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キリスト者の立場

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 婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。そしてペンテコステの日に聖霊が下り、みなが聖霊に満たされ力強いスタートが始まった。それが起きた理由は、イエスのこの約束の実現を待ち望んでいたからだ。

使徒1:3〜4彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」 

 決して弟子たちの祈りを聞いて、それならそうしようとされたのではない。神のご計画の時が満ちたからだ。

 私たちはしばしば自分の望みを神に押し付け、神を便利な魔法のランプにしていることが多い者だ。けれども、私たちが祈り願うことは神がされた約束の実現を求めること。私たちの望むことを満たすことではなく、神が満たすことを求めることなのだ。

 私たちはいろいろなことで祈るということばを聞く。けれどもこの世の人々の祈りは対象者がいないか、ことばは悪いが死んだ人に求めるものだ。私たちの祈りは聞いて実現されるお方に向かってするもの。父なる神、子なる神イエス、聖霊なる神と親しく交わることであり、その時を持つこと。祈りは私たち神の子どもの特権である。

 私たちがすべきことは、神の約束に信頼し、神の最善を求める信仰の祈りだ。祈りは神を待ち望むこと。主の祈りでは「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈る。私たちの中でこのように神の約束が私たちの出来事となると信じてするのだ。 

 イエスは十字架にかかる前日、ゲッセマネの園でご自身の願いではなく、父のみこころを求められた。私たちの祈りも神のなさることを求める祈りでありたい。祈りにおいて神の計画に加えられることとなり、神の約束の確かさを知ることになるからだ。 

 それで私たちは神の国とその義とをまず第一にすることを求める。神との交わりが大切。日々に神の臨在にあることだ。それが神の子どもの原則だ。そうすれば、それに加えて、私たちの願うことはすべて与えられる、という。あくまで答えは神の主権的なもの。

1ヨハネ5:14〜15何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願うことを神が聞いてくださると知れば、神に願ったそのことはすでにかなえられたと知るのです。

 ソロモンは「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。」と願った。それに対して神はこう言われた。「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。」と。

 神は私たちの願うことを求めるようにと言われている。それで私たちは祈る。ソロモンはこのように自分のためにめることなく、神のしもべとして神の喜ばれることを求め、その願いはかなえられた。

 私たちも自分の願いだけではなく、神が私たちに望まれていることを求め、神の私たちに持っておられるご計画を進めて、それが私たちのうちに実現させくださるように、またすべての完成がなる時を求めて祈ることが必要だ。神の語ることばはむなしく飛び散るものではないから。神の栄光が輝き御名があがめられることを祈る日々でありたい。

 ペンテコステの日に多くの人々が信仰に入った出来事があった。それは聖霊によって炎の舌が降り、弟子たちを通して聞く人々に応じた方法で神のことばが語られた出来事だ。

使徒2:4みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

 ペテロは十一人とともに立って声を張り上げ、このことばを聞いてくださいと呼びかけた。それは十字架につけられよみがえったナザレ人イエスのこと。人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。

使徒2:40〜41ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに勧めた。そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた、その日、三千人ほどが弟子に加えられた。

 弟子たちの語ることばを聞いた人々のたましいに神の真理の御霊が強く迫ったのだ。それでたましいを揺れ動かされた人々3000人がその日にイエスをメシアと信じる信仰を持った。そしてその後、さらに多くの人たちが先に救われた人々の生活を通して加えられていったのだ。

 それは神のことばが語られたからだ。神のことばには生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができるものなのだ。

 解放の出来事は私たち人間のことばで救いが起きたのではない。あくまで権威ある圧倒的な神のことばの力によって起き、神の光が差し込み、暗闇から解放され光に移されたのだ。イエスの教えは律法学者のような自分勝手なものではなかった。イエスのことばを聞いた人々はその教えに驚いた。ことばに権威と力があったからである。悪魔、悪霊も従うもの。静まれ!の一言で自然界も従うものなのだ。

 この力は岡本太郎のことばではないけれど、爆発だ〜と言われる力のことだ。目の前の厚い壁を打ち砕き、重い岩を吹き飛ばす力だ。このペンテコステの出来事を受けて弟子たちの生き方がガラッと変わってしまう。恐れおののいていた弟子たちが大胆に迫害をものともしないで、イエスの約束通り聖霊が降り、力を受け、地の果てに至るまでイエスの証人として福音を伝える者へと変わったのだ。

