つれずれなるままに。。。ユコンブの独り言

主に書くのは教会関係で、私がリバイバル教会で過去にあったことも書いています。日常もちょっとずつ書きます。

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10月になりましたね。沖縄は日差しは少し和らいだものの、まだまだ30度をこえる暑さが続いています。

最近、教会の問題を考えるときに思うことがあります。

どうして人はこんなにも悪に染まりやすいのだろうか・・。

どうして悪い父に見習うのだろうか。

子どもの教育を考えたとき、子どもの非行問題などに必ず親の影響が絡んでいることが、多々あります。

クリスチャンも同じです。
牧師の息子や娘ほど、非行に走りやすいとも聞いたことがあります。
でも、この話はリバイバル教会にいたとき、副牧師のもりとさんから聞いた話。

私がこのことを考えるとき、こう思います。

子どもは一番近くで親の本質を見れる立場です。親の背中を見て育ちます。
子どもが一番注目しているのは、いつだってお父さん、お母さん。
お父さん、お母さんが一貫した態度を持っている家庭は、とても安定しています。
親が揺るがないので、子どもも安心できるからです。

しかし、外と中の顔が2面性のある親ならどうでしょう?
外ではいい顔して、ニコニコしていても、うちに帰ったときに外での悪口ばかり言っている家庭。
又は、外ではいい人のように振る舞い、慈善的にしていても、家で間反対のことをしている親。

子どもは、大人が思うほど、無邪気に遊んでいるだけではありません。
親の様子をだれよりも観察し、その言動行動に反応しています。


信仰が正しく継承されないのは、親が一貫していないこともあるのではないかと思います。
特に、牧師職は人前で御言葉を語り、良い事を教える立場の人間です。人前での態度と、家での態度が変わらなければ、子どもはありのままで育つのではないでしょうか?信仰だってまっすぐ育つと思います。
人前で教えることには、内面も同時に備わっていることが大切ではないでしょうか?

現在、教師の質が叫ばれています。教員も更新するために講義を受け、テストを受けなければならない時代にもなりました。私の更新は29年なので、まだまだ先ですが。。
同じ教師としての立場である、牧師もちゃんと質を見直していただきたいものです。


母教会に至っては、主任牧師の儀間さんは、教師以前の問題であり、もうこれ以上弱い信徒さん達をコントロールし続け、信仰と人権の侵害することを一刻も早く止めていただきたいと思います。

もりとさんに対しては、特に思うことがあります。

どんな状況であれ、ヨナタンのようであってもらいたかったと。。

ヨナタンはサウルの息子の方です。
サウルがアマレクの家畜の良いものを聖絶することを惜しみ(富に目がくらみ)主から王位を退けられてから、ダビデが立てられた。
彼は次第にダビデを憎み、殺そうとします。
ダビデの友達であったヨナタンは、ダビデをかばいます。
その実の息子ですらもサウルは槍を投げつけて殺そうとします。
(サムエル記20章読んでみてください)

私は、いつもこの場所を見るとき思うのです。
正しいことを愛して、そのために命を失ってもと、富と安定を求めることを捨ててまで正しいことをちゃんと発信していく勇気が、もりとさんにあれば良かったのに。。
神学校を出て、神様の御心を学問で学び、また聖書も知りながら、どうして親の悪を責めないのでしょうか?どうして、親が横道にそれ続けるのを必死に止めなかったのだろうか?
そして、どうして親の道に習い正しいことを捨てて悪の道を歩むのだろうか。。
何も知らない信徒の前では、穏やかな表情とへつらいの唇でよい人を演じ続けても、一番近くにいる子どもはよく見ています。

子ども達に本当に尊敬される親になって欲しい。
子どもに一貫した態度を見せられる親になって欲しい。

子どもを見守る立場の人間として、心からそう思います。

お久しぶりです。更新できなくてごめんなさい。9月は忙しいので、運動会が落ち着いた頃に、少しずつ再開します。


過去、私が目撃した事を書きます。

2005年8月のことです。
私は仕事の夏休みを使って沖縄に帰ってきました。

教会の問題が起きて半年もたっていない時です。このときは裁判も起こっていません。

まだなんとかなるはずと甘い考えを持っていた私は、家族ももう教会に行っていないのに、2、3度足を運びました。

明らかに前と変わった事がありました。

一番衝撃だったのは、駐車場の閉鎖でした。
短大時代は、友達と出掛けるときに、教会駐車場に車をとめて、誰かの車にみんなで乗って遊びに行ったりするくらい、いつでも駐車場は空いていました。

