つれずれなるままに。。。ユコンブの独り言

主に書くのは教会関係で、私がリバイバル教会で過去にあったことも書いています。日常もちょっとずつ書きます。

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愛すべきおばあちゃん ケータイ投稿記事

沖縄リバイバル教会の支援者、盛山 和子さんについて、私の思っている事を書きたいと思います。

一言でいうと表題の通りです。

私は盛山さんが教会に来始めた年の3月に沖縄を離れました。
ですので、帰ってくるまでの五年間は面識もなければ存在もよく知りませんでした。

ただ、教会の締め出し事件の連絡を受け、その後の被害者や家族に味方してくれてる人がいるということを聞いて、安心したものです。

離れて、他の教会を見れたこともあり、私は母教会の異常さや自由の無さにすぐに気付く事ができました。

それまでは、「他の教団の方が自由がない!」
「他のところはあんまり良くないってよ」等々、転会してきた人もいたので、なんだかんだで一番マシなのかなぁ〜?と考えたり、他のところに遊びに行くことさえ悪い気がして、躊躇していました。

上京した教会で、母教会がおかしい事に気付いた私は、学んだ事を持ち帰って教会を良くしていきたいと思っていました。
カウンセリングの勉強をしたいと思ったのも、教会に心が病んでたり、貧しい中で苦しんでいる人があまりに沢山いると感じていたからだったのです。

牧師は手がまわらない程忙しいのかと思っていました。

代わりに他の人を助けたいと思っていました。

今、振り返ると何て悪意が無いことを前提に考え過ぎていたんだろうと思いました。


そんな中、被害者を支援してくれる盛山さんと会うことが出来ました。
前から私に会いたがっていたとの事で、嬉しそうな様子でした。

教会の問題や今まで起こった事など、話を聞きながら、全く同感な事ばかりで、〜はこう思わない?などの問いかけられたりしながら、時間が過ぎていきました。

「あら、この子はマインドにかかってないのね〜」

そんな風に驚いたりしながらも、私の教会で受けた傷や、影響なども感じ取ってくれた。

ほかのみんなは盛山さんの事を、命の恩人だという。
私も、直接助けてもらったわけじゃないし、みんなとは多分違う感情だと思うけど、大切な人を助けてくれた命の恩人に間違いない。


私にとって盛山さんは、良い先人の見本であり、だいぶ年の離れたお友達であり、将来、盛山さんみたいに年を重ねたいと思っている。


牧師に信頼してても、その牧師みたいな人間になりたいと思う人はいるだろうか?

盛山さんは私にとって、人間として尊敬できる数少ない中の1人です。


盛山さんに電話すると、私はあまり話さない。他愛のない話から、大切な家族の話しや、若かった頃の話し等々、いっぱい話してくれる。
そんな話を聞いているのが好きだ。
考え方が似ていたり、共感出来ることが多すぎて、まるで自分の心と心で会話しているみたいにストンと胸に落ちる。

