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主の山に備えがある 22:8 アブラハムは言った、「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」。こうしてふたりは一緒に行った。 22:9 彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。 22:10 そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、 22:11 主の使が天から彼を呼んで言った、「アブラハムよ、アブラハムよ」。彼は答えた、「はい、ここにおります」。 22:12 み使が言った、「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。 22:13 この時アブラハムが目をあげて見ると、うしろに、角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行ってその雄羊を捕え、それをその子のかわりに燔祭としてささげた。 22:14 それでアブラハムはその所の名をアドナイ・エレと呼んだ。これにより、人々は今日もなお「主の山に備えあり」と言う。 口語訳 創世記 22:8〜14
主の山に備えがある。アブラハムは、主からの試みを受けてイサクをささげるように、語られた。即座に御声に応答して、モリヤの山にイサクをささげようとしたその時、ツノを薮に掛けている雄羊がいた。私は長らく勘違いをしていた。クリスチャンであれば主が歩む道に備えを与えて下さると思っていた。
6:33 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
しかし、新約の群れを指導して下さっているKさんが、メッセージで語って下さって理解出来た。アブラハムは、主の御声に従って備えを見た。
決して好きかってに歩んで困った時だけ、泣きついて備えを見たわけではない。ドキとす。御心の道を歩むと必ず主の備えがある。ここで確信が持てる。口語訳 マタイ6:33 |
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リバイバル 21:1 主は、さきに言われたようにサラを顧み、告げられたようにサラに行われた。 21:2 サラはみごもり、神がアブラハムに告げられた時になって、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。 21:3 アブラハムは生れた子、サラが産んだ男の子の名をイサクと名づけた。 21:4 アブラハムは神が命じられたように八日目にその子イサクに割礼を施した。 21:5 アブラハムはその子イサクが生れた時百歳であった。 21:6 そしてサラは言った、「神はわたしを笑わせてくださった。聞く者は皆わたしのことで笑うでしょう」。 21:7 また言った、「サラが子に乳を飲ませるだろうと、だれがアブラハムに言い得たであろう。それなのに、わたしは彼が年とってから、子を産んだ」。 口語訳 創世記21:1〜7
たんたんと書かれていますが、実に驚くべき事が、起こっています。100歳のアブラハムと、90歳のサラとの間に子供が生まれました。
私も、主から約束の言葉を与えられ、喜んだ事がありました。まだそれは、実現していません。待たされているのか、単なる思い込みなのか?最初に約束された時から、実に25年経っていました。その時でさえすでに人間的な望みはありませんでした。 アブラハムとサラは、25年待たされました。 与えられてから25年は過ぎました。(^ ^)
また、日本のリバイバルも、信じて久しい。この事も30年近く待っている。アブラハムは望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。甲子園リバイバルミッションやジェリコジャパン様々な事が、リバイバルに向けて行われた。しかし、リバイバルは起こりませんでした。その内失望感が日本に漂い始めました。
[ よろしければ ]真のリバイバルは信じ続けた人々の中から始まって行くのではないでしょうか? アブラハムのように望み得ない今、信じ続けたいと思います。家族が、職場の人々が、学校のクラスメイトが、地域の人々が救われるのを見たいと思います。この日本のリバイバルを見たいと、心から願います。 [ 下の文字を1日1クリックお願いします。] ↓ ↓ ↓ にほんブログ村 プロテスタント |
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安息 11:28 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。 11:29 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。 11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。 口語訳 マタイ11:28〜30
この箇所は、イエス様を、紹介したり、教会案内する時に、よく使われる箇所で、私も教会の看板に書かれてあるこの聖書の箇所が、近くを通るたびに、よく目に入っていました。
ある時、大きな問題にぶち当たり、妻と2人で祈りました。その後、Kさんに電話をしてその問題について相談しました。そうするとKさんは、こう言いました。
また、新しい方々の為だけでなくクリスチャンこそこの箇所が必要です。というメッセージも聞きます。
しかし、12年ぐらい前にこの箇所とヘブル書から「安息の真理」というメッセージを聞いて、自分にはこの「安息」が必要だと感じ始めました。なぜなら、クリスチャンでありながら安息がなく物事を始めたり、心が嵐のまま、主に信頼出来ない自分がいました。「安息」しましょう。電話を終え。 「え〜安息するってどうするんだろ」と妻に言いました。 とにかく、「安息します。と祈りましょう。」そう言いました。そして、祈りました。 「主よ この問題がありますが、安息します。」 そうすると、不思議に心の中に安息がやって来ました。 最初は、小さな一歩でしたが段々と安息する事が、生活の一部の様になってきました。 昨年の8ヶ月の入院の時も、色々な問題の時も、安息する事によって、主に信頼し、主と憩うことを学んでいます。 ハレルヤ‼ |
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罪を避ける結果 1:1 悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。 1:2 このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。 1:3 このような人は流れのほとりに植えられた木の時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。 口語訳 詩篇1:1〜3
罪を行動においても、思いからも避け、その仲間にも加わらない。それは、時には辛いことです。「罪を憎んで人を憎まず」という姿勢が必要です。しかし、罪人の仲間に加わらないといことは、時には誤解されます。愛がないと批判されたり、分かってもらえません。もしかしたら、この地上では誤解されたまま、かも知れません。それでも、主に従って行くなら人からの評価ではなく、神からの評価が与えられます。そして、御霊の実を豊かに結ぶようになります。それは、主が証明して下さいます。
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それゆえ、万軍の主はこう仰せられると、彼らに告げよ。万軍の主は仰せられる、わたしに帰れ、そうすれば、わたしもあなたがたに帰ろうと、万軍の主は仰せられる。 あなたがたの先祖たちのようであってはならない。先の預言者たちは、彼らにむかって叫んで言った、『万軍の主はこう仰せられる、悪い道を離れ、悪いおこないを捨てて帰れ』と。しかし彼らは聞きいれず、耳をわたしに傾けなかったと主は言われる。 (ゼカリヤ書 1:3, 4 JA1955)
ここで、主は、私に帰れと言われている。この時、帰る必要があることを自覚しなければならない。現状に満足していたり、帰る必要を覚えなければ、帰らない。それは、お腹が減らないと食べないのと同じです。だから、よく飢え乾きの必要が語られが、ここでも、飢え乾きが秘訣なのです。
主に対する飢え乾き、御言葉に対する飢え乾き、義に対する飢え乾き、聖さに対する飢え乾きが必要なのです。飢え乾きが来るとそれが、満たされる。主に対する飢え乾きを覚え、主を求めて行きたい。 |