 私たちが誰かに慰め、励ましを語る時、単に聖書にはこのようなことばがある、といってサラッと読んで格言のように、また何か徳となるもののように伝えるのではなくて、聖書に書かれた神のことばには権威と力があるもの、生ける、いつまでも変わることのない神のことばであるからと、受け取ることを勧めるていくのだ。

 私たちに求められていることは、私たちの個人的な思いではなく、福音を神のことばとしてのイエス・キリストを語ること。私たちにもたらされたイエス・キリストの出来事だ。なぜなら、十字架の言葉は、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力だからだ。それで私たちは聖霊が語らせるままに「神のことば」であるとして語りかけ、また権威をもった神のことばとして受け取っていく。ことばは神であったと聖書は言う。

 いまの私たちもまた、神のことばを聞き、死からいのちに移された者となったのだ。救いに与ったのはあくまで神のあわれみ、恵み。キリスト者は神から生まれた者。神の子どもとして生かされている者。神の最善に生きる者である。私たちのうちには神の種が蒔かれている。それで私たちも日々に変えられていく、キリストに似た者へと。

ヨハネ14:18わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。

 私たちが捨てられないのは、イエスが神から捨てられたからなのだ。イエスは十字架上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫ばれた。神がそうされたのは私たちがいのちに生きるためであったのだ。
 イエスはその前に「父よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」と言われている。それは私たちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、私たちの罪をご自分の身に負われ、神に見捨てられてくださったのだ。

 イエスの約束を確かにするために私たちに聖霊が送くられ、私たちが神の子どもとして信仰に生きるようにされている。それだけではなくイエスは救いのわざを完了し、天の御座にいて救われた者を新天新地に迎え入れる祝福に与らせるために、再びこの地上に来ようとしている。戻って来ると言われたことばを完了するために。
マルコ14:29ペテロがイエスに言った。「たとい全部の者がつまづいても、私はつまづきません。」31ペテロは力を込めて言い張った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」みなの者もそう言った。
 
 ペテロたちはイエスを見放さず見捨てないと言った。けれども現実はイエスが捕えれてると各自ちりじりとなってイエスを見捨てて逃げ去ったのだ。ペテロ自身イエスが捕らえられた晩、三度、イエスを知らない裏切っている。
 
 ペテロは自分がイエスを見放なしたのでイエスも自分を見捨てたと思って、故郷に逃げ帰っていたのだ。このペテロの姿は私たちの姿であるのだが、こんな者にイエスは見放さず見捨てないと言われたのだ。復活のイエスは離れ去ってしまったペテロに現れ、愛をもって見捨てないことを示された。

ヘブル13:5わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。

 決してという強いことばの約束が示されている。イエスはきのうもきょうも変わることのないお方、約束がこの世のようにコロコロ変わることのない永遠のものである。

 そして神はすべての人が救われることを願って、忍耐をもって待ち望まれている。けれどもいつかその時が来る。ノアの家族とすべての生き物が箱船に乗り込んだ七日過ぎに洪水が地上に起こった。そして後ろの扉を閉められた。ノアとともに箱舟にいたものだけが残った。

 神は人をいのちあるものとして、ともに生きるものとして造られた。ノアは自分のいのちに生きたのではなくこのいのちに生きた。神との交わりの中に生きることを喜びとしていた。神はそれを良しとされた。

 私たちはこの新天新地に希望を持っている者。ここに向かって新しい歩みをしている者。それでキリストに似た者とされる救いの完成の約束に期待する。すでに神の子とされていることを喜び、感謝して。

ヨシュア1:9わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。

 いつもともにいるイエスのこの力強い励ましに支えられ、この約束を確かなものとして、与えられた信仰にともに歩み続けるのだ。

エペソ5:1〜2ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。
 
 キリストは私たちがまだ罪人であったとき、エスは私たちのいのちを救うためにご自分を死に渡された。神は御子イエスのいのちを犠牲にしてまでも、さまよっている私たちを価値ある者とされたのだ。愛する者のために自分のいのちを捨てることよりも大きな愛はどこにもない。キリストは愛のうちに歩み通された、だからあなたがたも愛によって歩みなさいと言われている。

8〜10あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。―光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです。―そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。

