つれずれなるままに。。。ユコンブの独り言

主に書くのは教会関係で、私がリバイバル教会で過去にあったことも書いています。日常もちょっとずつ書きます。

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病みつき ケータイ投稿記事

この所、自分は本当に幸せ者だなぁ〜と実感させられてばかりいます。

仕事の環境、引っ越した家、一緒にいる大切な人達、応援している人が元気になっていく姿。

何気ない時に、ほっと一息つくと、

「あぁ〜、幸せだなぁ〜」

つくづくそう思う。

一日一善じゃないけど、ちょっとした気遣いで人が喜んでくれることって、逆にこっちが元気もらえちゃったりしている。

ただ、いちいち人に言うことじゃないと最近すごく感じるようになってきたから、自分の最近の記事も嫌になったので、非公開にしました。

教会の問題と、自分の日常だけで良いかな?

自分がどんなことしてようと、良いことなら神様との秘密でいいやって思っていたりする。

でも人の幸せって、本当にご馳走!

病みつきになっています。

身近な誰かが、1人でも多く、1日でも長くハッピーでいてくれることが、私の幸せです。

一緒に苦しんだり、悲しんでいることもあるけど、必ず終わりがあり、出口が来る。

それがわかっているから希望を捨てない。
必ずよくなることを信じている。

だから苦難さえ喜べるというものなのかもしれない。

ただいつも喜ぶ事なんて、誰も出来やしない。
希望があるから喜べるんだ。

実生活を通して、本当に聖書の言葉って染み渡る。

言葉が先だけど、言葉が後になる。

なんて表現して良いのかわからないけど…。

とにかく幸せ!!

方向転換したのなら ケータイ投稿記事

いままでと同じ生き方はできない。
それが聖書で言う悔い改め。

間違った生き方をしている事に気付いたら、間違った生き方は続けられない。

自分では変えられないという考えは、甘さや怠惰。

「罪は犯してしまうものだから…仕方ない。」

全面的には指示できない考え。

失敗は確かにあると思う。
言い方、考え方、関わり方、その時の心に左右されやすい。

だからこそ、反省することは確かに必要。

自分がして欲しい事を相手にする。
自分がされて嫌な事は、相手にもしない。

自分を愛するように、他者を愛する。

この心がわかるなら、人を痛めつけることは、例えマインドコントロールの環境にいても出来ない。

神様の為と言って、嘘を平気でついたり、人を悪魔扱いしたり、苦しめてきたのなら、悔い改めたと言っても、その人の人格そのものが変わらない限り、誰からも信用されない。

もし、信仰の虐待をしていた指導者なら、悔い改めた時点で自分自身が指導者としては失格であることを自覚して、人を導く立場をきっぱりやめるべきだ。神様からの召しではなく、自分がやりたかっただけのことを認識しなければならない。

良い教師の資質があるのなら、そもそもカルトの中には長居できないし、人を導こうとしなくとも、人はついてくる。

本当に正しく導く力がある人は、人格も備えられてる。

人格がその人の「実」。

私が好きな聖書の話の中で、取税人ザアカイの改心の話がある。

木に登っていたザアカイにイエス様が声をかける
「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」

大喜びでイエス様を迎えたザアカイは、こう話した。

「主よ、ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。まただれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します」


ザアカイは、イエス様との出会いで生き方を180度変えた。

人の為に生きることを選んだだけじゃなく、悪いことをしていたことも認め、償う姿勢を見せた。

まったく新しい人になった。


行動が変わるのは、心が変わるから。


「だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんな継ぎ切れは着物を引き破って、破れがもっとひどくなるからです。
また、人は新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れ出てしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋にいれれば、両方とも保ちます。マタイ9:16、17」


新しく生きるということをカルトの教会では、聖書からではなく教会や牧師の都合よく教え込んでいる。

信徒は、牧師や教会が教えてる教えを、聖書からそのままだと信じて疑わない。

聖書の一言を引用して、あたかも正しい教えのように教えこんでいるだけなのに。

継ぎ接ぎだらけのボロの服と、泥水に命の泉の水を一滴まぜただけの汚染水を与えられてる。

それを新しい服と、命の水だと信じこまされている。


そんな事を続けてきて、沢山の人の命を削り、生活を壊してきて、内輪で悔い改めましたと言っても、本当の悔い改めになるはずがない。

本当に悔い改めたのなら、ザアカイのようになるはず。

イエス様に出会ってザアカイは生き方を変えた。

信じていながら悪い生き方をしていたのならなおさら、方向転換にどれだけエネルギーが必要な事か。
簡単な事ではない。


「神様ごめんなさい。」

その悔い改めの信仰を見せてください。

人間の信仰や心は、行いなくして誰も信じない。人間は神様じゃないから。

イエス様は、教えの中で心のあり方を何度も何度も繰り返して教えている。


心ひとつで大きく変わる。
信仰も、人格も、人間関係も、行動も。

善いことを選ぶのも、自分の心次第。


本当に神様を信じているのか?
神様ののぞむ生き方をしているのか?

