生活の中の聖書

おやじの好き勝手なつぶやき

2コリント

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10〜13今この手紙を、そちらに行って、しかったり罰したりしないですむようにと願いつつ、書いています。私に託されている主の権威を、あなたがたを罰するためにではなく、強くするために使いたいからです。最後に、次のように書いて、筆を置きます。喜びなさい。キリスト様に属する者として成長しなさい。私のことばを心にとめなさい。互いに仲よく、平和に過ごしなさい。どうか、愛と平和の神様が、あなたがたと共にいてくださいますように。主にあって、互いに親しみをこめて、あいさつを交わしなさい。こちらのクリスチャン全員が、心からよろしくと言っています。どうか、主イエス・キリストの恵みが、あなたがた一同にありますように。神様の愛と聖霊様との交わりが、あなたがたのものとなりますように。 

 パウロはこの手紙を終えるにあたってコリントの人々にこれまでのことをまとめ、愛をもってこのように勧告している。

 喜びなさい。成長しなさい。私のことばを心にとめなさい。互いに仲よく、平和に過ごしなさい。互いに親しみをこめて、あいさつを交わしなさい。

 それはイエス・キリストの恵みが、神の愛と聖霊との交わりがすでにあなたがたのものとなっているゆえに、そうであるようにとさとしている。キリスト者の喜びの源は、神が私たちとともにおられることにある。だから愛の神との交わりに歩め、なのだ。

ピリピ2:2〜4もしそうなら、互いに愛し合い、心からうちとけ合い、心と思いと目的とを一つにして共に働き、私を心から喜ばせてください。自己中心的になったり、見栄を張ったりしてはいけません。謙そんになって、他の人を自分よりもすぐれた者とみなしなさい。身の回りのことばかりに、とらわれるのではなく、他人にも目を向け、その行動にも関心を持ちなさい。 

 いまの世の中で起きていることはこれが不成立している姿だ。夫婦、親子、近隣との人間関係において、自分自身を見るだけで他の人の存在を見ていない。

 パウロは神を知らず、求めないこの世の人のあり方とは違って、神の家族とされた私たちにおける人間関係において大事なことは何事であれ、自分がイヤだと思うことはしてはならないと言う。

 それはイエスとの交わりに入れられた者として、互いを受け入れ、励まし、自分の思い通りになることから離れ、互いの益となるように思うことを良しとする、喜びとして行く。

ヨハネ13:34〜35そこで今、新しい戒めを与えましょう。わたしがあなたがたを愛するように、互いに愛し合いなさい。互いに心から愛し合うなら、わたしの弟子であることが、だれの目にもはっきりするのです。

 いま大切だとされているのが絆である。互いを大切に想い、支え合い、ともに苦楽をともにしていくということ。けれどもそれはギブアンドテイクで互いの益となるからするとか、そうすることで安心できるというものではなく「受けるより与える方が幸い」でする。

 ただ本当の意味でそれを可能とするものはイエスの愛においてだ。この世の人々は創造主なる神を知らない、それで私たちが互いに平和のうちに過ごすことによって、イエスの愛に生きることの素晴らしさを知るときとなる。だからその愛を基として、神のこどもにふさわしくそれを具体的に現すように歩みなさいと言っている。

5〜9よくよく自分を吟味しなさい。ほんとうにクリスチャンだと言えますか。クリスチャンとしてのテストに合格していますか。自分の内に住まれるキリスト様と、そのあふれる力とを、いよいよ強く実感していますか。それとも、事実とは裏腹に、ただクリスチャンのふりをしているだけですか。私たちはこのテストに合格し、確実に主のものとなっています。このことを、あなたがたに認めてほしいのです。あなたがたが正しい生活をするように祈っています。それは、私たちの教えの正しさが証明され、面目を施したいからではありません。たとい私たちは軽べつされようとも、あなたがたには、正しい行ないをしてもらいたいからです。私たちの務めは、いついかなる時にも、正しいことを勧めることであって、悪を望むことではありません。自分は弱くて軽べつされても、あなたがたがほんとうに強くなってくれれば、うれしいのです。最大の願いと祈りは、あなたがたが一人前のクリスチャンになってくれることです。

 吟味するとは、 物事をよく調べる、味わうことと。
          

 パウロは常にキリスト者が神に喜ばれる歩みをすることを願っていた。それでコリントの教会の人々に問う。あなたたちはキリスト信仰にしっかりと立っているかを見つめ直してみなさいと。                          

 パウロの望んでいることは成長して一人前のクリスチャンになってくれること。これはいまも変わることのないものと言える。なぜなら、すでに生きる基準が変わったから。

 神は私たちのうちで働いて新しい人とされた者をそれにふさわしい者へと変えてくださっている。私たちはこの世の人々とは違った生き方に生かされている。それで神に信頼して生きて行く。

 私たちはキリストを信じて救いに与った者。もうすでに恵の下にいる。そのことを忘れてしまってはならない。私たちに必要なのは自分の弱さを自覚し、キリストがいなければ生きられない者であることを認めること。神は私たちをキリストに似た者に変えて行く。

