|
1:8 ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。 口語訳 使徒行伝1:8 ここで使われている力とは、ギリシャ語でドゥナミスです。ダイナマイトの元となった言葉です。この世には、存在しない莫大な力を、聖霊を受けたら受けるのです。私の証人だから、当然キリストの証人です。他の証人ではありません。勿論、自分の証人でもありません。キリストの証人としての力を受けるのです。聖霊のバプテスマはキリストが授けて下さるものです。求める者には与えられるものです。Kさんが今までは出会った人は、ほぼみんな聖霊のバプテスマを受けているそうです。鍵は、求めてがあるかどうかです。もう数年前に、なりますが、それを聞いて娘を導いたら、すぐに聖霊のバプテスマを受けました。 |
最近考えていること
[ リスト | 詳細 ]
|
霊的祝福の秘訣
ある時、メッセージでKさんが、こう語ってくれました。霊の子ども達を見たいなら、交わりが必要です。と語られました。男女が出会い、愛し合い、結婚し、交わり、子供が出来るように、霊の子供たちは、主との霊的な交わりによって生まれるのです。と語られたのです。そう言われて思い出すのは、歴史的なリバイバルです。ウェールズのリバイバルは、ごく普通おばあちゃん達の熱心な祈りから始まりました。これは、まさに主との霊的な交わりです。そしてある時、主を求めて人々が押し寄せ、教会堂の外に入り切れない人達が溢れていたそうです。
[ よろしければ ][ 下の文字を1日1クリックお願いします。] ↓ ↓ ↓ にほんブログ村 プロテスタント |
|
先生と呼ばれない 私たちの群れは、牧師を先生と呼びません。それは、聖書が語っているからですが、ルーツは、ロバート・ユーインさんです。またその父であるグレン・ユーインさんから始まります。しかし、私自身も先生と呼ばれることに違和感があり、牧師、伝道師の按手礼を受けた途端、先生と呼び合って、おめでとうございます。という風景にも、かなり違和感がありました。はてして、イエス様は、これを望まれているのだろうか?そういう素朴な疑問がずーっと有りました。以前属していた教会で、ひとりの青年が、牧師を試す様に、暫く「◯◯さん 」と呼び続けました。といきなりその牧師は、怒り「先生と呼びなさい」と言いました。その青年は、ほくそ笑んでいました。それぞれ問題がある様に、感じましたがその出来事は、この問題を深く考えさせるキッカケになりました。 ある牧師は、原語では、博士と言う意味だとか、日本文化の中では、誰でも先生だからそれほど問題ではなく、かえって必要であるとか、色々なことを話し合ったりしました。色々な考えがあって良いのですが、私はこのスタイルがとても気に入ってます。 23:8 しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはならない。あなたがたの先生は、ただひとりであって、あなたがたはみな兄弟なのだから。 口語訳 マタイ23:8 iPhoneからの投稿 |
|
明日は、日曜礼拝がありません。通常の礼拝が、土曜日になります。曜日にこだわりが無いので以前、東松山でも土曜日の夜に、礼拝を1年以上行っていました。また、日曜日行なう必要がある時には、土曜日と日曜日に礼拝をする時も、ありました。 その時に集う人達の、ニーズに合わせて集いやすい日にしています。勿論そのやり方に反対する方々いるのも知っています。安息日を守るようにと言う教えを、最近広めている方々がいるのも聞きました。しかし、以前 ユダヤ教の家庭に生まれた教師の方が、礼拝の為の集まりを、土曜日でも、日曜日てもなく、金曜日、また他の日にしたりする時もあると、メッセージテープで言っていました。私は今の聖書理解では、曜日にこだわらなくても良いのでは?と考えています。 |
|
信仰のモチベーション
私の以前信仰は、肩に力が入り、脂ぎっていました。
成功したい。その想いでいっぱいでした。その頃の成功とは、教会に沢山の人を集めることであり、立派な会堂を建て、優れた組織を造り、セルを機能させ、優れた伝道プログラムを造り実行することでした。(これらが全て悪い訳ではありません。問題は動機でありプロセスです。)幾人かの人々を導く事が出来ましたが、全然満足がありませんでした。それは、思い描くものと現実が違っていたからでした。今考えると、キリストを利用して成り上がりたいと思っていたに過ぎなかったと思います。厄介だったのは、良い動機が混ざっていたからでした。しかし、キリストを利用した自己実現でした。また、そういう人は以外と多いかも知れないと思います。平く言うと、信仰の名の下に、有名になりたい。お金持ちになりたい。注目されたい。また自分の思い通りの人生にしたい。これらは、正にパリサイ人、律法学者が持っていたスピリットであり、イエス様の中には、一切無かったスピリットです。パリサイ人のパン種は、偽善サドカイ人のパン種は、世俗主義ですが、共通するものがあると思います。それは、宗教を利用した自己実現です。今、教会に、すなわち、自分自身に、この様なパン種があるなら、すぐさま捨てる必要があると思います。サタンは、ここからいつも目をそらそうとします。 私たちは、自己実現ではなく、神の御心を実現して行きたいと思います。 それが、イエス・キリストのスピリットです。 |







