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おやじの好き勝手なつぶやき

1コリント

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台風一過で暑い日だ。被害に遭われた方に主の慰めがありますように。

 私たちの存在はこの世からイエスにあって引き抜かれたいわゆる部外者だ。この世はその私たちを「そんな不確かさから離れて、目に見える楽しみに生きようよ。」そっちの水は苦い。こっちの水は甘い。」とふらつかせようと誘惑する。

13〜14目を覚まして、霊的な危険に身構えていなさい。いつも、主に忠実でありなさい。男らしく行動し、強くありなさい。すべての点で、親切と愛から出た行動をとりなさい。 

 パウオは最後にコリントの教会の人々に言い聞かせている。キリスト者として何をするのかにおいて幼子であってはいけない、この世はそれを無にしようとするが、あなたがたは神のことばに堅く立て。そこにこそ真理があるのだと。

ヨシュア1:9さあ、男らしく勇気を出せ。恐れや迷いを蹴散らせ。いいか、どこへ行っても、おまえの神であるわたしが、ついているのだ。

 何と力強いことばだろうか。神からの最大の恵みは聖書を通して言われている「わたしがついている。」なのだ。私たちにとって最も大事なことは、神はどのような状況であってもこのことば通りに、ともにいるお方であることを信じて、そこに安息することだ。

 神は欠けだらけの私たちから離れ去ることがない。神の真実は昨日も今日もまた明日も変わることがない。この約束は私たちのものなのだ。だから言われる。「強くあれ、雄々しくあれ」と。

ヨハネ16:33あなたがたも、心配しないで、安心していなさい。こんなにも、念には念を入れて話してあげたのは、そのためなのですから。確かに、この世では苦難と悲しみが山ほどあります。しかし、元気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。

 イエスも私たちには信仰のゆえに普段の生活で何気ないようなことであっても悩みや痛みが起こる。何の心配や思い煩うことがないとは言わない。困難はあるがそれを通して鍛え、また問題が解決されることを経験し、図太く生きるのだ。

 私たちの信仰の土台はキリストにある。その土台にしっかりと立ち、どんなことが起こっても勇敢に対処できるように心を整い、キリストに信頼し、みことばに信頼し生活していく。

 そして神の愛に生かされている者がその愛を基礎にし、実践する者とされていく。どんなに立派なことを言っても、行っても愛がなければすべては何の値打もない、とはすでに言われている。

 イエス・キリストの十字架の愛に根ざし、その愛に基礎を置いている私たちがいる。キリストのにもかかわらずの愛は私たちを包み込んでいる。パウロは私たちのすべての動機がこのキリストが注がれた愛だ、そしてその愛に根ざし、しっかりと立ち、その愛のうちを歩く者だと言うのだ。

 愛の表れは親切。私たちにとって最大の親切は神の愛。滅びに至る道を歩んでいた者をいのちに生きる道に導き入れてくれた親切、これが神の愛。それがイエスの良き知らせだ。

 他人の必要を満たす親切は愛することだと聖書は語っている。時として「小さな親切。大きなお世話」と受け取られることがあるかもしれないが、親切にすることは大切なことだ。された時の喜びを知っているゆえに。

 前章でパウロは復活に生きる信仰で「しっかり立って、動揺することなく、いつも、主の働きに熱心に励みなさい。なぜなら、主のための働きが、決してむだ骨に終わらないことを、あなたがたは知っているから。」と言った。そしてパウロはエルサレムの教会の働きのために献金を募った。

1〜4さて、エルサレムのクリスチャンあての献金については、次のようにお願いしたいのです。〔この件に関しては、ガラテヤの諸教会にも同様に通知しておきました。〕日曜日ごとに、めいめいが、前の週の収入の一部を別にしておいて、この献金にあてなさい。その額は、主の助けによって得た収入に応じて決めなさい。私がそちらに行ってから、一度に全部集めることなど、ないようにしてください。私が着いたら、使者として信頼できる人たちを、あなたがたに選んでもらい、手紙をことづけて、エルサレムに派遣し、その愛の贈り物を届けさせましょう。私も同行するほうがよければ、そうしましょう。 
 この時は月給として支払われるのではなく、週単位だったようだ。パウロは毎週礼拝に集う時、めいめいが収入に応じて決めた額を献金とするようにと言った。互いに主の働きに与っている教会が必要を満たし合っていくことが大事だからだ。

