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アラムの将軍ナアマンは主君に重んじられ、尊敬されていた。その彼はいま、ツァラアトにかかっていた。家にはイスラエルから奴隷とされた少女のことばがきっかけで、ことが進展する。
彼女は神がとともにいる、すべてに時があるという信仰があった。あのヨセフのように。それで解放の時を待ち望みつつ、ナアマン一家に仕えていた。そして、彼女は「イスラエルには神の人エリシャがいる。必ず直してくれる。」と進言する。
そんな人物がいることさえも聞いたこともない。ましてや敵である。「バカバカしい。」と一蹴してもおかしくない。ナアマンはどうやら人の意見を聞く将軍のようだ。そんなことはいままで聞いたこともない。それでもそのことばに魅了されて、出かける。
2列王記5:9〜10こうして、ナアマンは馬と戦車をもって来て、エリシャの家の入口に立った。エリシャは、彼に使いをやって、言った。「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」
私たちは答えを得ながら、素直に応答できない者なのだ。若者が永遠のいのちを得るためにイエスに向かい、答えを得ながら、そんな方法ではなくて、と立ち去ったように。ナアマンは怒ってそこを去り、踵を返して立ち去ろうとした。
5:13〜そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい。』と言っただけではありませんか。」
私たちはこの簡単なことが、難しい。そこに何かの理由をつけたり、自分の考える方法と照らし合わせたり、複雑にすることを良しとしたり、行いによって勝ち取ろうとするのだ。
それとともに、権力者には何でも、はいはい、と従うのではなくて、裸の王様にならないように、暴走することのないように、しっかり進言できるこのような側近が必要なのだ。
14そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。
自分の思いを、この世の標準を、人間の思いの境界線を超えて、創造主なる神の方法に従った時、癒やされた。ナアマンは告白する。
15私は今、イスラエルのほか、世界のどこにも神はおられないことを知りました。
少女は神を指し示し、エリシャもたとえ将軍であろうと、迎合することなく、自分の栄誉を示すこともなく、まことの神の栄光を現す器として、徹している姿がある。ここに見倣う姿勢がある。
ナアマンは無知から脱却して、新しい人生を始めた。私たちもまた、神と出会い、死に至るたましいの病を癒やされている。
イザヤ書53:5しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
きょうもまた、御霊とともの一日でありますように。
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