生活の中の聖書

おやじの好き勝手なつぶやき

出エジプト

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全12ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]

 モーセは神からの指示を受けて幕屋に必要なのものを作り上げる。

1〜2主はモーセに告げて仰せられた。「第一の月の一日に、あなたは会見の天幕である幕屋を建てなければならない。」
17 第二年目の第一月、その月の第一日に幕屋は建てられた。

 出エジプトの初め、過越しが行われた時に神は言われた。「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ。」新しい歩みの始まりの時だ。この時、出エジプトから2年目の記念の日に幕屋が建てられた。

39:42〜43イスラエル人は、すべて、主がモーセに命じられたとおりに、そのすべての奉仕を行なった。モーセが、すべての仕事を彼らが、まことに主が命じられたとおりに、したのを見たとき、モーセは彼らを祝福した。

 「主がモーセに命じられたとおりに」ということばが繰り返されている。神の語られたことばに忠実に、寸分違わず造り上げたのだ。そして幕屋の作成を完了する。モーセはその仕事を終えた。

34〜38そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。モーセは会見の天幕にはいることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。雲が上らないと、上る日まで、旅立たなかった。イスラエル全家の者は旅路にある間、昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があるのを、いつも見ていたからである。

 神の栄光が幕屋に満ちた。その栄光は神の臨在の輝き。確かにそこにおられることのしるしが満ち満ちたということ。

 モー セは以前にこのように言っていた。「もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください。」モーセは「あなたなしでは生きることができない。」と。

 いまの私たちも前に後ろに立ち私たちを導びいているこの神がともにいることに喜び、生きている。
   
ルカ2:14いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。
  
 インマヌエル、私たちとともにいるイエスの誕生を記念とするクリスマスの喜びは神が私たちに和解を与え、神との平和を取り戻すことを良しとされた喜びの訪れの日なのだ。それで「栄光が、神にあるように」と賛美するのだ。私たちは神の栄光を賛美するために存在する。

ヨハネ12:23〜24イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」

 イエスの栄光は十字架に上げられ、一粒の麦として地に落ちること。奴隷の地から引き出し、信じるすべての者の罪を赦し、父なる神とともにいる永遠へと引き寄せること。それを成し遂げること。イエスにある神の栄光は神の契約の真実を現している。

 このお方は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、この方は恵みとまことに満ちておられる、信頼に足りるお方だ。イエスは罪から救い上げるため、イエスの御名によっていのちを得るために来たキリスト救い主である。

 テレビ番組の「ビフォウ・アフター」を見るのが好きだ。それを見ていて感じるのはあの問題の家を良くぞ造り直したな、ということ。匠が設計しそれをもとに棟梁たちがそれを現実のものに建て上げていく。どの匠を見ていても、どこから出てくのかと思うようなアイデアがあり、そのわざには思わずながら感心してしまう。テレビのことばではないが「何ということでしょう。」だ。

2〜7モーセは、ベツァルエルとオホリアブ、および、主が知恵を授けられた、心に知恵のある者すべて、すなわち感動して、進み出てその仕事をしたいと思う者すべてを、呼び寄せた。彼らは、聖所の奉仕の仕事をするためにイスラエル人が持って来たすべての奉納物をモーセから受け取った。しかしイスラエル人は、なおも朝ごとに、進んでささげるささげ物を彼のところに持って来た。そこで、聖所のすべての仕事をしていた、知恵のある者はみな、それぞれ自分たちがしていた仕事から離れてやって来て、モーセに告げて言った。「民は幾たびも、持って来ています。主がせよと命じられた仕事のために、あり余る奉仕です。」それでモーセは命じて、宿営中にふれさせて言った。「男も女も、もはや聖所の奉納物のための仕事をしないように。」こうして、民は持って来ることをやめた。手持ちの材料は、すべての仕事をするのに十分であり、あり余るほどであった。

 ここにもベツァルエルとオホリアブを初めとして、神から知恵を授けられた、心に知恵のある者すべてがいる。聖所の奉仕の仕事をするために民が朝ごとに、進んでささげるささげ物はあり余るほどであった。それでモーセは命じた。「もはや聖所の奉納物をの持って来ることをやめるように。」と。まさに「何ということでしょう。」だ。

 民を動かしたのは、神がイスラエルの上に闇夜から光の内に移されたこと、すべての恵みを豊かに与えてくれたことにある。そうなのだ。私たちの神はキリスト・イエスにあるご自身の栄光の富を持って、私たちの必要をすべて満たしてくださるお方である。

ピリピ4:19また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。

 神の与えられる祝福は余りあるものなのだ。私たちがするために必要な知識と力は神が備え、与えてくださる。それを私たちは心から進んで、喜びのうちに神の働きのために用いて行く。そこにあふれんばかりに神は報いてくれる。「何ということでしょう。」

