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イエスと弟子と群衆

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「昇天のイエス」

 神はイエスをよみがえらせた。そしてイエスは四十日の間、弟子たちとともにいた。それでイエスの十字架で希望を失っていた弟子たちは、臆病者から勇士と変えられた。

ルカ24:50〜53イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

 イエスは彼らの目の前で天に上られた。そしてイエスは天に上られて神の右の座に着かれた。それは「一仕事終わって帰って来た。やれやれだ。」というのではない。それもまた、父のご計画のうちのこと。もう一度、王の王、主の主として栄光の姿をもって来られるためである。

 弟子たちはイエスが元いた天の栄光のところに戻るのを喜んでいる。それはまた、自分たちにもそれと同じことが起こると理解したからだ。

使徒1:10〜11イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」

 キリスト者はどこへ行くのかを知っているので不安がない。それはイエスが上った父なる神のみもと、天のところ。そこに迎え入れるために準備をすると言っている。そしてもうすでに霊的にはイエスともによみがえらせ、ともに天の所に座っている。

ヨハネ14:2〜3わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

 イエスの誕生、十字架、復活、昇天、すべてがセットとなり、救いの完成へと近づき、再臨によって完全となる。そして再び来られるその時、イエス・キリストにある者には報いを、そうでない者にはさばきをするためとある。

使徒10:42イエスは私たちに命じて、このイエスこそ生きている者と死んだ者とのさばき主として、神によって定められた方であることを人々に宣べ伝え、そのあかしをするように、言われたのです。

 「わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる。」と言われた祝福のうちに私たちは安息し、イエスの命じた証人として生きる。その通り弟子たちはみな、そのことの証人だと、イエスの復活のメッセージを語らずにはいられなかった。それがいまの私たちにも伝わって来たのだから。

 ただその証人としての務めは自分の力、考えで行えるものではなく、与えられた助け主、聖霊によること。その聖霊はうちに住んでくださり、世の終わりまでともにいてくださり、あらゆることを教え、導いてくださるお方である。いつもともにいてくださるイエスに信頼し、私たちの願いではなく、神の私たちへの願いに応答して歩み続けたい。
 
 イエスはエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならない、と弟子たち語っていた。

 彼らはイエスが埋葬されたことを見て、祭司長たちはその三日目まで墓の番をするように番兵を出してとピラトに頼んだ。けれどもそのイエスのことば通りに、それを打ち破る出来事が起こされた。

 それは御使いによって墓を封印していた石がわきへ転がされたことによる。その御使いを見て、番兵たちは震え上がった。そこに駆けつけてきた女たちがいた。ここでもまた12弟子たちではなく、女たちであった。男たちは恐れて家に閉じこもっていた。

マタイ28:5〜6すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。

 確かに三日前、イエスの遺体が墓の中に入れられて埋葬したところを見ている彼女たち。けれども御使いの言うように、そこにはイエスの遺体がない。もし誰かが盗むとしたら、そのまま運ぶだろう。そこにあったのはくるんでいた包帯が乱暴に剥ぎ取られたようではなく、包まれたままの形で中が空洞になった亜麻布だけ。

 彼女たちは、そして私たちには死人がよみがえることなど、到底理解できないし、考えたこともない。けれども神はイエスを死者の中からよみがえらせた。御使いは弟子たちに知らせるように言う。

8そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。

 私たちキリスト者にとって重要なことは、イエス・キリストのよみがえり、復活。イエスが十字架で死に、墓に葬られて終わりとすれば、人には何の喜びが、何の希望もない。けれども復活はこの世のいのちの終わりがすべての終わりではないことを教えている。その喜びを知らせる。

1コリント15:14そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。

 イエスが死に打ち勝ち、よみがえったことが私たちにとって喜び。死人のままでは何もできない。罪の身代わりの十字架が無意味となる。イエスのよみがえりによって、神の救いが成し遂げられた。だから弟子たちが、キリスト者がそのことをこの時から宣べ伝え続けたし、いまも「復活のことを聞くと、あざ笑い、そんなことありえない。」と反発されながらも、そうしている。

 この世の人々は死の先に不安を抱き、恐れているが、イエスのよみがえりは、私たちキリスト者にも死で終わりではないこと、必ず私たちによみがえりがあることを明かにしている。その永遠のいのちに生きる、生きている者とされている。