しかし、2005年8月に見たときは、いつも利用していた第二駐車場にロープがかかっていました。
入れないと分かったので、教会の地下にとめようと教会まで来たら、地下に行ける入り口は門が閉じられていました。

とめられるのは、教会前の一階駐車スペースのみ。

喫茶店の為になるべく教会一階駐車場は使わないようにと言われていたので、あまりにもインパクトが強くてショックでした。

まさか営業妨害などと夢にも思っていなかった私は、この教会の状態を理解できませんでした。


もう一つ理解出来なかったのは、大人の態度。明らかに知ってる人なのに、声をかけてもこないし、遠くから知らんぷりして様子をうかがっている。一瞬はっと気付いても、次の瞬間は目をそらし、別のところを見てる。


教会の騒動の時に、中にいた人の状態を聞いていた私は、もっとひどい態度も想定していたので、さほど衝撃は受けなかったのですが、やはりクリスチャンとして、とても情けなくなりました。

この時に感じた事は色々ありましたが、私は盛人さん(当時はもりとにぃと呼んでました)に大きく2つだけお願いをしました。

教会の土地のことをちゃんと誠意を持って正しく扱うこと。

リーダーたちの健全な育成

この事は過去の記事にも書いています。


今は簡単にまとめられますが、この2つの願いを、言葉足らずなりに必死に伝えました。

あれから4年たちました。

あっと言う間に時間は過ぎていきます。
4年もあったのに、なんで和解すらしようとしなかったんだろう。
うえずさん達はちゃんと話をして解決したいと願って、動いて来たはず。

それを跳ね返し、悔い改めずに悪いことを繰り返して、挙げ句の果てに裁判で土地まで奪って。。

なんで嘘までついて勝とうとするの?
純粋に聖書を守る人は絶対嘘が付けるはずがない。
その気持ちにどれほど付け込むの?
それが聖書でいう勝利?
全くかけ離れてる。

むしろ強盗、強奪にしか見えない。

狼が聖書持って、白い衣きて、表向きは羊のリーダーしながら、次に食べられそうな美味しそうな羊を舌なめずりしながら見てる。

ガリガリに痩せた羊は外に蹴飛ばして路頭に迷わせ、反抗した羊はみんなの見せしめにして傷つける。

これが教会の羊の群れの在り方なの?


早く狼が支配する教会がなくなってほしい。
神様がこれ以上悲しむのも、傷付く人が増えるのも、見たくない。
もうこれ以上嘘ついて暴走しないで。

対話ができる幸せ

昨日、沖縄の牧師さんの一人にお会いして沢山お話してきました。
3時間ほど、お茶とコーヒーを飲みながら、ゆったりしながらも沖縄の教会のこと、問題のこと、真剣な話も沢山できて、とても充実した話になりました。

今まで、残念なことにここまで質疑応答ができる牧師に沖縄では出会ったことがありませんでした。
牧師だ!って上目線でもないし、目線を同じようにして話してくれる姿勢にとても誠実な印象を持ちました。
人としてとても信頼できる先生だと感じることができ、感謝でした。反対意見も、率直に話してくれたり、プロテスタントの歴史やキリスト教の歴史の話。ヘブライ語やギリシャ語の聖書も見せてくれて、本当に楽しくてあっという間に時間が過ぎてしまいました。

この聖書が自分の力で読めるようになったら、とっても楽しいだろうな〜。そう思いました。

この先生は、中部の教会の先生で、崎原さんという人です。

とても気さくで、誠実で、勤勉で、聖書の解釈も分かりやすく、こんな先生の教会に集う信徒さんは幸せだな〜と感じました。

私の聖書の解釈や、信仰についての話にも先生は同じ感覚を持っていてくれました。

希望教会では、教会の情報はすべて開示して信徒さんの目に触れることができるようになっていました。
教会のこと、キリスト教界のこと、何一つ隠されることはありません。
信徒が自分の力で考えることができるのです。


崎原先生は、教会の被害者の人の声に耳を傾けてくれる、沖縄に数少ない牧師です。
被害者の話を聞きながら、よく吟味し、どんな感想でも率直に話してくれます。
それが時には被害者にとっては不満のある解答かもしれません。
でも、話していて感じたのは