 パウロは何が主に喜ばれるかを吟味して生きることが光の子の生き方だと言う。私たちがとっさにすることはいつも心にあること、それまでの生きてきた土台からくるものだ。

 神の望まれる私たちの生き方はキリストを信じて、主に結ばれてすでに光の子どもとされたのだから、決してやみの中を歩むことなく、いのちの光に生きるようにということだ。
 
15〜17そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。

 愚かではなく知恵ある生き方をするようにという。この知恵ある生き方は私たちの人間の知恵ではない。また愚かさは神を取り外す生き方のことなのだ。光の子どもの歩みはこの世と調子を合わせないもの。

 私たちのすることは何よりもイエスとともに歩むことだ。そしてともに空を眺め、飛ぶ鳥を眺め、道端の、野原に咲く花を眺めること。神の創造された自然界を眺め、楽しむこと。イエスのされたことを見つめ、心に留め、それに倣うことだ。

 イエスの弟子たちは三年半イエスとともに過ごしたがイエスの語られたことば、されたみわざを見ていながら、いざとなると逃げ出し、復活のイエスがとともに歩んでいるにも関わらず分からなかった。私たちもイエスを意識していないとこの弟子たちのようにイエスに気が付かづかず追いやってしまうことになってしまう。

 イエスは十字架で死に、天に昇り、いまも生きて、もう一度私たちのところに来ようとしている生きる神である。このイエスとともに歩み新しいいのちに生きることが私たちの喜びである。

ミカ6:8主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。

 私たちの歩みもこのように父なる神と交わり、神とともに歩む生き方をしていくことが求められている。それはイエスはいつも父なる神と交わり、ともに歩まれたことだからだ。
 
 私たちは愛されている子どもだ。それで世の基準ではない生き方をするように召されている。キリスト者とは文字通りキリストの歩みを目指していく者だ。以前の古い自分を脱ぎ捨てた新しい人なのだから。

 私たちは罪と死の力か、いのちの御霊の力か、どちらによって動かされるかが問われている。かつては罪の支配の法則に生きていた者。けれどもいまはその支配から解放され、内に住む神の御霊によって、死ぬべきからだを生かし、永遠のいのちの支配のうちに置かれた者。神はイエスによってこの罪を完全に処罰された。 

ローマ8:1〜4こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。

 うれしいことにキリスト・イエスにある者は罪の追求を受けず、無罪判決を受けると言われている。それは私たちの努力の結果ではなく、キリストの十字架と復活とによって与えられたもの。

 キリストが十字架で死んだその目的は私たちが守れなかった律法の要求が全うされるためだった。イエスも律法を廃棄するためではなく、成就するために来たと言っている。律法の要求は愛することだ。

マタイ22:37〜40『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。

 これは肉においては不可能なことで、なぜなら生まれながらの人は肉であり、神に敵対しているものだからである。それは神の愛を知る者とされ、御霊の導きにおいて可能となることである。すでにこの律法は私たちの心に書き記るされている。

ローマ7:12 ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。
  
 十戒に書かれていることを見ればそれが分かる。これらはすべてに誤りがないもの。神は唯一の創造主なる神であり、私たちは神によって造られた者であることを示している。私たちのあり方は神との関係を確かにすることにある。神の愛に憩い、いのちに豊かに生きること。

 私たちに関するものを見ても正しいものだ。私たちがともに良き兄弟姉妹との絆に生きるためのものだ。それはそのまま私たちを生かすいのちの道となる、祝福の基である。けれどもその良いものを人間が祝福への道から引き離してしまった。そこにあるのが神のことばより自分の思いを優先させようとする罪なのである。
  
 その中にあって私たちは肉に従って歩まず、御霊に従って歩む者である。キリストに結ばれて、いのちの御霊の力が働いて上へと導かれた者だ。

 キリスト者はもうすでにイエスによって成就された律法に生きる者だ。神の喜びに歩み続ける生き方をする者。その私たちのうちに働いてことを行なわせてくださる。従順に仕える者とされている。救われた者は聖められ、ますますイエスに似た聖く生きる者とされている。

 キリスト・イエスのうちにいる、交わりを持ち保っている私たちは罪に定められることは決してないというこの救いは完全なのだ。これは神の子どもの特権である。イエスが来たのは私たちがいのちを得、このいのちにあって豊かに歩み続けている者である。

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