 臆病者の集団となっていた弟子たちのその後の歩みを見れば分かるように、迫害を恐れず復活の福音を宣べ伝え続けたことを、私たちは知っている。私たちもこの信仰に生き、私たちはイエスの復活の証人である生き方をより確かなものとしたい。

 イエスは私たちが受けるべき、神ののろいを一身に受け、十字架で死んだ。私たちへの神の怒りはなだめられた。あとはイエスを救い主と信じる者には大いなる報いが、信じない者には大いなるさばきが待っているだけ。

 十字架刑を見ていた人々は、イエスが死んだことを知り、胸を叩いて悲しみながら、何てことをしてしまったのだろうか、という悔いるこころをもって帰っていった。

 そのイエスの遺体を引き取りに来たのは、ペテロたちではなかった。彼らは恐ろしさのあまり、逃げ出していた。

ヨハネ19:38〜42ところで、これらのことの後、アリマタヤ出身のヨセフが、イエスのからだを取り降ろしたいとピラトに願い出た。ヨセフはイエスの弟子であったが、ユダヤ人たちを恐れて隠していたのであった。そこで、ピラトは許可した。以前夜中にイエスのもとに来たことがあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜたものを百リトラほど携えて、やって来た。彼らはイエスのからだを引き取って、ユダヤ人の埋葬の習慣に従って、香料を添えて亜麻布で包んだ。イエスが十字架につけれらた所には園があり、その園にはまだ誰も葬られたことがない新しい墓があった。ユダヤ人の準備の日であり、その墓が近かったので、そこにイエスを納めた。

 ローマ人はいつまでも見せしめの意味もあって十字架にさらさせたままにするが、ユダヤ人は安息日にまで死体をさらすことをしない。それで遺体を降ろすことを願い出た。

 それを申し出たのが、アリマタヤ出身のヨセフという人物で、彼は金持ちであった、身分の高い議員だった、神の国を待ち望んでいた、善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意しなかったとされている。またそこに同僚のニコデモも加わっている。

 遠巻きでイエスの十字架を見ていたが、そこにはガリラヤから来た女たちがいた。十字架のイエスを悲しみのあまりただ、見上げていた。このまま谷で焼かれて灰になってしまうのかと。ところがヨセフが自分用に造った新しい墓にイエスのからだを納めた。女たちはイエスのからだがその墓に納められる様子を見ていた。

マタイ27:62〜66さて、次の日、すなわち備えの日の翌日、祭司長、パリサイ人たちはピラトのところに集まって、こう言った。「閣下。あの、人をだます男がまだ生きていたとき、『自分は三日の後によみがえる』と言っていたのを思い出しました。ですから、三日目まで墓の番をするように命じてください。そうでないと、弟子たちが来て、彼を盗み出して、『死人の中からよみがえった』と民衆に言うかもしれません。そうなると、この惑わしのほうが、前の場合より、もっとひどいことになります。」ピラトは「番兵を出してやるから、行ってできるだけの番をさせるがよい」と彼らに言った。そこで、彼らは行って、石に封印をし、番兵が墓の番をした。

 一方で祭司長たちはイエスが日頃言っていた、墓に葬られ、三日目によみがえるということを思い出して、ピラトに訴え、その通りになった。あれほど嫌っていたイエスの遺体を皮肉なことに、ローマの兵士を遣わしてまでも守っている。

 けれども、語っても無駄と思われるようでも、みことばはこのように人のこころに刻まれていく。それによっていますぐ、ことが起こらなくても、みことばの真実、確かさを知り、イエス・キリストに向かう人々が出てくることに繋がる。それを考えると、時ある毎にみことばを語る、宣べ伝えることの大事さを覚える。

 ピラトはイエスをむち打ってから、十字架につけるために引き渡した。イエスはカルバリ山へ向かっている。父なる神は私たち人間が離れ、その成す悪を見てもなお、どこまでも近づき、わたしのもとに帰りなさい、と語りかけ招いている。そのためにひとり子イエスを十字架に釘付けされた。

マタイ27:37〜44イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。そのとき、イエスといっしょに、ふたりの強盗が、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。
 
 このように祭司長たちに扇動された人々がイエスをバカにし、祭司長たちは「何が神の子だ。何もできないではないか。」と勝ち誇っている。そしてともに十字架につけられた強盗たちもがののしっている。イエスはこんな者たちのための執り成しをしている。

