生活の中の聖書

おやじの好き勝手なつぶやき

山上の説教

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だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。

 私たちはまず深く地面を掘り下げ、岩の上に家を建てるべき。最近あった堤防決壊で水が勢いよく流れているのに、一軒の家はビクともしなかった、と評判になった。その工法は地中に打ち込む設計になって土台を強固にしているからだと。杭打ちを中途半端にして傾いたマンションとは大違いだ。

 家作りは建物としての家の見栄えが注目されるのだが、本当は土台が注目すべきなのだ。なぜなら、平時には問題ないが、いざ、地震や、雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけられたときに、倒れないか、流されないかと心配になるから。

 私たちの人生にもこのような出来事がある。そのとき、依って立つ土台がないと、恐れに支配されてしまう。私たちにもこういしたことが起こる。そのとき、試される、しっかりした土台に建っているかと。また、どこに建てるかに焦点を当てている。それがポイント。その場所はイエス・キリストを土台とするところ。 

1コリント3:10〜11与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。

 もちろん、キリスト者だからといって、何も恐れない、とは言えない。私たちは倒れるのだが、ノックダウンするものではない。このお方の前に鎮まり、最善をなす神キリストに明け渡すことができるのだ。

 最後にイエスは言う。これまで言ってきたことばを聞いて、行う者は幸いだと。けれども、私たちそれを聞いて「その内の幾つかはできるでしょうが、すべてはムリです。」と言わざるをえない。

 金持ちの青年はそれで立ち去ってしまった。けれども、私たちは「私にはできませんが、あなたはすべてができるお方ですから、私を明け渡します。あなたのなそうとするままに、私の内になしてください。あなたが私の土台ですから。」と言えるのだ。

 イエスが求めていることは、信じること、とどまること。とどまっていなければ、実を結ぶことはできない。イエスを離れては、私たちは何もすることができない。そうするれば、イエスが私たちの内に働いてくださり、実現してくださる。

わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』

 簡単に言えば、私があなたに代わって預言し、悪霊を追い出し、奇蹟をやった、実績を見てくれと、だから、天の御国に入って当たり前ではないか、と言っている。
 
 私たちはイエスの御名によって祈ったり、様々な良き働きをしている、だから神によくやったと評価され、大いなる報いが与えられるのは当然のこと、だとするならば、大いなる勘違いだ。

 聖書はイエスによって、ある人には預言する勤めが、悪霊を追い出す、奇蹟を行なう力が与えられていると書かれている。

 世の終わりにはにせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せるともある。

 イエスが12使徒を選び、各地に派遣することになったが、何か特別な才能があった者ではなくて、無学な者だった。ただイエスの権威によったのである。後に彼らは自力でことを成そうとして、力のなさを見せることとなるのだが。

 今日、この箇所を見て、すべては上からの与えられることを、再確認することができたのは感謝なこと。私たちには何も良きところがなく、すべては神キリストにある。すべてを神キリストに栄光を帰する。

 律法学者、パリサイ人たちはそうしなかった。主よ。主よ。と言っていたが彼らは自分のわざ、解釈、言い伝えなどによって、自分に栄光を帰していた。

 とても下世話なことだけども、私でもあなたによって上手くいきました、と言われず「どうだい、オレにはこんなことができる。」などと言われたら、ムカッとする。

 神のみこころを行いとは、神の意志を知ろうとすること、そして神に期待すること。それをもって神が願っている歩みをより確かにし、神キリストが私たちとともに歩まれているように、私たちもともに歩み続けること。

 私たちも私が祈ったから、このようなことが起こったと、自分の信仰深さや祈る力を自慢するようなことを言わないようにしたい。
神キリストのあわりみによることだから。

 こころの貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものだから。」自分にはすばらしきことはない。誇るべきものはイエスの十字架、神のあわれみと恵みよるほかなし。

15〜20にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。

 にせ預言者に警戒せよと言われる。預言者は神からのことばを聞いて、それを忠実に伝える務めがある。だからそれに反することばを語る者がにせ預言者と言われる。その秘訣が「実によって見分ける」ことだと言われている。

