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イエスがゲッセマネで最後の祈りをしていた時、三人の弟子たち
ペテロ、ヨハネ、ヤコブは三度も「目を覚ましていなさい」
と言われたのに、眠りこけてしまった。
そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり
死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさま
していなさい。それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏し
て祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわた
しから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにでは
なく、あなたのみこころのように、なさってください。
マタイ26:38〜39
弟子たちはイエスにこの後に起こることに無関心だった。
私たちもまた、聖書からイエスのわざを、みことばを聞いている。
けれどもこれから起ころうとしているイエスのわざに、
あまり関心がないようだ。他人事のように私も。
聖書には目を覚ましていなさい、ということばが繰り返えされる。
肉体的な意味ではない。信仰においていつも眠ってはダメだと。
確かに信仰には、マンネリ化が訪れ、眠りに陥ることがあるが、
だからこそ、しっかりと信仰の目を開いていなければならない。
そのためにも、キリストを待ち望みつつ歩む必要があると言う。
弟子たち三人はイエスを見るのではなくて、
自分自身を見ていたからではないだろうか。
イエスがそれこそ鬼気迫る祈りをしていたにもかかわらずに。
もうこの時点で、イエスを一人にすることが現れている。
ただおいしい部分だけに関心を持ち、その他は置いておく。
イエスは「あなたを捨てず、孤児にしない」と言われたのに。
これが私たちの現実の姿であるかもしれない。
それでもイエスは十字架へと進み行く。
この十字架への道は、私たちの道だったのにだ。
それゆえに私たちに救いの道が開かれた。
もっとイエスに向かうこと、期待することをしようではないか。
私たちはどうしたら良いかわからないことが多いのだが、
御霊の導き、力、助けをもって、その実現の時を待ち望む。
しかし、まだ起こっていないことを待たなければならないのなら、
忍耐をもって、確信して待ち望むのです。ローマ8:25j.b
私にとってはこの待ち望むことは、難しいことであるが、
だからこそまだ完成していない事柄に、
これからの展開をワクワクして待ち望む心構えが必要だ。
聖書は「静まって、わたしが主であることを知れ」と言っている。
そして主を待ち望むことが大きなテーマ。
主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなた
です。詩篇39:7
イエスから目を離さないでいるなら、こころが元気を失い、
疲れ果てることがなく、喜ぶことができると言われている。
私たちが喜ぶことができるのは、イエスがともにいてくれるから。
私たちにはキリストにあって、成し遂げてくださる、
大いなる希望が、未来が待っている。
それをムダにはしたくない。
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