あくまで話し合いで解決できる状態なら、話し合いが一番望ましいのだということでした。
全く聖書的で、同感。

聖書が出来たときは、各国の信徒らが協議し、様々な事柄を審議していた時代があって、そのときの議事録とかにも異端の基準を決めたりとかできたのだと。
しかし、次第にローマが力をつけてきて大きな影響を及ぼすようになったから、ローマ・カトリックが自然と権威を持ち、キリスト教界にも大きく影響を与えてきたのだということでした。
歴史から、今の教会の状態も学ぶことができました。
一見自由がないように見える厳粛な教会も、それが自由をもたらした時代もあったのだということも知ることができました。

神学ってとっても面白いです。

今の教会はそれぞれがバラバラになってしまっている。プロテスタントは言ってみれば新興宗教の集まりみたいなものだともおっしゃっていました。400年の歴史しかない弱さなのだと。歴史ある教会の強さは、方向転換がしやすい。
今のプロテスタントはかつてのカトリックの時代と同じ状況だから、その歴史から学ばなければいけない。

全く同感でした。


また、先生が言ってた悲しい現実は

他教会の被害者で話している人は何人かいるけど、対話ができない人が多く、
「結局は沖縄の牧師はダメだ。」
と、2度会うことはなかった人が多いとのこと。

クリスチャンだけではないと思うが、しっかりとしたコミュニケーションがとれず、自分の意見が否定されたと思うと、一気に反対側の人間として扱われることが多々あるということでした。

自分が善だと思い込むことで、他者を排除する姿勢の方はちゃんと話が出来ないと。。だから、そう思ってはいけないよ。とのこと。そのとおりです。

善か悪か、敵か味方か。。この思考になってしまう人は確かに対話が出来ません。


昔、ある仏教系の新興宗教の勧誘を受け、話を聞いたときも、疑問や質問を投げかけ、答えられないと
「でも、これが正しいんです。信じなければ極楽浄土には行けません。」

それしか答えられない人がいました。


どんなことでも対話が出来ることは幸せなことです。どんな人か知るきっかけになります。
じっくり時間をとって話さなければ、人は分からないのです。

反対意見を言われたから、意見を否定されたから、その人は嫌い。
そんな人は、よくよく相手の意見を聞く耳を持ったほうがいいと思います。

ちゃんと議論が出来ることも、とても良いことです。

一番、やっちゃいけないのは対話をせずに人の人格を決めてしまうこと。それを否定したり中傷することです。関わらなければ他者を理解することなど出来ません。


対話が出来る人になりましょう。忍耐して耳を傾け、しっかり吟味できるような姿勢でいましょう。

対話が出来ることは、とても幸せなことです。
対話が出来ることは自分の知識、経験の宝になります。
人と向き合うことを恐れないで、どんどんぶつかってみても良いかも知れません。

話すことって楽しいね!!

信仰とは? ケータイ投稿記事

「心を尽くし 思いを尽くし 力を尽くして 主を愛すること」

信仰という言葉を聞くと、一番に浮かぶ御言葉です。

教会に行き始めたのが9歳の冬、洗礼を受けたのが中学に入学した春(リバイバル教会は中学生以上から洗礼を受けられます)。
私は教会に通い始めてすぐに神様を受け入れたので、クリスチャン生活を始めてもうすぐ17年経ちます。

クリスチャンの質は信仰の長さでは無いことは、小さい頃から理解してました。
何故なら、信仰歴が長い人でも、子どもの私が目を疑う信仰者が結構いたからです。

あの時は、あまり大人になんてなりたくなかった。

そんな私も二十歳になり、短大を卒業して、心理学を学ぶために東京に就職を探し、勉学と仕事に追われる生活になりました。

社会人1年目にして文化も生活スタイルも全く違うところで暮らすのは、とても労力を伴うもので、精神と肉体を大変すり減らしました。

その中で、神様がいるから私は生きていけるのだと何度も実感しました。
仕事でどんなに疲れても、当時通っていた教会に行くと、疲れも吹っ飛んでしまうくらい礼拝に行くことが唯一の楽しみになっていました。
日曜日が待ち遠しくてたまらないくらいドキドキするのです。
ニューホープ インターナショナル フェローシップ というハワイの教会の枝教会です。
最初は東京(御茶ノ水クリスチャンセンターにて礼拝)、その後開拓直後の横浜の方に携わりました。

この教会で私は造り変えていただいたと言っても過言ではないくらい、沢山の事を学び、成長することができました。
それまでの11年間の信仰生活は何だったのかと思うくらい、沢山のギフトを神様にもらいました。