その人の心がその実をあらわす。

その人の行い(振る舞いや言動)でその心を表現する。


その実は、それを見る人がはっきりわかるように出来ている。

何か凄い事が出来るとか、知識があって頭がいいとか、なんかの実績があるとか、大きくて立派な教会のクリスチャンだとか、そんな表面的なものが「実」じゃない。

人間性だ。

「義を追い求める者はいのちな至り、悪を求める者は死に至る。
心の曲がった者は主に忌みきらわれる。しかしまっすぐに道を歩む者は主に喜ばれる。 箴言11:19、20」


神様信じて、方向転換をしたのなら、信じてる神様が、嫌だと思う生き方はできない。

それが本当に信じて新しくなった人だと思う。

神様は、表面的なものを見ていない。
常にその心を見て、その心に対して語りかけておられる。

「だれでも、小さい者にすることは、わたしにしたのです。」

神様は、弱き者や小さな者の味方だ。
そんな人々を蔑ろにする事は、神様を信じていないのと全く同じだ。

クリスチャンだから救われているなんて、100%の保証などない。

神様は神様と心を共にしてる人を呼ばれるのだから。

子ども時代と教会 ケータイ投稿記事

私が教会に行き始めたのは9歳の11月。
ある朝7時に突然
「さぁ起きてー!楽しいところ連れて行くよ〜」
明るい母の声で叩き起こされ、(せっかくの日曜日なのに何なの〜?)

そう思いながらも渋々身支度して出掛けました。
連れていかれたところはアパートの中にある教会。そして何故か幼児クラス。

「騙された…。」

子どもながらにそう思ったのでした。当日3歳の弟がいたからですが…。
すぐに小学生のクラスはないのか確認してもらい、次週から通うことになりました。

そこで最初に聞いたのがクリスマスの話。

神様が人となってこの世に来てくれたのをお祝いする日。

「うわぁ〜神様凄い!!」

単純にそれで信じました。

信仰のベースがここからなので、今でもその時の気持ちを大切にしています。


当時の私は、小さく細い体ながら男勝りな性格で、曲がった事が大嫌いな頑固ちゃんでした。

誰かがいじめられたら飛んでいき、いじめた相手に理由を聞き、答えずにケンカをうってきたらケンカして、力でねじ伏せていました。

一方で先生や目上の人には礼儀正しく振る舞い、勉強もスポーツも真面目に取り組んでいた為、先生が頭を悩ませていたようです。

「真面目だけど、喧嘩っ早い。正直良い子なのか悪い子なのかわかりません」

母に面談でそう話したとのこと。

私の方は一学期の成績で、友達と仲良く出来るの評価だけ努力マークがついていたので焦っていました。他は良かったからです。

何とかしなきゃと思っていても、向こうがケンカ売ってくるのに??
と、葛藤していました。
そんな時に教会に行き、聖書と出会い、「あなたの敵を愛しなさい」に衝撃を受けたのを覚えています。

ええっ?それじゃやられちゃう!

そう思いながらも、売られたケンカを買わないようにしました。
我慢できずに買ってしまった時は、気付いた時に手をひきました。

手を出さない事でやり返されないか心配でしたが、意外な事に、その変化に相手も戸惑い、いつの間にかケンカをする事が減っていき、ケンカをしないで過ごせたら、何だか良くわからないけど凄く気持ちが晴れ晴れとして、神様ありがとう!って空を見上げていました。

それが私の実践した最初の御言葉でした。

子ども聖書をボロボロになるまで読み、話が飛び飛びだから大人の聖書が欲しいと駄々をこねて買ってもらえず…。
ある日高熱を出して休んだとき、欲しいものあるかと聞かれ、すかさず「聖書!」と答えて、まんまと買ってもらうことが出来ました。


友人が、その変化に一番驚いていた。
6年生の時には、だいぶ落ち着いたよね〜って笑い話になっていた。


行った教会はカルトでしたが、神様と出会えた事は否定できないし、聖書があるから良くなれた。

どんな教会でも、確かに神様哀れんでくださるし、助けてくれると思います。

でも、助けてって感じる事さえなくなってしまったら、どうやって抜け出すのでしょうか?