そんな盛山さんは、今までからだを壊したり、手術の為に入退院や通院を繰り返しながらも、困った人達の為に時間を割き続けてる。

家族以外面会謝絶の状況になっても、お医者さんに

「助けを必要としてる人が来るのに、合わなかったら、私は余計具合が悪くなりますから、入れてください!」

そうやって、安静を拒んでまで人々に尽くしてきた。

お金に困っている人には、返ってくるかも期待せずにお金を貸す。
過去に離れた人が、戻ってきて頼ったときも何も言わずに優しく受け入れる。


今も、弱った人々の為に生きている。


人によっては、盛山さんの言うことは厳しくて怖いと思うらしい。

私は出会って一度も感じたことはない。

「厳しいこと言ってごめんね〜」
と、心配して忠告してくれてるつもりなのかもしれないが…
言われている事は当たり前で、正直何が厳しいのかわからないくらい優しい。

相手が牧師だろうと、おかしな事や矛盾している事があったら、あえて周りに気付いてもらおうと、人前で「それはおかしいですね」と意見する人だ。

マインドコントロールされてると、脳がちゃんと活動していないから、気付かない部分が多い。

それを動かす為に、あえて意見したり、悪者になったりする。

もう70過ぎのご高齢のご婦人がそんな行動するのには、ものすごいエネルギーが必要だと思う。

それを被害者や困っている人、弱っている人に惜しみなく注ぎ続ける。

そんな愛すべきおばあちゃんに私もなりたい。
破壊的カルト化教会について、時々こんな意見がある。

「キリスト教系新興宗教だから…」

「新興宗教に引っかかるから…」


私個人的には、この様なものの見方をするクリスチャンは大嫌いです。


この発言から何が根底にあるかと考えたとき、

「自分達とは畑が違う」

「全く別物だから関係ない」

要は、「他人事」なのです。


彼らは、同じキリストを信じるものが傷付き痛んでいることに対して、同じ様に心を痛める事がありません。


同じキリストのからだであるなら、他の場所が悪くなるとき、同じ様に痛みを感じるはずなのに。

中学校の時に嫌いな生徒指導の先生が、全校集会で話を聞いていない生徒にこう怒鳴りました。

「自分達はちゃんとしてるから、関係ないって思っているお前ら!そうやって話を聞かない!お前らみたいな姿勢が学校をだめにするんだ!」

ちゃんと校則も守り、話もちゃんと聞いていた私は、この時正直カチンときていましたが、いま振り返って、現状をみてると非常に納得させられました。


マインドコントロールの問題の重要な要素に、傍観者の存在があります。(過去の記事にも書きましたが…)

自分達は関係ないって思う人がいる限り、カルトはなくならないし、後にも出てくるでしょう。

教会のカルト化は、信徒にも責任が大ありです。

自分の慕っている教会の牧師にも遠慮せずに苦言出来たり、意見ができる環境があれば、牧師個人に問題要素があっても、助長することは起こらないでしょう。

信徒が強いと牧師は大変かもしれないけど、それぞれの個性が共存できる教会なら安心だと思います。


私が沖縄リバイバル教会にいたとき、すでに大問題になっていた教会から沢山の方が移ってきました。


そのとき、祈祷会でこう言われました。

「どうして移動してきたのか決して聞かないように。とっても傷付いているので、何も聞かずに歓迎してください。」

その通りに当たり障りなく、関わりました。

また、別の教会から移ってきた家族で同じ年の子が、移ってきたばかりの頃に、こう言っていました。
「お母さんが言ってたけど、この教会なんかおかしいって。」

私「へぇ、どうして?」

「うーん、ちゃんと聞いてないけど…」

私「ふーん。」

もっと突っ込んできいておけば良かった。


会堂が立つ前、キリ短のチャペルで祈祷会してるとき、車の中での母との会話

「ねぇ、教会っておかしいんじゃない?それともお母さんがおかしいのかな?」
それに対して私は
「うーん、よくわかんない!何で?」

「そうだよね〜…」


この時までは、まだ高校生ということもあり、あんまり深く追求する頭もなかった。


他のカルト化教会から移動してきた人もまだ通っている。
私に「教会おかしいよ」って言った子も、結局教会にいて、子供も旦那さんも一緒だ。

一時はとても親しかった人達。


あの時、スルーしなければ、変わっていたかな?
今思い出しても後悔してる。

問題に気付いているけど、子どもの信仰を失う事を恐れて通い続けている人もいる。
すでに信仰を失った子がいると、仕方ないのかもしれないけど、その信仰が歪む事を恐れてほしい。

出たから自分は幸せ…で終わりたくない。

信仰は、教会に行かなくても、自分が手放さない限り無くならない。
神様忘れなければ、どこにいても大丈夫。

教理とは関係なく起こっていること。
教会や牧師に頼らないと(通い続けないと)不安になるようなマインドコントロール(言葉かけ)も、まずは離れてゆっくり自分で答えを探す作業しなきゃ、牧師頼ってたら解けないまま、教会サーフィンし続ける。


関係ないって切り離しちゃいけない。
あなたの信じる神様からみたら、どの人も大切な宝物。

間違っていることは、させちゃいけない。しちゃいけない。

神様絶対見捨てない。最後まで手をのばし続けてる。
同じ様に、手を伸ばして呼び続ける。

身近なところからでも。
………………………………………………………

沖縄リバイバル教会の裁判での原告、上江洌尚子(うえずなおこ)さんのブログは消されましたが、事の次第を知りたい方は、匿名であっても受け付けています。
ネットを通して沖縄リバイバル教会(ORC)問題を知った方、もしくは元ORC信徒など、直接ORC被害を受けた人達とコンタクトをとりたい場合はこちらまで↓↓↓


上江洌尚子(うえずなおこ)さんへの連絡先

メール  karutohigai_01@yahoo.co.jp

携帯  090−1366−6363

自宅  098−897−8663

消えたブログ ケータイ投稿記事

信じられない出来事が起きた。

沖縄リバイバル教会の被害者でもあり、裁判の原告である上江洲さんのブログが突然削除されました。

他の被害メンバーのブログは残っています。

どう考えても、悪意の通報があったとしか考えられない。

そういう根回しは、前々からやってる教会だけど。。裁判で出した不都合な証拠が沢山残っているブログは上江洲さんのブログだけ。

それを世間に触れさせたくない。そうしなければ彼らの嘘がどんどん明るみに出てしまうから。

一番不都合なブログを誹謗中傷だとか、でっち上げの悪質ブログでだとか、色々手を尽くして通報したのかな?

