神はいつもイエスとともにおられ、イエスもまたいつも父なる神とともにいた。同じように私たちもイエスとともにいて、ともに歩むことの幸いを日々に味わうことなのだ。イエスとはインマヌエル(神ともにおられる。)と言う名であり、この祝福はいつでもあり、これが私たちの喜びの原動力となっている。イエスは言われる。
ヨハネ15:5わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
あなたがたは以前あこの世の支配者に属して、悪い木から悪い実を結んでいたが、いまは良い木に接ぎ木され、良い実を結ぶ者となったのではないか、と。だから、後戻りすることがないように、わたしにとどまり、つながっているようにと言われる。
幹につながっていてこそ、豊かな実を結ぶ。逆に言えば木が実を結ぶためには枝である私たちを通して働かれるので、それぞれが器官とさ、ふさわしい役割が与えられている。
私たちは困難に遭うと、神が離れ見放していると思うことがあるし、神を忘れ、他の何かにすがってしまうことがある。けれども、その困難の中にあっても、神は私たちの味方で、どのような状況であってもともにいてくださる。だからわたしにつながり続けなさいと言われる。神キリストと結びつく歩みをすることで恵みを受ける。
もちろん、神キリストがともに歩むことは、すべてをバラ色にすることではない。苦難があり、病気にもなる。けれども、苦しみの中にも、悲しみの中にも、病の中にも、死の先にも、楽しみの中にも、永遠に私たちとおられる。私たちを愛し、神キリストがとともにいてくださる、これは大きな慰めだ。
だからその中で受けた信仰を継続し、神の愛にとどまり、またみことばにとどまり、みことばに照らされて恵みを、励ましを、慰めを、そして戒めを受け取っていくことだと言う。
箴言3:5〜6心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
私たちに必要なのは自分でことを行うことではなく、神キリストがどんなことをしてくれたのかを知り、これからなにをしてくれるのかに期待し、神にお任せすることだと教えられる。
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