 私たちはそのことに気付き、イエスにある喜びによって満たされることが必要なのだ。この喜びをイエスは与えたいと望んでおられる。

 今年の一文字漢字は喜びの関係を表す「絆」だ。私たちの絆は何かによって崩れてしまう脆いものだが、神のくださる絆はそのようなことのない「あなたを捨てず、孤児とはしない。」というものである。

 イエスが来られたクリスマスが示すのは、生きる喜びを与えるため。また私たちがイエスを救い主と信じる信仰が神を喜ばせることになるのだ。それで従順に従うことをしていくのであり、そのような者とされていくことなのだ。

ミカ6:8主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。

 神はイエスの十字架の死によって、私たちの罪を処分された。神は罪に対しする怒りを収められ満足された。イエスを信じる私たちは神と和解され親子関係にされたのだ。それは神から贈り物。ゆえに私たちは喜んで従って行くのだ。

 いよいよ幕屋を建て上げ始める。まず初めにモーセは「これは、主が行なえと命じられたことばである。」から守り、建築をしていくと命じる。次に材料について命じる。

4〜5モーセはイスラエル人の全会衆に告げて言った。「これは、主が命じて仰せられたことである。あなたがたの中から主への奉納物を受け取りなさい。すべて、心から進んでささげる者に主への奉納物を持って来させなさい。」

 幕屋に必要な材料はそれぞれが喜びをもって、心から進んでささげる。民はこの前にも持ち物を喜んでささげていた。それは間違った動機であって、自分たちの安心のために金の子牛を作ってそれを神として拝んだのだ。

 苦難から助けられ、感謝し喜び、新しい歩みを始めても、最初の喜びが「のど元過ぎれば熱さを忘れる。」のだ。神はそのことを怒られ、民を見放そうとされ、滅ぼすと言われた。神のことなど何も考えないし、無視していた。

ピリピ2:21だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。

 けれどもモーセのとりなしゆえに赦され、幕屋を建て上げることに積極的に参加する。まず求めるものは、神の国と義に生きること。それで民は自分にできることでささげ物を携えて来る。心は人間の中心で、それが行動に駆り立てさせる。神の語られることばには力といのちがあり、人を動かす。信仰の回復に一歩踏み出したのだ。

21 感動した者と、心から進んでする者とはみな、会見の天幕の仕事のため、そのすべての作業のため、主への奉納物を持って来た。29 イスラエル人は、男も女もみな、主がモーセを通して、こうせよと命じられたすべての仕事のために、心から進んでささげたのであって、彼らはそれを進んでささげるささげ物として主に持って来た。

 ささげ物は幕屋を作るための材料であったり、作業を円滑に行うための知恵、匠の技である。それらを持ち寄ることによって幕屋は建て上げられていくのだ。

 私たちは誰かに与えたりすることは案外平気でできるのだが、なぜか神にはケチるのだ。ささげることは自ら進んで行なわさせるものである。神は私たちの喜んですることを受け取ってくれる。私たちが自ら進んで神にささげることは神との愛の関係が整っているからなのだ。

 私たちの信仰の原点はイエス・キリストが私たちのために、喜んでいのちを差し出してくださったことに感謝することだ。それで私たちイエスの十字架に感動した者として、いやいやながらではなく、また強制されてでもなく、心から進んで持ち物を、自分自身を生きた供え物としてささげ、できる奉仕をすることを喜びとしていくのである。

 みながみな、同じことができるわけでもなく、無理に背伸びすることなくそれぞれに与えられているものを用いていくのだ。私たちの心がいつも神に向かい、キリストを見上げて進んでいるなら、神の祝福に与り続けるのだ。イエスはあるやもめの献金する姿をほめられた。今後のことは神にいっさいを任せて、持っているものすべてを献げたからだと。

 神はイスラエルに対して「わたしはあなたといつもともにいる。」と言われた。私たちもそれに応答して「私もいつもあなたとともに歩みます。」と告白し、喜びと希望を持って従順な者として、導かれて、神の栄光が満ち溢れる宮をともに建て上げていきたいと願うのだ。

 神は「あなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。」とモーセに言われたが、神を怒らせ「ともに行かない。」と言われてしまい、このしるしを失ってしまった。何が大切なことかといえば、神がともにいる、これ以上のものはない。

 シナイ山で与えられた10のことばが書き記された石の板をモーセは下山時に見た民の姿に激怒してその板を投げつけてしまったのだ。けれどもモーセのとりなしを受け入れて神はイスラエルの民とともに行くことを確約された。

 モーセは神に言われた通り、石の板を二枚用意して翌朝、シナイ山に登り、山の頂で神の御前に立つのだ。

5〜7主は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、主の名によって宣言された。主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」

 ここに神のすべてが書かれている。神は咎とそむきと罪を赦すお方である。すべてのものにいつくしみ深く、そのあわれみは造られたすべてのものの上にある。愛のお方である。けれども、義であり聖であるゆえにきちんと清算をされるお方でもある。

