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信仰の支え

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「最終目標」

 神の子どもとされるだけではない。こう書かれている。

ローマ8:29なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。

 神の計画はすでに始まっている。先にある最終目的は、イエスに似た者へと、進ませること。

ピリピ3:2キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。
2コリント3:18私たちはみな・・・、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

 何の疑いもなく、このようにみことばに書かれている。これはまだ実現していない。未来のこと。だけども、すでに確かなことと定められている。 

1ヨハネ3:2愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。

 こんなどうしようもない、私たちにこんな驚くべきことが待ってる。イエスが罪と無関係だったように、私たちもまた、罪とは無関係な朽ちない、栄光のからだとされる。それが再臨の時に、実現する。ワクワクしないだろうか。

 父なる神は新しく生まれ変わった、その身分にふさわしく歩むようにと、敢えて、いろいろな訓練を用意していると、書かれている。

ヘブル12:5〜7そして、あなたがたに向かって子どもに対するように語られたこの勧めを忘れています。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。

 このことばを聞くと、ビビるのだけれども、神の訓練は新しい自分を生きていけていないところがあるから、重荷が与えられると言う。イエスも「わたしのくびきは軽い。」と。神によって生まれた者は、神の命令が重荷にはならないと言ってる。

 金を精錬して不純物を取り除くように、私たちのうちにある神キリスト以外に信頼しないようにする、不純物を取り除こうとされている。

 ですから、私たちは成熟を目ざして進もうではありませんか、と言われている。それによって神に喜ばれることが何なのかを、識別することができる。でないと、私たちはこの世の人々と変りなくなってしまうから。

  訓練を経て私たちは、より神のこころを知り、神を必要とすることを学ぶ。それはまた、何一つ欠けたところのない者とされることとなる。信仰の勇者はそのように訓練されている。それによって成長し、忠実な者に変えられた。だから、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、すべての訓練は私の信仰の成長のためためであるという、目的を知って喜びなさいと言われる。

 その中身は思いもかけないことかもしれない、望んでいるものではなく、喜ばしいものではなく、かえって悲しく思うのだけど、それは私たちの益のために、自分自身に頼るこころを、神の支配と取り扱いに、働きに任せ、神に信頼することの幸いを得させる目的のためだと言っている。

 できれば一回限りでと願うが、残念ながら必要に応じて起こされるようだ。後になって、それが証明されることになるのだけれども。

詩篇119:71苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。

 このように、苦しみにあって、それを喜びとする生き方をしていきたい。

 私たちはイエス・キリストの十字架の出来事で、いまや、御怒りを受けるべき子が、神の子の身分、立場という特権が与えられて、神の息子、娘とされているというから、驚きだ。

ヨハネ1:12〜13しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
 確かに自分を見つめたら、相変わらず罪を、悪を、失敗を行なって、自己卑下や自己嫌悪や自己憐憫に陥ったりしてしまうことがあり、良きところがなくて、特売品のようである。

 けれども、神は言われる。「あなたは高価で尊い。あなたはわたしの愛する子。特選品だ。」と。どうしてか。それは神のかけがえのない作品だから。
 
 私たちは滅びから救い出されただけでも、十分なのに、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。それで、神をは「アバ、父よ」と呼ぶことができている。

 どんなにどうしょうもない子どもでも、親子はどこまでいっても親子。放蕩三昧だった息子が父のもとに帰って来たとき、父はこのむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだ、と喜び祝宴をしている。

 私たちはいまや神の子ども。この特権をないがしろにすることなく、感謝して、神キリストとともにの歩みを確かにしたい。

「自分の名前が天に記されている」

 私たちはこの世で幸いな生を生きたいと望んでいる。が、私たちの人生には、苦しみ、悲しみ、思い煩いなどなどがある。それでたとえそうでなくとも、死後は天国にいて、幸いに過ごすことを望んでいる者。

 けれども、天国に行けたとして、そこにイエス・キリストがいなければ、なんとむなしいことか。

黙示録21:27しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行う者は、決して都に入れない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、入ることができる。 

 私たちは永遠のいのちを得て、自分の名前が天に記されていて、国籍が天に移された者である。だから、名が天に記されたことを喜んでいる。 

 それを知って、地上では旅人であり寄留者であと告白している。旅人、寄留者は、天の故郷にあこがれているゆえに、その世界に執着しない。いま、荒野をさまよい歩むようであっても、安息の故郷に帰っていけるのだから。

黙示録21:3〜4また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。

 そこには私たちが日々味わっている、労苦がない場所なのだ。私たちの望むことは、神キリストとともに、永遠を過ごすことにある。

 昔から、不老不死を人は求めて右往左往している。語弊があるかもしれないが、それを求めた人はほとんどが権力者、資産家である。

 その目的のためにだけに、生き続けたとして、それが可能となったとしても、それに追い回され、それを維持することに汲々とするだけ、いつかそのシステムが崩壊し、死が訪れるのではないか、と不安に生きるしかないだろう。

 けれども、聖書は高らかと宣言する。

ヨハネ10:28わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。

 御子イエスを信じる者は永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っている、二度目の死を持たない者とされていると。

 神が私たちに与えられたものの最高、最大のものは間違いなく永遠のいのち。キリスト者には永遠が待っている。それでこのいのちに生きるのだ。たましいの救いを得ているから、そのことを忘れないように、と言っている。

1ヨハネ5:13 私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。

 永遠のいのちとは、文字通りであり、それは神と、イエス・キリストとのうちに交わることによることなのだ。

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