必要なのだ。開け放つ時、私たちはイエスとより深く結びついていくし、その歩みを確かな道として導かれるのだ。

 いままで自分勝手に歩んできた私たちの人生が神に導かれる。神が私たちの人生に目的を備えていることを知って、悪しきことを神は善となすとして忍耐できていくのだ。

 画家ホルマンが描いた戸をたたくイエスの絵がある。その戸にはノブがない。内側から開けるために。イエスは私たちとの関係が豊かになり自由になるようにと、かたくなな心を開くことを願って、閉ざしている戸をたたき続けている。
  
 私たちの心は信仰を得ていても多くの扉を閉ざしている。自分にとっておいしい話しは聞く喜びを持つが、神の望まれている神の子としてふさわしい歩みを、と言われることばにいばらをかぶせてしまう。

 それでイエスが戸をたたいて私たちが己が力でことをなすことではなく、イエスの支配に任せる領域を拡げるようにと願ってたたくのだ。これも神とともにある者の特権である。

23〜24神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。
 
 神がすべてを知っていてくださる、この神に私たちの人生を導かれて歩むことの幸いを、喜びを味わう日々でありといと願うのだ。

 ヤコブは叔父ラバンのもとで20年働らいた。二人の妻と多くの子どもを、財産を得た。そして神の「故郷に帰りなさい。」の語りかけに応答した。

 ヤコブには未解決のことがあった。あの日以来、音信が途絶えた兄エサウとの和解である。それでエサウに出会う前に使いを送り和解を申し出た。けれどもエサウが400人も引き連れて来ることを知り復讐を恐れたのだ。

 そこでヤコブは神に祈り求める。その一方でプレゼント攻撃で相手の心を落とそうとし、さらに群れを二つに分割した。神に助けを求めながら人間的な対策を用意をする。ヤコブの恐れは神の約束に信頼できない思いがあったのだ。

 その夜、ヤコブは大事な妻子を対岸に渡らせる。ヤコブは自分の身の安全を求め、家族さえ犠牲にしようと図ったのだ。自分だけが安全な最後尾にして残こったのだ。

 自分一人だけ残ったヤコブに何者かが夜明けまで格闘する出来事があった。その人はヤコブのかたくなな心に勝つことをされず、もものつがいを外し「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから。」と言って離れようとする。

 けれどもこの時、ヤコブは自分の強さという神の前の弱さを見出し『いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」と答える。ヤコブは腿の関節を外されてはもう誰とも戦えない。それまでの人を押しのける生き方ができない、弱い者とされた。その時ヤコブは気がついた。神から離れるわけにはいかない、必要なことはエサウとの和解ではなく、神からの祝福だと。

 そうして自分ではなく神がされることに身をゆだねた時、押しのける者から神の支配に入るイスラエルとなったのだ。ヤコブは新しい生き方を始める。ヤコブはこのことを通して祝福を与えられた者となったのである。

 そしてそれまでエサウを恐れて最後尾にいたヤコブが最先頭に立つ。そしてエサウと顔を合わせへりくだった態度を取ることができた。そこに兄エサウが迎えに走って来て、ヤコブをいだき、首に抱きついて口づけし、泣いたのだ。神とともに歩もうとする時、この兄弟のうちに、人とともに歩むことの喜びが実現したのだ。

 ヤコブはもものつがいを外され、歩くことに困難をすることとなったのだが、顔と顔とを合わせて神を見たのに、人間が神を見ることは死を意味していたのに生きている者とされていることを感謝をした。

 私たちキリスト者はヤコブと同じように、神の顔を見てなお生きている者なのだ。それはイエス・キリストの十字架によるのである。イエスはいまもともにいるが、私たちはこれからイエスの顔を見る時を、救いの完成の日を待ち望んでいる。イエスを信じる者たちがイエスに会って、顔と顔とを合わせることになるのだ。

1テサロニケ4:16〜17主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

 私たちはその日その時、栄光のからだに変えられイエスとともに永遠の時間を過ごすのだ。それがキリスト者への約束である。 

 神が私たちとともにいると聖書は語る。

 ヤコブとエサウは双子だった。ヤコブは兄エサウの長子の権利を得ようとし、父親イサクから長子の祝福を奪い取るの。それでエサウは父が死んだら弟ヤコブを殺そうとする。そこで母リベカは自分の故郷カナンに送り出す。

 ヤコブはその途中で石を枕にして、一夜を明かそうと決めた。そして夢を見る。そこには天から地に延びるはしごが。それは自分から天に昇ることができない人間に対して、天の方から迎え入れる道が備えられた形を取っている。それだけではなく、神がかたわらに立っておられ、こう語られた。

12〜15わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたがたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。

 この約束のことばはアブラハムに与えられ、イサクに繋がり、いまヤコブに語られた。ヤコブにとっては神は父イサクの神であり、私の神ではなかったが「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」と告白する。ここで初めて自分の神としての神の臨在を知る。ヤコブは神が私とともにおられたのだ、ということを見出し、祝福のことばを受け、励まされて進もうとするのだ。
 
 ヤコブはいままでは母の庇護のもとで暮らしていたが、自分がしたことはいえ、これから待ち構えていることに対する不安と恐れと、少しでも兄から遠くに離れたいという思いで一杯になっていた。その精神状態の時に、神がともにいて祝福すると語られたのだ。

 神は私たちの痛みを弱さを知っている。神は私たちの日々のうちにおられる。ヤコブはそれに気づかなかった。私たちに重要のことはともにおられる神とその恵みに気づき、喜びとすることだ。神はいつの時代でもどの場所でもすべての人がご自身を見出すことを願っている。

 ヤコブは朝早く目を覚ます。そこは前日と何一つ変わっていない。けれどもヤコブには大きな人生の転換が起きたのである。ヤコブはそのところを神の家、また天の門と名付けた。その場所を記念とするのだ。

 そこでヤコブは誓願を立てる。その中身は神が私とともにいるなら、何かしてくれたら、与えられるものの十分の一を捧げる、という御利益的な信仰ではあるが神の祝福のうちに歩もうとするのだ。

 私たちキリスト者はイエス・キリストを通して救われたのだ。イエスは罪のうちにのたうちまわる私たちが神の祝福のうちにいるようになるために、天から降り十字架で死に、三日目によみがえり、天に昇り、天の故郷に迎え入れるために、再び来る日を待っている。

 イエスを通って入っている私たちにはいのちがあり平安があるのだ。信仰はひとりでするものではない。イエス・キリストにあって神の子とされている喜びを喜ぶことなのだ。

 私たちが神を待ち望むところに神が出会ってくれる。私たちの心がイエスへ向くことで平安を得、深い交わりを持つことができる。そこにイエスの臨在が私たちを覆い、愛によって保ってくれるのだ。

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