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「神のわざの最高峰」

 何と言っても、神のわざの最高峰は死者の中からの復活の出来事だろう。一時の蘇生はありえることだろうが。十字架で死なれたイエスが死からよみがえったこと。

ルカ24:5〜7あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。

 明け方早く、墓に向かった女たちは石が墓からわきにころがしてあるのを見た。それで墓の中に入ってみると、イエスの遺体がなかった。けれどもそこにいた天使が語りかける。イエスは死人の中にはいない。生きておられるのだと。神はイエスを死から解き放って、よみがえらせた。

 イエスは私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられた。神はイエスをよみがえらせたように、イエスを信じる私たちをもよみがえらせてくださる。イエスのよみがえりは、死の恐怖から解放するためだった。

1ペテロ1:3私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。

 イエスの復活は死が終わりではない、復活がある。神が私たちに生ける望みをもたらされた。私たちはすでに永遠のいのちに与っている。栄光のからだによみがえるとされている。この世では朽ちる者だが、朽ちない者とされている。だから神をほめたたえる。

1コリント15:16〜20もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。そうだったら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです。もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。

 イエスの死がすべての人の救いをもたらすものとなった。イエスの復活がなければそれまでのことだった。イエスは言われた。一粒の麦が地に落ちて死ねば、豊かな実を結ぶ、と。そしてイエスは復活した。

 私たちはその復活のいのちに生かされ、生きている。それだけではなく、そのいのちを誰でも受け取れると宣べ伝える特権に与っているのだ。

 私たちはもともと御怒りを受けるべき子らだった。神はイエスを救い主キリストと信じた人に、義とされただけではなく、神の子どもじゃなかった者、敵を神の子どもとされる。それが神のこころ。

ヨハネ1:12〜13しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

 イエスは神を父と呼んでいた。神の子と呼ばれるのは御子イエスだけ。それとおなじことように私たちは神を「アバ父。お父さん。」と呼ぶことができる。それはイエスを長兄とした子どもであるから。

 神はこのすばらしい愛によって、私たちを受け入れてくださった。それはイエスの十字架によること。それはまた、神のみこころのままに。すべては神の愛から出ていること。その愛に私たちが生き、神と親しく交わるためにそうされた。それだけではなく、神のみこころは私たちを御子のかたちと同じ姿になるようにされること。

1ヨハネ3:2〜3愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。

 神は私たちが父と子として、神のものとされ愛されているものとして生きることを望んでいる。聖霊に導かれて進み続けたい。

 パウロは人は神の愛から離れ、自己愛に生きることを選び取った罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができないと言った。けれども神はわたしのもとに立ち返るようにと、驚くべきわざをされてきた。

ローマ4:5何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。

 わたしが神であり、不敬虔な者を義と認める、というものだった。こんなことは私たちには思いもつかないことだ。誰が自分に悪態をつく者を私の前に良しとするだろうか。
3:22この義は、イエス・キリストを信じる信仰によってもたらされるものですから、すべての信じる人に与えられ、何の差別もないのです。24ただ恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

 イエスの十字架は本来、私たちが受けるべきさばきだった。が御子がそれを引き受けられたゆえに、そのことを信じる者を神は義とすると、宣言された。

5:6私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。

 イエスは不敬虔な者、神を神としていない者、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、生まれながら御怒りを受けるべき者だった私たちを義とするために来られた。それはあくまで神の一方的な愛、恵み、あわれみによることだ。それが神の愛。

マタイ9:13わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。

 神は救いの道を備えてくださった。こんな素晴らしい神の愛に、恵みに、祝福に与った私たち。義とされた者は永遠にその立場を失うことがない。だから私たちは神のわざを賛美し、そのことをなしてくださったことに感謝し、歩み続ける。

 ヨシュアがイスラエルとともに、紅海のときのように、神の驚くべきわざいよってヨルダン川を渡って、エリコに前進しようとしている。けれども高く頑丈な城壁が目の前に。そこに神のことばが。

ヨシュア記6:3〜5あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。七人の祭司たちが、七つの雄羊の角笛を持って、箱の前を行き、七日目には、七度町を回り、祭司たちは角笛を吹き鳴らさなければならない。祭司たちが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、あなたがたがその角笛の音を聞いたなら、民はみな、大声でときの声をあげなければならない。町の城壁がくずれ落ちたなら、民はおのおのまっすぐ上って行かなければならない。