 献金とは私たちの日常の働きの報酬の一定額を神に感謝するゆえにとりわけたものとすることなのだ。けれどもこれは募金ではないし、強制や義務でするものではない。また、すべての者ができることでもない。具体的な収入がなければ、感謝の気持ちを差し出せばいいのだ。神はこころを見ておられるからだ。

2コリント9:11〜14そうです。神様からたっぷりいただいたあなたがたは、人にもたくさん贈ることができるのです。そして、私たちが、その贈り物を必要としている人々に届ける時、そこには感謝が満ちあふれ、あなたがたの援助のゆえに神様への賛美がわき上がるのです。そういうわけで、その贈り物は、二つのすばらしい結果を生み出します。すなわち、困っている人々が助けられること、そして、彼らの神様に対する感謝の念が満ちあふれることです。援助を受けた人々は、自分たちや他の人々に対する気前のよい贈り物に大喜びするだけでなく、あなたがたが教えに忠実に行動している証拠を見て、神様をあがめることでしょう。また、あなたがたを通して神様のすばらしい恵みを知り、熱心に真心から、あなたがたのために祈るようになるでしょう。 

 パウロは喜びをもって進んでする献金がどのような働きをすることになるのかを教えている。「情けは人の為ならず」であると。その情けは誰かのためになるだけではない。その情けは結局、自分に返ってくるものだと。イエスも言う。

ルカ6:38与えなさい。そうすれば与えられます。彼らは、ますに押し込んだり、揺すり入れたりしてたっぷり量り、あふれるばかりにして返してくれます。自分が量るそのはかりで、自分も量り返されるのです。

 イエスは他人が必要とするものを与えることは喜ばしいことだと言っている。与えることによって起こることがある。それは受けた者から神への感謝が生まれることだと言うのだ。キリスト者は見返りを期待しない。それが喜びだから。またそれがキリスト者の特権だからなのだ。神がキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださった、ゆえにである。私たちはそのことを忘れてはならない。だからそれに応えていくのだ。

 私たちは使徒信条で「からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。」と告白する。イエスの復活は昇天に繋がり、私たちがこの世の生を終えた後に、新しいいのちを得て天の御国に置かれ、永遠を生きることの保証となった。

 では死人はどのような体で復活するのか。パウロはいまあるからだと復活するからだの違いを説明する。

43今の体は、病気や死で、私たちを悩まします。しかし、復活の時には、それは栄光に満ちたものとなるのです。確かに、今は死ぬべき弱い体ですが、復活の時には、力にあふれた体となるのです。 
48〜49人間はだれでも、アダムと同じ土の体を持っています。しかし、キリスト様のものとなった人はみな、キリスト様と同じ、天から与えられる体を、持つようになるのです。今アダムと同じ体を持っている私たちは、そのように、いつの日かキリスト様と同じ体を持つのです。 

 いまのからだは朽ちていくもの。けれども復活の体はキリストに似て、もはや朽ちることがない。キリストが再び来られるその時、私たちの死ぬべき体はキリストと同じ栄光の体に変えられ、絶対に死なない、新しい体に復活する。死からいのちに移される、この望みに歩み続けている。 

55〜58死よ。 おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。 おまえのとげはどこにあるのか。」罪、すなわち死をもたらすとげは、ことごとく切り取られます。そして、罪をあばくおきても、もはや私たちをさばきません。これらすべてのゆえに、どう神様に感謝したらよいでしょう。神様は、主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださるのです。そこで愛する皆さん、このように将来の勝利は確実なのですから、しっかり立って、動揺することなく、いつも、主の働きに熱心に励みなさい。なぜなら、復活は確かであり、主のための働きが、決してむだ骨に終わらないことを、あなたがたは知っているからです。 

