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いままでと同じ生き方はできない。
それが聖書で言う悔い改め。 間違った生き方をしている事に気付いたら、間違った生き方は続けられない。 自分では変えられないという考えは、甘さや怠惰。 「罪は犯してしまうものだから…仕方ない。」 全面的には指示できない考え。 失敗は確かにあると思う。 言い方、考え方、関わり方、その時の心に左右されやすい。 だからこそ、反省することは確かに必要。 自分がして欲しい事を相手にする。 自分がされて嫌な事は、相手にもしない。 自分を愛するように、他者を愛する。 この心がわかるなら、人を痛めつけることは、例えマインドコントロールの環境にいても出来ない。 神様の為と言って、嘘を平気でついたり、人を悪魔扱いしたり、苦しめてきたのなら、悔い改めたと言っても、その人の人格そのものが変わらない限り、誰からも信用されない。 もし、信仰の虐待をしていた指導者なら、悔い改めた時点で自分自身が指導者としては失格であることを自覚して、人を導く立場をきっぱりやめるべきだ。神様からの召しではなく、自分がやりたかっただけのことを認識しなければならない。 良い教師の資質があるのなら、そもそもカルトの中には長居できないし、人を導こうとしなくとも、人はついてくる。 本当に正しく導く力がある人は、人格も備えられてる。 人格がその人の「実」。 私が好きな聖書の話の中で、取税人ザアカイの改心の話がある。 木に登っていたザアカイにイエス様が声をかける 「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」 大喜びでイエス様を迎えたザアカイは、こう話した。 「主よ、ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。まただれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します」 ザアカイは、イエス様との出会いで生き方を180度変えた。 人の為に生きることを選んだだけじゃなく、悪いことをしていたことも認め、償う姿勢を見せた。 まったく新しい人になった。 行動が変わるのは、心が変わるから。 「だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんな継ぎ切れは着物を引き破って、破れがもっとひどくなるからです。 また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋にいれれば、両方とも保ちます。マタイ9:16、17」 新しく生きるということをカルトの教会では、聖書からではなく教会や牧師の都合よく教え込んでいる。 信徒は、牧師や教会が教えてる教えを、聖書からそのままだと信じて疑わない。 聖書の一言を引用して、あたかも正しい教えのように教えこんでいるだけなのに。 継ぎ接ぎだらけのボロの服と、泥水に命の泉の水を一滴まぜただけの汚染水を与えられてる。 それを新しい服と、命の水だと信じこまされている。 そんな事を続けてきて、沢山の人の命を削り、生活を壊してきて、内輪で悔い改めましたと言っても、本当の悔い改めになるはずがない。 本当に悔い改めたのなら、ザアカイのようになるはず。 イエス様に出会ってザアカイは生き方を変えた。 信じていながら悪い生き方をしていたのならなおさら、方向転換にどれだけエネルギーが必要な事か。 簡単な事ではない。 「神様ごめんなさい。」 その悔い改めの信仰を見せてください。 人間の信仰や心は、行いなくして誰も信じない。人間は神様じゃないから。 イエス様は、教えの中で心のあり方を何度も何度も繰り返して教えている。 心ひとつで大きく変わる。 信仰も、人格も、人間関係も、行動も。 善いことを選ぶのも、自分の心次第。 本当に神様を信じているのか? 神様ののぞむ生き方をしているのか? その人の心がその実をあらわす。 その人の行い(振る舞いや言動)でその心を表現する。 その実は、それを見る人がはっきりわかるように出来ている。 何か凄い事が出来るとか、知識があって頭がいいとか、なんかの実績があるとか、大きくて立派な教会のクリスチャンだとか、そんな表面的なものが「実」じゃない。 人間性だ。 「義を追い求める者はいのちな至り、悪を求める者は死に至る。 心の曲がった者は主に忌みきらわれる。しかしまっすぐに道を歩む者は主に喜ばれる。 箴言11:19、20」 神様信じて、方向転換をしたのなら、信じてる神様が、嫌だと思う生き方はできない。 それが本当に信じて新しくなった人だと思う。 神様は、表面的なものを見ていない。 常にその心を見て、その心に対して語りかけておられる。 「だれでも、小さい者にすることは、わたしにしたのです。」 神様は、弱き者や小さな者の味方だ。 そんな人々を蔑ろにする事は、神様を信じていないのと全く同じだ。 クリスチャンだから救われているなんて、100%の保証などない。 神様は神様と心を共にしてる人を呼ばれるのだから。 |

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『「義を追い求める者はいのちな至り、悪を求める者は死に至る。心の曲がった者は主に忌みきらわれる。しかしまっすぐに道を歩む者は主に喜ばれる。 箴言11:19、20」「神様は神様と心を共にしてる人を呼ばれるのだから」。』
アーメン!
2011/9/9(金) 午前 3:56 [ 池城安敏 ]
おつかれさまです。
私は汚れ多き人間で有りますが、澄んだ言葉に感慨深く感じます。
迷い、救いを求める者を食い物にする輩は何処にでも居るようで、腹立しい限りです。
2011/9/9(金) 午前 4:30 [ 丸太の豚 ]
神様を恐れ敬うことを説教をしている本人自身(牧師)が取っている行動は、神様を恐れ敬うどころか、平気で嘘をつき、信徒達の持っているものを利用するだけ利用をして、さらに自己正当化をして、どこまででもマインドコントロールをしている現状でした。。。
彼らの取っている行動や言動(本音)を見ても、信仰心から程遠い。
神様をも利用しているのだから。。
優秀な人材の芽を摘み、社会から逸脱した精神状態を生み出すことは大きな社会問題であり、非常に危険なことです。。
これ以上被害者が出ないように声を上げている人達を今だにサタンの妨げだと言って、悪霊追い出しの祈りをし始める現役信徒のコメントを見て、今だに根本的体質は全く変わっていないのだと知るのでした。。
しかし、何を言われようとも不祥事は事実なのですから、事実を封印することは決してしない。。声をあげ続けます。
2011/9/10(土) 午後 10:17 [ 新垣美智 ]