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聖霊

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 形だけで、喜びのない信仰生活は信仰から落ちて行く危険性があると言われる。私たちにとって大事なことは確信。

 残念ながら、信仰から離れてしまう人がいる。神は私たちを見捨てず、見放さないが、逆はありなのだ。それで御霊が「いつも目を注げ。キリストへ。」と呼びかけ、このように警告されている。

ヘブル3:12〜14兄弟たち。あなたがたの中では、だれも悪い不信仰の心になって生ける神から離れる者がないように気をつけなさい。「きょう。」と言われている間に、日々互いに励まし合って、だれも罪に惑わされてかたくなにならないようにしなさい。もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私たちは、キリストにあずかる者となるのです。

 私たちが御霊の取り扱いによって、キリストとの交わりに与っている。それも大胆にだ。けれども、信仰を得たときの喜びから、いつの間にか惰性になって、信じているが、祈りも願いも、どうなっているのか、と思ったりして、その感動が薄れてしまうことに。

 私たちはイエスを「あなたが主です。」と告白した者。だから信仰の主役はキリストであって、私たちではない。信仰の歩みの中心はイエス・キリストを信じ続けること。そうならば、恵みを見失ってしまうことがないと言っている。

2ペテロ1:10兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行なっていれば、つまずくことなど決してありません。

 どのようにしてあなたは救いに与ったのかを思い出しなさい。それを確かなものとしなさい。そうすれば決してつまずくことがない、と語りかけている。

 「信仰は初心忘るべからずである。いつでも最初の確信をもってキリストととも歩んで行くことだ。信仰が長かろうと、短かろうとキリストを信じた時の初めの確信を忘れず、歩み続けなさい。」と励ましている。御霊は真理を教え、導くお方の満たしを求める。

コロサイ1:23あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。

 聖書のみ言葉によって教え養われていけば、しっかりとした信仰が確立されて行くということですが、私たちにはそのすべてを理解することは到底出来ない。だから日々教えられる必要がある。

 今一度私たちの信仰の土台がキリストにあること、その土台に信仰を建て上げること、そしてどんなことが起こっても勇敢に対処できるように心を整い、キリストに信頼し、みことばに信頼し、忍耐を完全に働かせ、待ち望み、今日もキリストとともに歩み続ける一日を感謝していきたい。絶えずキリストの信仰をもって!

 どんなに立派な、高価な花瓶がここにあったとしても、花が飾られなければただの置物。美術品でただ飾るだけでしかない器もあるが、でもそこに何かを入れ、飾るものでなければそれは本来の器の働きではない。

 誰かが私たちの器を見る時に「器はたいしたことがないが、花が飾られていると、器も引き立つね。」と言わないだろうか。

2コリント4:7〜10私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。

 いままで私たちは自分は誰で、どこに所属しているのかを知らないで生きてきた者。私たちは自分の罪過と罪との中に死んでいた者だった。私たちは神に造られたにもかかわらず、なすべきことをせず、背き、裏切り、自分勝手に迷い出ていた者でした。

 私たちはすぐ恐れ、問題に倒されてしまうようなもろい土の器。でも「倒されても滅びない」ノックダウンされることがあっても、ノックアウトされることはない、その秘訣は測り知れない力、キリストの復活の力、聖霊の力が与えられているところにある、と確信する。

ピリピ4:12私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。

 私たちはすでに復活のいのちに生かされている。私たちは死もない、苦しみも、病もない御国に入れられていることを喜ぶのだ。

 日野原先生は「わたしが経験した魂のストーリー」の本の中でこう書いている。「若い人はドンドン成長し、青年期を経て、壮年期には円熟します。しかし、それから先は老化が始まり、衰退していきます。人間のからだは、成長し、円熟し、そして衰退する。そのなかで、わたしたちは死ぬまで成長し続けるようなものをわたしたちのからだの中につくらなくてなりません。もしも、からだと同じように、精神もまた衰退していくのであれば、人間は非常に悲しい存在で死んでいかなければなりません。だからその土の器であるからだに何を盛るかということが、わたしたち一人ひとりに与えられた務めです。」と。
 
 高齢化が叫ばれている。必ず年老いていく。私も現実として、日々に味わっているところだ。

 でもその外側は衰えるけれども、内側にあるたましいが衰えて元気なく、しおれていくような生き方ではない、永遠のいのちをもった者として、聖霊に導かれて、新たに生きる力と希望のある歩みをしている。