もし、そうだとすれば、その悪事も全部明るみに出します。

これ以上被害者が出ないように訴え続けるブログです。

この声は消させません。
必ず復活させます。



それから、削除を望んだ人に警告。

残念ですが、ブログの記事は全てプリントアウトされ、ネット以外でも保管されています。(もちろん私のブログも)

この様な事が起こることも想定の範囲内。

いつでもどこでも復活は可能です。全て証言として残されています。

カルトのあなた方が本当に悔い改めて変わらない限り、全て重い足かせとなって積まれていくでしょう。

それは、滅びの日の為に燃えさかる炭火をつまれているようなものです。

その悪事に報いて裁かれる日が必ず来ます。

その時には、この世で裁かれるほうが遥かに易しい事だったと後悔することでしょう。

その時には遅いのです。
神様信じていたら、悪を行っても天国に行けるのか?

神様は絶対にそんな不平等な事はなさいません。
必ず行いに報いる方です。

絶対に


この世でブログで曝されている方が遥かにやさしい事です。


これでもっと公になって行くことでしょう。

それが御心なのかもしれないですね。


人の生活、人生を奪いながら、平穏に暮らし続けられるわけがない。
その暮らしが変わらない限り、永遠に安息など訪れないのだから。

おまじない ケータイ投稿記事

昔通ってたカルト教会で教えてたおかしな事。

今でも何かあるとつい出ちゃう〜と妹が言っていた。
私も良く覚えてる。

「血潮充満、聖霊充満」
今考えると馬鹿馬鹿しくて笑えてさえくる。

これを祈るのだ。と言うか繰り返し唱える。
まるでおまじないのように。

暗い夜道も「血潮充満、聖霊充満」

家に帰ってきても「血潮充満、聖霊充満」

出掛ける時も「血潮充満、聖霊充満」


アホか!!って思わず過去に突っ込みをいれてしまう。


この言葉、本当に近付く恐怖に全く効果なし。

私は小さい頃から悪夢を見やすい子だった。
教会で教えてもらった「血潮充満、聖霊充満」を、夢の中でも使ってみた。
恐怖の対象は去ってくれない。さらに唱え続けるが、どんどん近づいてくる。
もう捕まるって所で目がさめる。体中汗でぐっしょり。

着替えをして、再び眠りにつくと、また同じ夢。
どうしよう…と悩みながらも、どうしても眠たい私は自然とこう祈る。

「神様、この悪い夢から私を守ってください。あなたの守りの中で安心して寝たいのです。あっ、それから明日も学校なので、元気に起きれますように」

そしたら、暗かった背景が真っ白になって、気付けば楽しい夢になってた。

何度か似た体験をし、自分でちゃんと祈った方が良いことに気付き、悪夢も見なくなってきた。

こんな話(夢の話)は、あんまり人にはしたくないですけどね。何故なら馬鹿にされるから。
クリスチャンですら疑いの眼差しになる。

それがわかるから、どんな体験も教えられた事も、人にはほとんど話さなかった。

カルト教会で証する場が何度かあったが、私は9歳から11年間、人前で証などする機会も与えられたことなく過ごし、他の人も証のない私の事をまるで祝福のない子のように見ていたと思う。

今思うと、それで良かった。チヤホヤされずに育った事が、今活かされているから。

話が脱線してしまいましたが、「血潮充満、聖霊充満」と唱える事を教えていると、聖書も口ずさむのが大事みたいに捉えてしまうように思う。

当たり前の事だけど、聖書の言葉はおまじないではない。
ビビデバビデブウみたいに祈ったら奇跡が!!って、そんなアホな話はない。


聖書が伝えたいのは、どんな心で、どう行動(生きる)かだと思う。

「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」
「あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう

同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。

良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます

こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです」

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」

「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。

雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。

また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わないものはみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます

雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家にうちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」
マタイの福音書7章12節〜より


そう言えば、カルト教会でもこの箇所をよく使っていたっけ。一部引用だったけど…。だから、説教が聖書とかけ離れて、意味のない言葉にしてしまった。
祈りや献金を強調して、それを「行動」にしてしまっていた。