 神はモーセに言われた。「わたしが来たのはイスラエルを解放するためである。」と。神の恵みは神に背き好き勝手に生きる人間に惜しみない愛を注ぎ、赦しを備えておられる。恵みはそれに価しない者に注がれる神の惜しみない愛なのだ。

 もし神の怒りが落とされたならば、私たちはいまこのところにいない。なぜならば神を無視し、信じる者ではなかったからだ。

 けれども、罪ゆえに滅びに至ることが当然な私たちに代わって御子イエスが罪の呪いを受けて十字架で死に渡され赦しを与えてくださった。私たちを罪と死から解放するためにである。

 私たちが生かされているのは神のあわれみだ。神はただ同情するだけではなく、身をもって助けられる。何にもまして恵みとまことに富む神である。そしてキリストにおいてその恵みとまことが実現した。すべての動機は私たちへの愛であり、それがこの十字架に現われているのである。

ヨハネ1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

 御子イエスはすべてにおいて満ち満ちた神の本質を宿らせているお方である。イエスは私たちと同じ人となり、罪から救うために来られたまことの救い主である。まさにそれがクリスマスのメッセージだ。
 
 イエスは私たちとともにいる。そこに恵みとまことが、神の愛が現される。イエスの十字架に神の愛が、約束が、真実が現われている。それは神と親しく交わるため、初めであり終わりである神のふところに憩うため。私たちは神の中で安息する。

 イエスの誕生はどのような時代でも、大きな喜びの出来事なのである。神がともにいる喜び。神の御国へ入れられる喜び。永遠を生きる喜びの時なのだ。私たちは神からの恵みに、あわれみに、愛に感謝して歩む。いまあるは神の恵みである。神の約束の真実であるイエスの誕生は私たちの生きる喜びのためなのである。

 出エジプトに先立って神はモーセに「わたしはあなたとともにいる。わたしがあなたを遣わす。」と言われた。ここではイスラエルの民が身に付けていた金で偶像を作り拝んだゆえに、神から自分たちだけで約束の地へ向かえと言われてしまった。

 出エジプトを完了してくれた神に対してイスラエルの民は神にすがらず、頼らず、不平不満に満ち、父なるお方を無視し自分たちが安心できるように偽物の神を拝んだ。

 うなじのこわい民と言われる。子どもが欲しいもののそばで泣きわめき、そのばを離れようよしない姿がそうだ。自分の思いを親より優先して固まってしまう。そんな時「好きにしなさい。いつまでもそこにいなさい。お母さんは帰るから。」という声を聞くことがある。

 ともにいることを邪険にするならともに行かないと神は言われた。もちろんそれで民を突き放すお方ではない。「直ちに身に付けている飾り物を取りはずし、今度は神に捧げるならば、あなたがたをどうするかを考えよう。」と言われる。

 どんなに豪華な家を与えられてもそこに愛する者が住まわないのなら、それはむなしいこととなる。愛する者と住んでこそそこは安息の地となるのだ。私たちも不信仰によって困難を得、平安を失う。民は神がともに歩むことをやめると聞いて悔い改める。神を離れてどこへ行けるのか。そしてその成り行きを見守った。

 モーセは幕屋を建て上げ、神の指導者として名指しで選ばれたゆえにそこで神を待つ。神の選びと召しがすべての土台。この関係が大切。そこに神の栄光が、働く力が示され、私たちに成し遂げようとされる。それを受けるために神に信頼することが求められる。そして神は膝と膝とを合わせるように、友と語るように語られた。

11〜14主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。さて、モーセは主に申し上げた。「ご覧ください。あなたは私に、『この民を連れて上れ。』と仰せになります。しかし、だれを私といっしょに遣わすかを知らせてくださいません。しかも、あなたご自身で、『わたしは、あなたを名ざして選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている。』と仰せになりました。今、もしも、私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか、あなたの道を教えてください。そうすれば、私はあなたを知ることができ、あなたのお心にかなうようになれるでしょう。この国民があなたの民であることをお心に留めてください。すると主は仰せられた。「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。」

 モーセは「これまでもこれからも歩みを確かにされるのはあなたしかいない。」さらに「もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください。」と言った。モーセは民のかたくなさに困らせられ手一杯だった。神がいなければ何もできない、誰が正しく導くことができるでしょう、と言ったのだ。

 神は指導者モーセの労苦の働きを知っているのである。神は恵もうとする者を恵み、あわれもうとする者をあわれむお方である。それで労って「あなたを休ませよう。」と言われたのだ。

 モーセは神の民を解放するために召し出された。指導者は神ことばを伝え、栄光のために神の民を整え、成長させる務めを負っている。

エペソ4:12〜13それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。

全12ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]


.
jc_*rot*er
jc_*rot*er
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
友だち(7)
  • nojimapark
  • takuya
  • ふみくん
  • TERU-HIDE@初日
  • shi**sora2*00
  • レベキ監督牧師
友だち一覧

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

ブログバナー

Yahoo!からのお知らせ

検索 検索

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事