ルカ23:34そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

 これほどのことばがあるのだろうか。福音中の福音と言わざるを得ない。イエスがののしりに、ののしり返して「彼らに報復してください。」と言ったなら、それは可能になっていた。

 けれども羊のようにさまよい、自分かってな道に向かって歩んでいる人々のために、赦しの執り成しをしている。このことばによって、いまの私たちは神の子とされている。

 それどころか、父からイエスは見捨てられてしまった。まさに他人を救って、自分を救わなかった。イエスは十字架で罪の報酬の死を引き受けたための痛みを、いつでも、どんなことでも語り合った父の沈黙する孤独を苦しんでいた。

マタイ27:45わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。

 私たちキリスト者が決して捨てられないのは、イエスが私たちの罪の報酬を受け取り、神から捨てられたからだ。イエスは自分を卑しくし、十字架の死にまでも従われた。イエスがそうされたのは私たちがまことのいのちに生きるためであった。

ヨハネ19:30イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。

 イエスは私たちが受け取るべき神の怒りを肩代わりされた。それで信じる私たちはさばきから免れている。私たちすべての者がイエスの十字架の死によって、神との和解の道が成し遂げられた。後はそれを信じる者に与えられる、永遠の祝福のうちに憩い、神、キリストとともに過ごすだけ。その本当の完了の時がやがて来る。その日を待ち望む。私たちにとっての真の喜びの日が来る。

 ピラトは祭司長たちの要求どおりに死刑の判決を下さし。そしてイエスを鞭打ち、兵士たちに引き渡した。兵士たちはいばらで編んだ冠をイエスの頭にかぶらせ、つばきをかけ、こぶしで殴り、嘲笑って、十字架につけるために連れ出した。

 鞭打たれ、からだがボロボロとされたイエス。それでも犯罪人とされた者は重い十字架を担がされ、ゴルゴダの丘まで歩かされることに。どれほどの負担であろうか。その最中の出来事。

ルカ23:26彼らは、イエスを引いて行く途中、いなかから出て来たシモンというクレネ人をつかまえ、この人に十字架を負わせてイエスのうしろから運ばせた。

 ローマ兵はこのままではイエスが目的地までたどり着かないと見て、取り囲んでいた中から体格のいいシモンを見つけ出し、イエスの代わりに十字架を背負わせた、それも無理矢理に。

 シモンにしてみれば「何で、どうして俺なのか。何て日なんだ。」」と嘆いたことだろう。シモンは過ぎ越しの祭に来て、自分の祝福のために祈っていただけなのに。

 けれども何一つ責められることのないイエスがシモンの目の前で疲れきって、傷ついたからだに十字架を負って、大きく肩で息をしている後ろ姿を見た。このときには分からなかったことが、この後、この体験を通してシモンを揺り動かし、そこまでしなければならなかった、罪の恐ろしさを、イエスの十字架の意味を見出し、キリスト者とさせている。

 信仰は自分を差し出すことなのだ。それが自分の思いとは大幅に違っていても、私たちには差し出すべきことがあるのだ。そのことによって祝福を受けるのではない、すでに祝福のうちに置かれていることに喜びを現すために。

 以前いた世界を知っている、そしていまどこに所属しているかを知って、私たち自身を神のみこころに、支配に、取り扱いに任せる。神がしようとされていることを、そのままにしてください、とする。

27〜28大ぜいの民衆やイエスのことを嘆き悲しむ女たちの群れが、イエスのあとについて行った。しかしイエスは、女たちのほうに向いて、こう言われた。「エルサレムの娘たち。わたしのことで泣いてはいけない。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのことのために泣きなさい。」

 人々にはイエスが本当の苦しみを、どうして十字架になのかを知らなず、ただイエスの苦難を、十字架の死を考えて、人間的な悲しみで泣いている。私も大きなことは言えないが、聖書を通してそのことを知らされた。

 エルサレムの娘たちは悲劇の人としてのイエスの痛みを嘆き悲しむ者でしかない。だからむしろあなたがたの行末を考えよ、それが滅びに向かっている生き方であることを考え、悲しむようにと。

 イエスは罪の恐ろしさを知っていて、私たちがその支配に屈していることを憂い、悲しみ、苦しみ、そのために私たちの身代わりとして、罪の報酬である死を受け取ってくれた。

 イエスが十字架にいのちを差し出したのは、私たちのためだったことを忘れずに、歩み続けたい。

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