どれだけの人がそれで苦しい生活をしてきたんだろう。


祈りだけでは解決しない事だって沢山ある。祈りは現状打破のおまじないではない。
しかし、行動なき祈りはおまじないと同じだ。


一時の平安を与えても、現状に留まるなら必ず繰り返す。
それは、気休めにしかならない。

どんなに語ろうが、心や行いが伴わなければ、それは真理ではなく、まやかしでしかない。


そんな教えをする人が、少しでもいなくなって欲しい。
本当に神様の事や人の事を考えられる人が、教える立場になって欲しいと心から思います。

「この人が牧師とかじゃなくて良かった〜」って思う、もっとアブナイ人もいるけど
私は聖書が神様からのラブレターだと信じてる1人です。

しかし、この聖書は扱う人によって他の人を躓かせたり、時には無意味に傷付けたりします。

ことばには力がある。
「初めにことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった」

私は、どんな人であれ、キリストを信じる者が聖書(御言葉)を否定するなら、それは神を信じていないと宣言してると思っています。

もし、それでも神様信じてると言うなら、聖書の読み方や捉え方を知らないとしか思えません。

私自身も小さい頃から通っていたカルト教会では、聖書の読み方を知りませんでした。

内容を読み深めるよりも、どれだけ通読しているかにしか意識を向かせられなかったからです。

社会人になって、県外に出て、そこで出逢った教会で初めて聖書の読み方を覚えました。

教えられたのはただ4つのこと。

気になる聖書箇所を見つけたら、

その部分の状況や歴史的背景を考察したり、調べてみる。

現代の自分や世の中においては、どう適用出来るのか考える。

さいごに自分に適用出来るように祈る。


同じ御言葉でも、人によって感じたことは違うことも多々あるので、批判はしない。それでもその人の成長に繋がるのであれば、反対に感じても受け止めること


ただ読み進めるだけじゃなく、考えながら読むのでペースは遅いですが、聖書を理解する力が身に付いてきました。
理解すると、神様の愛もよくわかるようになりました。

言葉の一つ一つが命の泉であることを、読みながら体験しました。


今は通っていないけど、そこでの出逢いには本当に感謝しています。


しかし、今思うのは、聖書が手元にありながら、言葉の理解がない人が多い事です。
正直ショックを通り越して、現状に落胆してます。

中には思い込みも激しく、聖書の意図している意味とは全くかけ離れた解釈や、意味のないものとして扱う人がいることです。

聖書の御言葉を引用するなら、その時の時代背景からどんな状況でその言葉が出てきたのか、しっかり読み取り、現代の今この時の状況にも当てはまるのかどうかを考えなければならないと思います。

ただ、方向は一つでは無いことも頭に置いておくことが大切だと考えます。

その良い例が、4つの福音書。
視点も違い、一見すると矛盾するような表現の違いがあるけど、ど真ん中の中心キリストについて外れてません。それどころかお互いに補足しあっていて、キリストの人物像などがよりわかりやすくなったり、情景が見えやすくなっていると思います。

他の場所も全く同じで、一部の書簡じゃわからない部分も、他の書簡が補ってくれています。

時代も場所もバラバラの人たちが、それぞれ受けたことを書き残し、それらがそれぞれ支え合って聖書として出来上がった。
しかも聖書になる前は、世界中に散らばっていて、新しいことを書こうにも、過去の文献など参照できない時代。

だから、聖書は神様からのギフトであることを疑いようがないと私は感じています。

その聖書の言葉は知ってる人なら最低限守るべきだと考えています。

何故、律法やこの世の法律が出来たのか?
そもそも、この答えが人の性質だとも考えています。

神様が何で細かくルールつくらなければいけなかったのか…。

神様の愛があれば、他の人にどんなことしたって神様ゆるしてくれる…そんなことは絶対ないと思います。

そんなわがままで、自己中な主張で人を振り回して、嘘をついて人を丸め込もうとしたり、忠告や助言を無視したり拒絶する人がいます。
酷い場合は、それらの忠告をコントロールだとか言っちゃいます。

正直、子どもを扱う仕事をしてる私からしたら、全然子どものようではなく、屁理屈でわがままを通そうとする厄介な大人。

子どもなら、悪いことしたら、注意したり、良くない理由を簡単に説明するだけで、素直に納得します。
私は、子どもの方が良いこと悪いことを敏感に心でキャッチできるからだと思っています。

それが子どもの純粋さで、イエス様が喜ばれる姿だと思います。

大人になるとそこは鈍感になる部分で、どうしても心よりも頭が先にきちゃうような気がします。
鳩のように素直で、蛇のように聡く

子どものように純粋に心で受け止める力と、冷静に物事を考える力が、本当に求められてる「大人」の姿ではないでしょうか?


律法や法律、ルールがなければ自分勝手で秩序が無いのが人間。

だけど、知ってて一定の秩序も守れないのは、人としてもうおかしいとしか感じない。

守れるか守れないかは、その人の心。

神様は人を上手く作ったなぁって今は感じます。

知識だけ蓄えても、心が伴わなければ上手く生きられないし、心が優しい人も知識を得なければ、罠にはまってしまう。

頭と心のバランスが大切。
そこから知恵(行動)が生まれる。


聖書もバランスよく読むことが大切。
歴史的背景、物事の傾向(流れ)、現在と過去の人間像なども…。

こんなに頭使う書物も他にないかも。
だから、神学があるのかな?

やっぱり聖書って大切!

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