マインドコントロールは、その感覚すら奪ってしまう。逃げようと考える事も離れる事も選択出来なくなる。体に異変がきて動けなくなるか、環境が変わるために通えなくならない限り、やめることも難しくなる。
誰かが気付かせて、手を伸ばさなければいけない。


私が、カルト教会でも神様に出会えたのは、その為だったのかもしれない。

疑問集 ケータイ投稿記事

私が沖縄リバイバル教会にいた時に感じてた疑問や違和感をふと思い出したので、書いておこうと思います。

小さい頃から曲がった事が大嫌いで、好き嫌いがはっきりしてる怖いもの知らずの子ども時代でした。


まず、小学校の頃は教会に人がどんどん増えてきた時期で、その時には大人はみんな「先生が素晴らしい」と言っていました。

小学校5年生の時、ある人に、
「ここは、本当に良い教会だよ〜。とっても祝福されてるよ〜。先生凄いよ〜。」

そう言われ思わず
「えっ?別に先生凄くないし」

そういったら、その人は慌てて
「ゆうこちゃん、先生はとっても素晴らしい人なんだよ〜!」

諭されるように言われたのを覚えてます。

後に同年代で中が良かった人も(Tちゃん)この家族も今は離れています)、2年前に会ったときに同じ事言っていました。

Tちゃんママ「そう言えば、あの時期、Tも同じ事言ってたさー。」

T「ほらね、子どもは純粋だから、みんなわかるんだよ!」



教会でも人柄が良く、面倒見が良かったおじさん家族が教会から出て行きました。とっても元気いっぱいで、明るく、イメージで言うと、間寛平さんのような面白いおじさんでした。
このおじさん家族が離れた事は、私にとってずっと疑問になり、心に残るきっかけになった事です。
後に、このおじさん家族の話題で短大の時に「先生を悪く言って!」といきなり怒られる事になります。

それとは反対にある家族は、子どもたちも素晴らしい!理想のクリスチャンホームと言われてました。みんなが言ってるほどの事はない。と思ってました。

正直、この家族の両親は好きになれませんでした。どんなに柔らかい笑顔でも、冷たく怖い雰囲気に見えたから。
そして、子どもは正直なので、「怒られたら太ももを思いっきりつねられるし、怖いよ〜」
そう言ってました。
親に怒られないように良い子ちゃんしてるんだなぁ〜と思いました。

そんな私は、何を言われようと自由に振る舞っていた子ども時代でした。変な子扱いされていたようです。

なぜ、家族によって扱いが違うのかが疑問でした。


短大に入って、セルの福リーダになったばかりでいきなりすぐに降ろされました。
でも、みんなに黙っているように言われました。さらに無期限で奉仕禁止を命じられました。

苦しかったけど、正直そこまでされるほど悪いことした覚えてすらなかったので、具体的に言って欲しいと思っていたし、納得していませんでした。

奏楽奉仕のお姉さん達の薦めで、奏楽奉仕者見習いとして奉仕復活。
それはそれで嬉しかったけど、練習中に疑問に思っていたこと。


礼拝の音楽は全て牧師先生が決める。
(奏楽奉仕者で話し合って、沢山ある楽曲からローテーションで選んでから、報告していると思っていた。だから、正直なんで奏楽しない先生が全部決めるのかとか、意味がわからなかった)
しかも、前日の練習日当日、練習時間終了ギリギリまで決まっていなかった事もあり、奉仕のお姉さん達が先生の選ぶ曲を予想して練習してました。それはそれで単純にお姉さん達を偉いな〜って思ってました。ある程度決まった曲でしたけど。

祈りの時に演奏する、コード演奏のルール

音楽で神様の隣在を感じるように、リズムから流れまで気をつけること。
(ここで感じたのは、『音楽で神様感じるようにコントロールするの??』でした)
それ以来、お祈りの時間も音楽が気になって気になって…。

