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今日は、4歳の次男と10kmくらい離れた大きな公園に行きました。近くには県立の循環器センターが有り、サッカーのグランドが有り、滑り台が3台、その他色々な遊具が有り、トランポリンのような白い山もあります。たまに行くと、次男は大喜びです。1時30分ほど遊びました。^_^
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2013年07月15日
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続 律法からの解放 エレベーター信仰からの解放・・・5 恵みが人生を変える・・・6 「律法主義」これは現在もキリスト教会の中に、存在しているパン種である。 「恵み」とは全くの対極に位置する。クリスチャンになったから自動的に「律法主義」から解放される訳ではない。「〜しなくてはならない。」「〜してはなら ない。」という言葉に縛り付けられて、生きているクリスチャンがいる事は残念でならない。 「ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。『義人は信仰によって生きる。』のだからです」。ガラテヤ 3:11[新改訳] 旧約時代の律法ではなくても、新約時代の律法主義が存在しています。 主の御前に受け入れられようと、頑張っていないでしょうか?次に挙げるものさえも、律法となる事が有ります。 「礼拝厳守、聖書通読、祈り、奉仕、伝道、献金、等々」これら良い事であ っても、これらをしたから神の御前に受け入れられる訳では有りません。その 逆で神が一方的に憐れんで下さって、御子イエス・キリストを遣わし十字架の 贖いを成し遂げて下さったから、信じた私たちは存在そのものを神に受け入れられ、認められているのです。 さて1年の始まりに何か今年やろうと決心した事があるでしょうか? 達成出来ると誇らしく思い、達成出来ないと落ち込むでしょう。信仰にこの やり方を適用すると大変な事になります。口では主を褒め称えても心では自 分を褒め称えます。これが肉の現実です。自分さえも巧妙に欺こうとします。信仰の名の元に行われるので、何が何だか訳が分からなくなります。 ではどうしたら律法主義から解放されるでしょうか? 「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」 マタイ5:17[新改訳] 私たちの内に、律法を成就して下さる方がおられるので、この方にお頼りすると言う 事です。お頼りするためには次の事を理解する必要が有ります。 「しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。 私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」 ガラテヤ2:19〜21[新改訳] |
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