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私の一番の傷は、短大時代に受けたものが根深く残る。よくもこんな短期間で深手を負わされたものだ。
それが、どういうことで傷をえぐるかと言うと、
・具体的な話なしに一方的に非難される
・こっちが状況が見えないうちに感情的なネガティブフィードバックを浴びせかけられること。
・私がおかしいのかと思わせるような、自己否定へ誘導する発言。
これは、マインドコントロールにおける「解凍」と言う段階で、自分の現実を揺さぶり、今の自分は駄目だと自らを否定することで、カルトの教義を刷り込みやすくする工程でもあり、組織の意にそぐわない人間を痛めつけるものでもある。
カルトのリーダーだけでなく、マインドコントロールにかかった普通の信者も無意識にこのような行動をする。
私は、教会のマインドには染まらなかった。だけどその分、自分でも癒やすのに難しい深い傷を負ってしまった。
この傷が再び血を流すことは、普段の生活や仕事をしてるときには全くない。
抽象的な指摘を受ければ、具体的に教えて欲しいと突っ込んで相手の言いにくいことも素直に聞く。
他の人が聞いたらキツいと感じるような言い方の指摘でも、冷静に受け止め、それに応える。
人の話を聞くのが好きであるのと、人懐っこく、素直な性格が元来生まれもった私の個性である。
その個性が生かされた仕事がファーストフードのマネージャーだった。
クレーム対応も好きな方で、直接お客様の意見が聞ける貴重な場としていた。
社員からもクレームは信頼して任せてもらっていた。
お客様でファンになってくれる人もいた。
それだけ人と関わる事が本来大好きなのである。
一方教会では、人見知りで警戒心もあり、知らない人に打ち解けるには多少時間がかかる。
短大時代が一番人見知りだったかもしれない。
私に大打撃を与えるなら、人から浴びせられる人格否定と拒絶。そして不信の言葉。
大抵の人なら、人により打撃を受けないものだったりするが、自分と関わる人間を大切にしようとする私には、大小関わらず、受け流せないものなのだ。
具体的に何がいけないとか、はっきり言ってもらえたら、厳しい意見も素直に聞けるし、直接言って欲しいと思う。
そんな私の性格を、教会はわかっていたのだろう。人により傷付けられ方は違うが、私には最も効果的に傷を負わせた。
直接ではなく、間接的に(を装って)。
更に具体的ではなく、抽象的に(誰でも心当たりがありそうな表現で)。
それをあたかも確信して強く。
詳細は教えてもらえない。だから自分で必死にそこまで言われるほどの理由を探す。
その間、葛藤しているのは自分の記憶と自己否定。
全て私が悪いんだと思えば、円満に解決する。
だけど、記憶はそれを全面的に受け入れる事を拒む。(私の得意なのが状況記憶で、小中学生の頃の友達とのやり取りまで細かく覚えるほど)
その結果、人に対する不信感がでる。
人が好きな私にとって、人に不信感を抱くことは、自分の信条にも大きな打撃を与え、大切な人に疑いを向ける自分の姿は、一番傷付く。自分の信条を否定してしまうことは大きな傷になった。
それが教会の中で、対クリスチャンの中で行われて来た。
だから、この傷はキリスト教の信者限定でしか傷付けられないし、えぐられない。
だから、理由も知らずに教会に繋がっていなければ信仰がダメだと思い込んでいて、それを簡単に言うクリスチャンは嫌い。
簡単にレッテル貼りをして、人を非難するクリスチャンも嫌い。
それが私の素直な気持ち。
一般社会でもそんな人はいるけど、教会の中の方がはるかに多い。
もちろん、大好きな教会もあって、そこにいる友達も牧師も好き。
クリスチャン全てが嫌いなわけじゃない。そこにはお互いを受け入れる愛があったから。
自己分析をしていく過程の中、教会で受けた傷は、そこで終わりだと思っていた。しかし、終わりではなく、弱さである限りいつでもえぐられる。
この傷の深さと、どんな事で開くのかを、ゆっくり見ることができ、明確になってきた。この傷が開くときの、何とも表現し難い苦しみと痛みは、本当なら二度と味わいたくない。
傷を受けたのは事実。同じ様に今後も受ける可能性は、クリスチャンと名乗る人と関わる限り0にはならない。
ただ具体的に、はっきり分かったから対処出来る。
結局、自分の心を守ってあげられるのは自分しかいないのだ。そこに神様の助けがあれば私はそれだけで良い。
傷はついたし、えぐられたし、かなり深いけど無駄じゃない。確実に前に進める。
この傷が、誰かを癒せるなら、喜んで見せたい(伝えたい)。
同じ様に傷付いた人が、自分の痛みをひとりで抱え込まないように。
私が受けた傷は、他の誰かの痛みを知り、他の誰かが癒やされていくために。
独りじゃないことを知るために。
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