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2月10日。暮れから筋トレを年甲斐もなく頑張りすぎたせいか左肩に痛み発生。普通の姿勢では痛みは無いの
だが後ろ手にすると痛い懸垂とかできない。整骨院で低周波とレザーの治療。
一週間で治るかも知れないし2、3カ月かかるかもしれないと。参ったな。
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こんにちは、ゲストさん
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2月10日。暮れから筋トレを年甲斐もなく頑張りすぎたせいか左肩に痛み発生。普通の姿勢では痛みは無いの
だが後ろ手にすると痛い懸垂とかできない。整骨院で低周波とレザーの治療。
一週間で治るかも知れないし2、3カ月かかるかもしれないと。参ったな。
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2月7日。ドラマの衣装合わせで調布の角川大映まで
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品川の(水の駅mixi日記より転載。)
http://img.mixi.net/img/emoji/38.gif70年代の小劇場は何処の劇団も手作りの作業で舞台を立ち上げていた。
役者は役者だけをやっていいれば済む劇団状態ではなかったのだ。経済的ににも人的にもそんな余裕はなかった。普段使っている稽古場を本番になる時はそこを劇場にするために、舞台の装置や客席を劇団員全員で大工さんのように道具を腰につけて働いた。赤坂の稽古場もその例にもれず公演の時はそんな感じだった。 ある公演の舞台と客席を3、4日かけて仕上げるわけだが、そんなある時2名のAとBが途中で今日は用事があるので早びけしますと早退した。 残った団員はその後2時間くらい仕事をして稽古場を引き上げて駅への帰り道、銭湯の前にさしかかると、早退したAとBがなんと銭湯からくつろいだ感じで手ぬぐいぶら下げて出てくるではないか、それを見た太田は怒ったね。「先に帰ったのは風呂に来る為だったのか」と「それでいいのか」「ええっ!!」「みんな働いていたんぞ!!」この時の太田は原理主義者的な太田の面目やくじょとした態度だった。彼は何につけ原則を破るものは許せなかったのだ。今でも小規模の劇団はこんなふうに劇を立ち上げているところがある。回顧趣味で書いているのではない。 |
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2月6日。(mixi品川の日記より転載。)
http://img.mixi.net/img/emoji/38.gif太田省吾も私品川も30代の前半だっただろう1970年頃だったろうか。
稽古帰りに何人かの劇団の仲間で安い居酒屋で飲んだ帰りに、新宿駅の東口から地下に降りたJRの改札の前あたりで(あの頃はまだ国鉄と言っていた)立ち話をしたのを覚えている。何故覚えているかというと、私にとって今も忘れられない言葉だから「俺がいつか歳をとって本を書けなくなる自分が怖い」と太田は言った。その頃の演劇界には錚々たる大先輩方がいて、戯曲を書いているが太田にとっては眼を見張るような新機軸な戯曲あるいは台本が無かったのだろう。 その頃太田の頭の中には劇作家・別役実に注目していたことは間違いない。 夜の新宿駅地下道の雑踏での立ち話が今でも鮮やかによみがえってくる。40年以上も前の情景だ。 太田省吾はもういない。 |
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大澤さんのブログから頂きました(転載)大澤さんはリンドウ病で母と二人の弟を亡くし自分も同じ病気のため
下肢の麻痺のため晩年は車いすの生活を余儀なくされる。私塾を主宰し中学生と関わり続けて昨年暮れに
亡くなられた。転形劇場の沈黙劇などにも観に来て頂いた。あの頃はまだ二本脚でいっかり歩いていたのに。
鰯雲人に告ぐべきことならず 加藤楸邨
http://livedoor.blogimg.jp/tsunesawa/imgs/4/8/48f926e5-s.jpg 思い悩んで誰かに相談したいなと思ってきたが、あの鰯雲を見ていたら、やはりこれは他人に話すべきことじゃないという気になった。自分の胸のうちに秘めておこう。秋の雲には人を反省的にするところがある。よく晴れた空をじっと見ていると、ささいなことにこだわって暗くなっていた自分が情けなくなる。 この後ご自分の辛い病気とのたたかいのことなどをたくさん書いている。 |
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