 城壁を崩ずすにはいまなら、ピンポイントで上空から爆弾で、民生的にといえば爆薬をセットして崩し落とす方法だろう。けれども城壁の周りを一週間ぐるぐる回るだけ。

 住民は彼らは一体何をしているのだろうか、さすがにこの城壁には手がでないだろう、と高をくくっている。とはいいものの、実は不気味であった。その地の遊女ラハブは住民がイスラエルの神を恐れていると言っている。この静かさは何かの前兆ではないか。私たちの身にも、あの話の通りに何か起こるのではないのだろうと。

2:9〜11主がこの地をあなたがたに与えておられること、私たちはあなたがたのことで恐怖に襲われており、この地の住民もみな、あなたがたのことで震えおののいていることを、私は知っています。あなたがたがエジプトから出て来られたとき、主があなたがたの前で、葦の海の水をからされたこと、また、あなたがたがヨルダン川の向こう側にいたエモリ人のふたりの王シホンとオグにされたこと、彼らを聖絶したことを、私たちは聞いているからです。私たちは、それを聞いたとき、あなたがたのために、心がしなえて、もうだれにも、勇気がなくなってしまいました。あなたがたの神、主は、上は天、下は地において神であられるからです。

 このときとは意味合いが違うが若いころ、いまと違って労使対立があって何かといっては旗を振り、大声で叫び建物の周りをデモ行進したもの。いま考えれば、このように静かにまわりを回ってれば少しは展開が違ったかも、と思ったりしている。

 ヨシュアそしてイスラエルはこのなんとも言えない、頭でどんなに理解しようとしても出来ない、人間的に考えればおかしな、神の命令に従った。ヨシュアはどんなときにも神がともにおられる、神のことばは必ず実現すると、神の約束を確信している。

 そして七日目に鬨の声とともに、神のことば通りに、決定的な出来事が。突然、目の前に崩れ落とされた城壁の姿が。ここでもまた、人はただ神の為さるわざに驚きをもって、目をみはるだけである。

20そこで、民はときの声をあげ、祭司たちは角笛を吹き鳴らした。民が角笛の音を聞いて、大声でときの声をあげるや、城壁がくずれ落ちた。そこで民はひとり残らず、まっすぐ町へ上って行き、その町を攻め取った。

 私はすべての語りかけ、ことばが理解できることではない。けれどもあなたのおことばですから、そうしてみます、と神に信頼するこのヨシュアの信仰と行いにならう者でありたい、と願っている。

桜咲く。暖かい春本番。

 イスラエルの民は神の素晴らしいわざによって、向こう岸に渡り、エジプトから逃がれて、エジプトの地を後にした。

出エジプト記15:22〜25モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。彼らには水が見つからなかった。彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、そこはマラと呼ばれた。民はモーセにつぶやいて、「私たちは何を飲んだらよいのですか。」と言った。モーセは主に叫んだ。すると、主は彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れた。すると、水は甘くなった。その所で主は彼に、おきてと定めを授け、その所で彼を試みられた。

 こう言って何だが、神はユニークに溢れたお方だ。民イスラエルはこのことを感謝した。けれども、わずか三日目にその舌か今度は喉がカラカラだ、飲む水もないと言う、つぶやきに変わった。

 そして一ヶ月後には食べ物のことでつぶやいた。ところが濁った水には若枝を投げ入れることによって、またパンを天から降らせ、さらにはうずらが飛んで来て、食糧とされた。そのように神は備えられるお方だ。イエスによる救いを示している。

1列王記2〜6彼に次のような主のことばがあった。「ここを去って東に向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。そして、その川の水を飲まなければならない。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」それで、彼は行って、主のことばのとおりにした。すなわち、彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。幾羽かの烏が、朝になると彼のところにパンと肉とを運んで来、また、夕方になるとパンと肉とを運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。


 どのようにして運んだのか、とても興味のあるところだが、私たちが忌み嫌うカラスをもご自由に用いるお方なのだ。

17:8〜9彼に次のような主のことばがあった。「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」

14〜16イスラエルの神、主が、こう仰せられるからです。『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』」彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。


 ここにでも神はエリヤを養うと同時にやもめをも養っている。このように神は必要を備えてくださるお方。良き羊飼いは羊をみどりの牧場に、水辺に、憩いの場に置かれる。

マタイ14:19〜20そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいあった。

 イエスは五つのパンと二匹の魚から、人々がみな、食べて満腹する食事を与えた。人々はこのことだけを頭に記憶して、大事なそれを成すことのできるお方を見なかった。私たちもまた、神のわざに期待するが、まず神キリストを見つめ、みこころのままにことを成すお方に心より信頼し、つぶやきではなく喜びに歩み通したい。

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