 もともと、朽ちて壊れるしかない器が朽ちないものとされた、とは驚きとともに、感謝である。すべては、聖霊のよる。

 パウロはここでイエス・キリストを救い主として受け入れた、コリントにいるキリスト者が成長し、成熟へと向かっていないことを、嘆きをしている。

1コリント3:1さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。

 肉に属する人とは、自分に頼って生きる人。まるでこの世の人と見えるような方生きている人のこと。

 肉に歩んでいる人は、神を喜ばせることはできない。それでパウロは御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはないと、私たちにはできないことを、御霊が肉の思いを乗り越えさせてくれると言ってきた。
 
 神の望まれることは、私たちが御霊の導きを受け取って、イエス・キリストの恵みと知識において成長し続けることなのだ。私たちがみな、完全に大人になるために。
 
1コリント14:20兄弟たち。物の考え方において子どもであってはなりません。悪事においては幼子でありなさい。しかし考え方においてはおとなになりなさい。

 イエスは確かに幼子になりなさい、と言った。それは幼子は自分では何もできないこと、親に甘えるしかないこと、そうしないと生きていけないことを知っている。そのあり方を持った者として。

 私たちはこの世の人の生き方にさよならした者。この世にあっては旅人、寄留者で、御霊に属する人として歩み始めた者でありながら、いまだ自分で何とかしようとする。本当に信仰のない自分を見いだす。
 
 善をなそうとするが、悪をしてしまう者。だからこそ、私たちは聖霊の導きに、働きに任せていくことが大事なのだ。誰がこの私を導いているのかを知っているゆえに。自分の信仰のなさを認める、それが大人の信仰だと言えるだろう。

 御霊は弱い私たちを助けてくださる。霊的に幼い状態にとどまらず、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練されていく。成長させるのは神である。だから幼子のようにただ神の御手の中に自分を置いていく。その成長を日々受け取っていきたい。

エペソ4:13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。

 ペンテコステの日、弟子たちは聖霊に満たされた。そしてイエス・キリストは誰なのかを、聖霊が語らせられるままに宣べ伝え、ここから教会がスタートし、弟子たちもそれまでの臆病さから開放され、大胆な証人としてスタートした。

エペソ5:18また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。

 酒に酔うと、ふらふらとよろけたりと、まともに歩めない状態になる。それと同じように、私たちもまともに歩めない状態であってはならないと言われているのだろう。神のみこころは私たちの歩みが、ふらふらしたものとなることではないからだ。

 私たちキリストに救われた者は、自分の思いを捨てて、聖霊がなさることを受け、御霊の支配と取り扱い、働きに委ねて生きる必要があるということ。「それなのに、ああ」とパウロは嘆いている。

ガラテヤ3:3あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。 

 神が喜ばれる行為は、聖霊を外してはできない。自分を喜ばせる肉の思い、行為は神を喜ばせることがない、と言われている。

 私たち一人ひとりに御霊が住んでいる。そしてすべては御霊によって完成させてくれる。イエスに似る者とされるために。神の望まれることは、御霊の力に生きるようにということ。

 私たち一人ひとりもそうなのだが、御霊にあってスタートした教会もまた、人間の思い、計画、行動で、人間的な努力で完成させようとすることがあるのだ。それで聖霊の満たしを求めて生きるのだ、と戒める。

5:25もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。

 私たちのうちに御霊により、力をもって、内なる人を強くしてくださることができるのは、神なのだから、身を投げ出そう。

 そこには、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に心から歌い、賛美し、いつでも、すべてのことについて、感謝し、互いに従う群れとなっていく姿がある。

参議院選挙が終わった。それも50%ちょい超え程度の投票率で。これで今後、大丈夫なのだろうか。

 さて、聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です。」と言うことはできない、この告白をする者に聖霊の賜物が与えられている。

1コリント12:4〜7さて、御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。

 それは聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるため。それらを用いることによって、また組み合わさって群れの益となるためだと言っている。 

8〜10ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばは与えられ、またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。

 それぞれ役割は違うが、神の力の働きにより、仕える者とされている。ひとり一人がキリストのからだの器官。その賜物を用いて、互いに仕え合い、御霊によって、恵みの良い管理者としなさいと。

11しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。

 私たちは与えられた賜物をもって、仕えていく。それによって私たちの信仰は成長し、一つとなって、神の群れになっていく。そのために与えられたのだから。

 私たちは与えられた聖霊の賜物を、軽んじないようにしたいものだ。唯一の聖霊が与えられた賜物には優劣はない。その賜物は奉仕のため、仕えていくため、そこに働く神の力によって。なぜならば、聖霊の賜物は個人に与えられているけれども、群れ全体の益のために与えられているからだ。

 だからといって、何が何でもそれは私がやります、ということではない。それではぶつかり合うだけで、混乱が生じるだけになってしまうことに。オーケストラのように各自分担しながらも、協調して全体のものとしていく。すべては全体の益となる、そこに用いられていくために。

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