教えてくれた人が良い人だったので、奏楽に関する疑問は喉から飲み込んで心に留めておきました。

その時には、「私の言うことはキツい」とレッテルを貼られていたのもあり、疑問を言うことで、せっかく良くしてくれる人を悲しませたり傷付けたくなかったからです。

昔書いた記事と重なる事もありますが、細かい事でも思い出したら、忘れないように記録しておこうと思いました。

本当に必要な支援 ケータイ投稿記事

今私は保育士として特別支援にかかわっている。
配慮の必要な子や、障害のある子に対する保育です。

今は特別支援の枠は広く、一見普通の子の範囲に入る状態でも、場面場面での適応力などから支援対象になっている子もいます。

特別支援には色んな文献があり、今主流なのが、違いを受け止め、適応させるのではなく、こちらが配慮して環境を設定する。保育にもそれを取り入れています。

クラス全体で同じ理念を共有しているつもりでも、扱う人の個性や考え、心で、対応が大きく異なります。

同じ理念を共有しているはずの私とクラス担任では、対応に大きな違いが出て、クラス担任に合わせようと心がけている私には苦痛な事もあります。


極端な話し、私は本当に相手(子ども)に愛情があれば、どんな子育てでも良いと思っています。
本当に愛情があれば、間違った範囲には及ばないと考えているからです。
しかし、方法論優先で心がそこにない場合は、同じ対応をしたところで結果は変わってきます。
心が入らなければ、良かれと思った対応ですら、子どもに生きることはありません。

大人と違って、子どもは敏感に愛情を感じて、それを返してくれます。

子どもと関わっていますが、大人も結局は同じだと感じました。


カルト問題の支援も同じです。

教理が間違っているから、正しい教理を学べば、正しい信仰の姿勢を勉強すれば、カルト思考から解放されるか?

私は否だと思います。

実際に全く考え方の違う支援者の支援の仕方や支援を受けてる人の様子をネットなりで観察してきました。

心がない支援者に捕まってしまった人は、なんてかわいそうなんだろうと胸が詰まって苦しくなります。

心が入らない支援とは、一見、支援が必要な人(クライアント)にとって心地よい空間をつくり、そこがやっと得られた安全基地だと思わせる。

方法論や知識の量で他に専門的な人ははいないと信頼させる。

この時点で、カルトでマインドコントロールされた人は、簡単に信じ、ついていくでしょう。

問題はその後です。

どんな人でも違いがあり、理解の仕方も理解出来る角度も違います。

同じ角度でしか話が出来ない人(特にマインドコントロール被害者などのクライアント)の為に、支援者は別の角度からも理解してもらえるように、周りに働きかけるべきだと思います。またクライアントにも同じです。

ですが、私が問題とみている支援者は、支援者の意に従う人であれば、どんなに人格的に問題があっても、犯罪を犯してない限り、大丈夫だと太鼓判を押し、フォローに回す。
しかし、反対に意にそぐわない他の支援者に対しては、あまり勧めないとクライアントの不安を煽り離れさせる。

そうやって、支援者に依存させて、クライアントにとって本来の回復には繋がらない対応しかしない。結局支援者のイエスかノーに従う人間を作り出す。

カルト被害での場合においては、私は再マインドだとよんでいます。


聖書だって、扱う人の心一つで曲解する。

どんなに良い方法でも、扱う人が悪ければ、それは悪用にしかならない。

これは、実際に働きながら、見たり、聞いたり、感じた事です。
知識は実際の行動を通して経験となり、知恵となると、実感しています。

被害者(クライアント)にとって本当に必要な事は、その人それぞれに応じた支援であり、病状の良し悪しに関わらず、自立を促し、自由に考えられる広い視野に気付くこと。

「自立」とだけきくと、ひとりで生きると思う人もいるかもしれないけど、自立とは、精神的にも生活面でもまずは「自分の足で立つ」こと。

それらを手助けするのが、本当の支援であり、それは本当に愛がなければ出来ないことだと思います。

愛があるのとないのでは、結果に大きく差が出るでしょう。


私のある友達は、色んな事がありましたが、精神的な症状が今年から出ることなく、薬も全く飲まなくなったとのこと。

今は、祖母の身の回りのお世話をしながら家事を頑張っているそうです。
時々連絡してなかったからと気遣ってメールをしてくれます。
今までは逆だったし、苦しい時しか連絡なかったのに、彼女の回復と心遣いに嬉しい限りです。


ここ1ヶ月、個人的に苦しい中も通りましたけど、それも必要な事だったと実感しました。

ここ最近の一つスッキリです。

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