 私たちの信仰がどれほどであっても、その生き方が伴っていなければ証にならない。確かに私たちの信仰生活は弱く、中途半端なものだが、私たちにはもうすでに死のとげが取り除かれている。そこに感謝する歩みがある。私たちは永遠の滅びに向かっている者だったのだから。

 この復活を知らない人生は「大いに飲み食いして、愉快に過ごそう。文句があるか。どうせ明日は死ぬ身だ。死ねば、何もかもおしまいなのだ」ということになる。けれども私たちは知っている、復活すること、永遠が待っていることを。

 それで救い出された者がすることはこれだ。置かれたところで咲くこと。神が喜ばれることが何であるかを見分け歩む。その一つ一つの働きは決してむだ骨に終わらないことを私たちは知っているからだ。私たちは勝利者として歩むことができる。

 私たちがするのは救われるため、祝福を得るためにではない。神がイエスにおいて救いを成し遂げたことによる。すでに祝福のうちに置かれているから、それをバネにして応答するのだ。それで主の働きに熱心に励みなさいと言われる。パウロの証しがこれだ。

コロサイ1:28〜29すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。

 私たちは生れながらに怒りの下にある者。それで問われていることは、私たちがアダムについたままにいるのか、キリストにつくことなのかだと。その結果アダムに居続けるならば永遠の滅びを受け、キリストに繋がれば神からの良しと永遠の喜びを得ることになる。
 
21〜23一人の人〔アダム〕の行為によって、死がこの世に入って来ました。そして、このもう一人の人〔キリスト〕の行為によって、今や、死人の復活は事実となったのです。人はみな、罪深いアダムの子孫として、その血縁のために、死ななければなりません。罪のあるところには、その結果として、死もあるのです。しかし、キリスト様と血縁関係にある者はみな、やがて復活します。ただし、順番があります。最初にキリスト様が復活なさいました。次に、キリスト様が帰って来られる時に、彼に属する全員が復活します。 

 ここには一人の人〔アダム〕と一人の人〔キリスト〕との比較が書かれている。はじめの人アダムは、神が初めに善悪の知識の木からは取って食べてはならない、それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬと言われていたそのことばに背き、従わない罪を犯した。

 アダムはすべての人間を代表する。植物を品種改良してもその性質は変わらない。リンゴはリンゴだ。良い実は良い木から、悪い実は悪い木の根からの養分を得て結ぶこととなる。

 同じようにアダムの腰の中にいたすべての人が罪の奴隷として生まれ、報酬としての死が定められてしまった。このように一人の人アダムの罪によって死がもたらされた。人間は罪人だからしてはならないことをし、具体的な犯罪を犯してしまうのだ。

ローマ5:16〜19アダムの一つの罪が、多くの人に死の罰をもたらしました。一方、キリスト様は、無代価で多くの罪を取り除き、その代わりにすばらしいいのちを下さるのです。この一人の人アダムの罪により、死はすべての人を支配する王となりました。しかし、神様から、罪の赦しと無罪放免という無代価の贈り物をいただく人はみな、この一人の人イエス・キリストによって、いのちの王となります。そうです。アダムの罪は、すべての人に刑罰をもたらしましたが、キリスト様の正しさは、人々を神様の前に正しい者とするのです。それで、人々は生きることができるのです。神様に従わなかったアダムは、多くの人を罪人にしましたが、神様にお従いしたキリスト様は、多くの人を神様に受け入れられる者としてくださいました。 
 
 現実には残念ながら信じないで滅びるを招く人がいる。けれども、罰は受けても祝福を受けるに値しない私たちはイエスを救い主と信じ受け入れ、罪の罰から救い出され、死から解放され、祝福のうちに置かれている。キリストの木に接ぎ木された。キリストの復活を受け取った。これはすべて、キリスト・イエスが成し遂げてくださったわざに基づいている。