エペソ5:8〜10あなたがたの心は以前は暗やみにおおわれていましたが、今は主からの光にあふれています。そのことを態度で示しなさい。内面がこの光で輝いているのですから、良いこと、正しいこと、真実なことだけを行なうべきです。日々の生活で、何が主に喜ばれることかを、わきまえなさい。

 パウロは私たちにも同様に「あなたの立場を考えよ。」と迫っている。私たちは闇を裂いて光として来られたイエスのうちにいる。私たちはいま光の子どもとされている。だからあの闇の中でうごめいていた過去に戻ろうとは思わない。であるなら、何が神に喜ばれることかを選択し決断するようにと命じる。

 パウロはどのような厳しい状況の中にあっても、いつも神に尋ね求めた。私たちも神に尋ね、自分の想いを捨てて神が喜ばれる歩みをしていく者でありたい。

 私たちはどこに立っているのか。砂の上なのか、岩の上なのか。そしてどこを見て進んでいるのか、ということ。そして私たちはキリストの土台の上に立っている。大事なのはキリストがいなければすべては無意味なものになってしまうということ。

 そのために私たちは聖書から学び、実生活に適用し、信仰生活を豊かなものとしていく。自分の視点から神の視点で物事を見るためにも、吟味する時間を持ち、交わりをしていくのだ。

 私たちは自分の子どもの姿を見て嘆き悲しむことが多く、それこそ親子の縁を切る勘当をしたいと思う瞬間もあるが、何とか立ち返って欲しいという親心をもっている。 

20〜21心配なことがあります。私がそちらに着いてみると、期待はずれの状態で、そのため、あなたがたの望まないような行動をとらざるをえない事態が生じないかということです。もしかしたら、そちらでは、争い、ねたみ、怒り、横暴、悪口、陰口、高慢がいっぱいで、秩序がすっかり乱れているのではないでしょうか。実際、あなたがたの面前で、神様が私を、穴があったら入りたい思いにされるのではないでしょうか。そして、前々から罪を犯していながら、その邪悪で汚れた行ない――好色、不道徳、他人の妻の横取りなど ―― を全く気にもかけていない多くの者を見て、悲嘆にくれるのではないでしょうか。このことが、ほんとうに心配なのです。 

 パウロはコリント教会を建て上げた親として成長のために奮闘努力をしたし、している。パウロは私が求めているのは私の子どもとしてのあなたがただと言って、コリントの人々を霊的に養うためなら、喜んで自分自身でも持ち物すべてでも、すっかり差し出すと言っている。それは成長して、しっかりと立って欲しいからだ。

 けれどもコリントの教会にはパウロが愛をもってコンコンと説いても、それを受け入れることができない人々がいる。どうも好転していないことを心配している。

19よく思われたいばかりに、こう書くのだ、と思っていることでしょう。でもそれは、全く見当違いです。神様の前で、宣言しておきます。愛する皆さん。私がこう書いてきたのは、あなたがたを助けるため、その信仰を成長させるためであって、自分のためではありません。

 パウロの目的はコリントの教会の人々がイエスに向かうこと。それは教会はイエスを頭とした体として建てられたからだ。キリストが教会のかしらとしているかが基準。

 私たちはキリストのからだの一部分とされている。それでどこが基準なのか、誰が基準なのかがはっきりしない無政府状態は大いに混乱のもとであり問題なのだ。

 それはキリストを悲しませることであり、私たちが愛において成長すること、信仰に大人になることがパウロの喜びとなり、キリストの喜びとなる。それが私たちもまた目指していることである。

 私たちはすでに新しい者とされ、この世から聖別されているけれども、私たちには長い間の考え方が染み付いてしまっていて、それが信仰の歩みの邪魔をする。

 またキリストだけでは不十分だと思わせる力、目の欲、肉の欲、暮らし向きの自慢、この世での生にむけようとする力にあふれているから惑わされることがある。自分の思い、願いのためを求めるものではない。

 私たちは旅人であり、寄留者で、神が必要であるとしてこの地上にいる。けれどもこの世に属しているわけではない。 むろん、この世に生きていることは悪ではない。私たちキリスト者はこの世にどのような態度でいるかが問われている。

 イエスの誕生の意味をもう一度見つめるアドベントでありたい。

 パウロは自分の見た幻と、示されたことについて話をする。それは第3の天に引き上げられたこと。

5こんな経験こそ、自慢するに値します。しかし、自慢しようとは思いません。私が誇ろうとしているのは、自分の弱さと、そして、こんなに弱い私を、ご自分の栄光のために使ってくださる、神様の偉大さだけです。

 普通に考えると私たちは何か自分に良きことが起こると、こんなことができたのは私の能力だ、信仰者だと神が私を特別に選ばれたからだ、と誇りたくなるものだ。

 パウロはこのように素晴らしい神がおられるところを見せてもらった。その優越感に負けて自分がさも素晴らしい者となったと勝ち誇ろうとは思わないと言った。この経験に基づいて神の国を宣べ伝えていくことにすると言っている。