ガラテヤ1:7ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。

 パウロの驚きはガラテヤの教会の心かわり。律法の行ないではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰による、ことだったのに。信仰に律法をプラスよるようにという教えが入り込んできた。

 これは私たちにも起こること。神のあわれみ、恵み、キリストの十字架、復活より、祝福を与える神がいる、教会は楽しいところだとする。人の歓心を買うようなものとなりやすい。気をつけたいものである。

1ヨハネ2:22偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否認する者、それが反キリストです。

 にせ預言者は神のことばを語っているようで、いつの間にか、神のみこころから外れ、信仰だけではダメで、恵みに人の思い、働きをプラスするようにさせていく。イエスに信頼し、明け渡す、イエスにとどまるように導くかない。イエスとともに歩むことからそれて広い道に導こうとする。 

 実によって見分けていくには、やはり、みことばに照らし合わせる必要がある。私たちの信仰はイエス・キリストを信じるもの。ほかになし。神キリストの、にも関わらずの恵みによる。この良い木イエス・キリストにとどまりこと。それで日々、明け渡して恵みから恵みへと歩み続ける。

 もちろんこのことばは私たちにも語られている。こう言っている私はどうなのか、福音を福音として語ることができるようにと、祈り、みこころに合う信仰生活をと。自問しなければならない。

 神は私たちの歩む道を教えている。神が望んでいる道はいのちに至る道のこと。

狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいっていく者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

 いのちに至る道の行き着く所は永遠のいのち。道を行くことの意味は目標の場所地。そしてその方向。

 私はあるとき、友人の家に向かっていた。久しぶりなのだが、方向は分かっていた。それでいつもの道ではなく、近道だと思われる小道に入った。その道は見た目にはまっすぐにその方向に向かっているように見えた。けれども、上から見れば少しずつ反対方向にカーブしていたのだ。結果、道に迷い、引き返し、いつもの倍以上の時間がかかってしまった。
 
箴言14:1214人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。
4:26 あなたの足の道筋に心を配り、あなたのすべての道を堅く定めよ。
16:9人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。

 私たちは「赤信号。みんなで渡ればこわくない。」と何も考えないで、他人がしているから大丈夫だと思い、同じ行動をとってしまうことの多い者。

 この世で得ることのできる宝のほうを追い求めるように教育されている私たちは、神の宝を求める気持ちが起きない。それで神に頼ることは弱い者のすること、と切り捨ててしまう。

ヨハネ14:6わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

 いのちにいたる門は、イエスなのだ。そこは入り口が狭く、あまり魅力的には見えない。だから、見出す人が少ない。入ろうとは思わない。

 人は目に見える門構えを見て、みすぼらしい、高級そうだと判断するもの。その判断に従って店選びをする。けれども、いまはかえって大きなところより、目立たないが落ち着けて料理が飲食できる店が評判を呼び、にぎわっている、人気の的だとか。

 イエスはこのたとえを、弟子たちに話している。弟子たちはイエスとともの生活にありながら、いまだ広い門を求めるものでいる。誰が一番偉いのか、どの地位を占めるのかと。

 イエスは金持ちが神の国に入るのは、らくだが針の穴を通るよりも難しい。と言われた。らくだは私たちのようにごちゃごちゃ屁理屈を言わないで、主人の命令に従うので、それが可能なのだと。

 私たちもイエスにあるものとされているが、すべてを自分の益となることばかりを願って、広い道に歩んではいないだろうか。イエスは狭き道を歩み、私たちの罪を背負い十字架で死なれた。そのイエスが私たちに狭き道を歩み続けるようにと言われる。永遠のいのちを得させたゆえに。

それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。

 イエスは言う。自分にしてもらいたいことを、他人にもするように。それとともにされては迷惑なことはしないように。

 そうすれば、それを見て他人もそうするだろうから。また、相手の益ではなく、害を与えるならば、それを見て相手からも同じようにされるだろうから。さばいてはいけない。さばかれないために。だから避けなさいと言われる。

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