 神が一方的な祝福を与えてくださった。御子イエスの十字架が罪の赦しを、神の良しを与えられ、新しく生まれ変わった者とされる。神はすべての罪ある者がイエスを信じることで罪ない者と宣言してくださる。それが私たちの立場とされたのだ。

 私たちはこの世のいのちの先にいのちを持っている。このすばらしい救いに与っている。恵みの下にある。死が支配することはない。私たちはいまだ地上に置かれているが、栄光のからだに変えられるその時を待ち望んでいる。それはキリストが帰って来られる時に、キリストに属する全員が復活することになるからだ。 

 いまの時代、復活や昇天や再臨が語られることが少ない。キリスト者の中にも死後はどうなるのかと心配する人もいる。語られるのはせいぜいが葬儀の時に、天で再会できる希望があるということぐらいだ。それよりもイエスの十字架の愛に生きようとは語られるが。

12〜20しかし、これだけは言わせてください。私たちが伝えたとおり、あなたがたが、キリスト様の死からの復活を信じているのなら、なぜ、「死んだ者は二度と生き返らない」と言ったりする人が出るのですか。もし死人の復活がないなら、キリスト様は、今も死んだままのはずです。もしそれが事実なら、私たちが宣べ伝えていることはすべてむだであり、神様に対するあなたがたの信頼もむなしく、価値のない、絶望的なものとなるのです。そして、使徒はみな、うそつきということになります。なぜなら、「神様はキリスト様を、墓から復活させられた」という私たちの主張は、もし死人の復活がないのなら、当然、うそになるからです。もし死人が復活しないのなら、キリスト様は、今なお死んだまま、ということになります。 そして、神様が救ってくださると信じ続けることは、全くばかげており、あなたがたは、今なお有罪宣告を受けたまま、ということになります。また、すでに死んだクリスチャンは、みな、滅んでしまったことになります。もしクリスチャンであることが、この世の生活でしか価値がないのなら、私たちほどみじめな者はありません。しかし、事実、キリスト様は死人の中から復活しました。そして、復活が約束されている何千万何百万もの人の、復活第一号となられたのです。 

 イエス・キリストは死者の中から復活したことを喜んで受け入れたあなたがたが、どうして死んだ者は二度と生き返らないなどと言うのだろうか。イエスの十字架の死が罪の赦しを私たちのものとなったと信じていながら、イエスに起こった死に打ち勝かった復活は別物だとするとはとパウロが嘆く。

 死んだ者は二度と生き返らないとするなら、その希望に生きなければ何をよりどころに生きるのか。滅び去ることになるこの世に希望を置くのか。神に信頼を置く信仰はどこに行ったのだ。もしイエスが死人うちから復活しなかったなら、死人を拝むこととなり、偶像崇拝となってしまう。それではいまなお、罪の中にいるままだ、イエスにあって先に死んだ者の死は無意味となり、滅びに至ってしまうではないかと。

 また、イエスの復活の喜びに生き、それを宣べ伝えていることはとてもアホくさいものとなってしまう。何故ならば、虚構を喜びそれを待ち望み、それを世に広めている生き方だ。

 けれどもイエスにおいて決定的なことが起きたのだ。神がイエスをよみに捨て置かず、死に打ち破って復活させた。もう墓の中にいない、いまも生きて天のところにおられる。この復活はイエスだけに起こったことではない。信じて復活が約束されている私たち何千万何百万もの人の復活第一号となられたということだ。

 イエスに起こった復活は神の約束の実現であり、私たちの未来の姿を見せるものである。信じる者に最終的に与えられるのは、永遠のいのちを持ったからだの復活に生きることだ。そして私たちはこの望みに生きている。

 イエスに起こったと同じことが私たちにもまた神によって、いまはそれは隠されているが新しいいのちとともに死人の中から復活することになる。私たちはこの時を待ち望みつつ生きている。キリストの復活は私たちとひとつの出来事なのだ。

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