7〜9このことも、つけ加えておきましょう。この経験があまりにすばらしかったので、神様は、私が高ぶってはいけないと心を配られました。それで、肉体に一つのとげを与えられたのです。それは、高慢にならないように、苦痛を与え、悩ますための、サタンの使いです。私は、もとどおりに回復させてくださいと、三度も神様にお願いしました。そのつど返ってくる答えは、こうでした。「いや、治すまい。しかし、わたしはあなたと共にいる。 それで十分ではないか。わたしの力は弱い人にこそ、最もよく現われるのだから。」今では私は、自分の弱さを喜んで誇ります。力や才能を見せびらかすのではなく、喜んでキリスト様の力の生き証人になりたいのです。

 キリスト者は自分がどこにいて、そこからどのようにして引き上げられたのかを吟味し、神のあわれみ、恵みにあることを覚えて、それを成し遂げた神を、十字架でいのちを捨ててくれたイエスを誇るのだ。

 神は信頼関係がより強く結ばれることを望まれている。パウロは自分では何事も解決することができない、自分自身で1ミリも背丈を伸ばすことなどできない、この存在そのものさえ不確かなものである、ただ神によって生かされいることに気づきがもたらされるためにとげが刺されたのだ。

 私たちも本当の意味で自分の弱さを誇ることができれば何も恐れるものはないのだろう。キリスト者はひたすらキリストに明け渡し生きる者である。けれども、まだ神の御前に強くあり、自分の力に生きているという事実がある。

10すべてはキリスト様のためであることを知っているので、その「とげ」も、侮辱も、苦しみも、迫害も、困難も、大いに喜んでいます。なぜなら、弱い時にこそ、私は強いからです。――無力であればあるほど、それだけしっかりと、キリスト様によりすがるようになるからです。

 私たちは自分で何もできないと弱さを嘆くことなく、その弱い土の器におられる宝であるイエスの測り知ることのできない力を、そこに働く神の栄光のわざを待ち望み、神の素晴らしいわざをより多く経験する機会を得て歩み続けたい。

 イエスは言われる。「わたしといっしょにいなさい。いっしょにいれば、あなたは安全だ。わたしは勝利の王だから。」と。信仰はイエスに信頼することだからだ。

 長い年月に亘って映画や文学などでイエス・キリストを間違った姿にしている。イエス・キリストの出来事が過去のことであり、そのことが無意味なものなら、話題にしなければいいと思うのだが。

12〜16しかし、今のやり方を、これからも続けるつもりです。それは、私たちと同じように神様のために働いている、と誇る人たちの根拠を、くつがえすためです。彼らは、決して神様から遣わされた者ではありません。「ぺてん師」です。 人をだまして、てっきりキリスト様の使徒だと思い込ませるのです。しかし、今さら驚きもしません。サタンでさえ、光の御使いに変装できるのです。ですから、サタンの手下どもがまねして、敬虔な牧師になりすましたとしても、別段、驚くことはありません。最後には、その悪事にふさわしい罰を、徹底的に受けるのです。

 パウロはマケドニヤの人々が賄ってくれたので、コリントの教会からは何の報酬を受けず、何の負担もかけないで奉仕をした。

 コリントに乗り込んで来たにせ使徒たちがパウロのすること、なすことにいちゃもんをつけていた。それはコリントの教会の人々を良く思っていない、愛していない、資格がないから受け取れない証拠だという、根も葉もない非難を受けることになった。 

 彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いている。また、人々から天の御国をさえぎって、入ろうとしている人々をも入らせない。

ローマ16:17〜18キリスト様について今まで学んできたことと反することを教えて、分裂を引き起こし、人々の信仰をくつがえすような人たちから離れていなさい。そのような教師たちは、主イエスのために働いているのではなく、自分の利益を求めているだけです。彼らは口が達者なので、純朴な人たちはしばしばだまされるのです。
 
 にせ使徒はサタンの手下となって、キリストの福音にまぜものをし、キリスト者を混乱させキリストのことばを疑わせ、キリストに向かわせるのではなく、間違った方向へと向けさせ、信仰から引き離そうとする。

 パウロは報酬を受ける正当な権利があるけれども、その権利を行使しないと決めた。それは彼らがいかにもキリストの使徒のように振る舞って誇り、教えをしていることに対抗してのことだ。「だったら、無償でしてみよ。」と。彼らの思いは自分の利益を求めているだけの者。

 私たちはイエス・キリストを信じて救われた。けれどもキリストを信じるだけでは不十分であり、神の備えた救いの恵みだけではない、それに足すことがあると間違った教えをする。福音は人を生かすのに彼らは救いの門を閉ざすことをする。

 だからパウロはその人たちから離れよと命じ、あなたがたがどのようにして救いに与ったか、いまどのような立場にされているかを思い起こさせている。それは人の力で達成できるものではない。救いとは神のあわれみによる、にも関わらずの恵みである。

 この終わりの時代には人々を惑わすにせ使徒がはびこるという預言がある。気をつけると同時に私たちもにせ使徒とならないようにイエスのことばにとどまり続ける必要がある。ここでもまた信仰の大人へと進むようにと言っている。

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