教会で証とかもしたこともなく、人の前に立つことさえなかった私が、子ども達に聖書を教える役割を与えてもらいました。
そして、メッセージをつくったり、聖書を深く読んでいくうちに、今まで感じたことがない感覚を味わうことが出来ました。

子ども達のメッセージをつくっている間も、喜びが湧いてきたり、聖書を読むとその世界に引き込まれるような感覚もありました。

その時のT先生のメッセージで

「信仰とは、神様と恋におちることです」

その言葉に不思議な感じがしましたが、納得。とってもロマンチックな表現ですよね。

ダビデの箇所を読むときさえ、ダビデの神様に対する思いにすら、ちょっとヤキモチが出てきてしまい、ダビデと代わりたいくらい神様が大好きになってる自分がいました。

これこそ神様との関係を個人的に結ぶ事なんだと実感。

この頃から私の行動にも変化が起こります。
初めてお目にかかる人には自分から関わる事は、それまであまりありませんでしたが、気付けば自ら人を歓迎し、もてなしていました。
周りの人のおかげもあり、愛をお互いに実践していくことも具体的に学び、体験しました。

行動とともに、より深く聖書が理解できるようになりました。

「教える人がいなければどうやって理解できましょう。」

私自身も知識は少なからず持っていました。
しかし、実践の仕方も分からず、周りにも見本となる人がいなければ、結局何も出来ず、知識の持ち腐れでした。

実践してる姿を見て、感動し、その行動を真似することから始め、次第に思いと行動の一致による心地よさと、そこから知恵を得ることができました。

神様は人を通して技を成される。

奇跡とか、大きな神体験が重要なのではなく、お互いに愛し、励まし合うなかで神様の愛がはっきりとわかり、本当に神様の愛が流れていくこともしっかり見ることが出来ました。


よく信仰者の中には、「地獄にいきたくないから信じた」という人がいます。
きっかけはそれでも良いかもしれません。

しかし、キリストの十字架の犠牲の重さは、本当の愛を心から理解しなければ、本当の意味で信じることは難しいと思います。

また、信じさせるために最初から天国と地獄を教えるのも、今となっては、本当の神様の愛を伝えるには害となってしまっているのではないかと感じます。


信仰の芽生えはとても大切な瞬間。
それを愛の中で成されるのか、恐怖を植え付けて信じさせるのか…。
これは、すでに信仰の土台が全く違うものであり、そこから育つ信仰にも大きな差が出てくるでしょう。

種をまくものは、良い種の蒔き方を考えなくてはいけないと思います。

何のための種まきなのか、どのように蒔くのか。

そこから信仰の芽生えに影響がでます。
生半可な気持ちでは、良い種まきなどできません。

教師の裁きが何故厳しいのか。
それは、しっかりと良く教える責任を果たさなきゃいけないからです。

それを怠ることは、多くの人を結局は神様から離してしまうでしょう。

最後に、私の信仰を磨いてくださった神様と、きっかけになったT牧師、その家族、ニューホープの教会員に心から感謝します。

こんな教会が沢山溢れてくれたら良いのに。

最近のうえずさんのブログに飢餓対策機構の詳細を見て、かなりショックでした。
それと同時に、過去に行われた寄付等で疑問に思っていたことを思い出しました。

沖縄リバイバル教会が、浦添に会堂を建て、そこで礼拝が行われるようになったばかりのころ、地域の人に来てもらいやすいようにと「リバイバル祭り」を開催しました。

その収益は、寄付にあてるということでした。
利益が困っている人の為になる!本当に良いことだ!

私もその活動に携われることを嬉しく思いました。

リバイバル祭りが終わってしばらくした後、母子家庭支援団体にその収益が寄付され、新聞にも小さくではありますが載っていました。

しかし、私はその額に驚きました。

「えっ、10万円!?」

思わず副牧師の盛人さんにも、言いました。

「あれだけしか寄付出来なかったの?」

盛人さんの答えは
「赤字になっているところもあったからさ〜。」

その時はへぇ〜、そうなんだ〜。と納得してしまいました。

しかし、東京に出て教会付属幼稚園に勤め始めたころ、週報の中で他の団体への寄付の詳細にかなりの驚きを感じました。(初めのころは、週報というのも見たことなかったので、これにもビックリでした)

2箇所に寄付がされていたのですが、(どこかはその時の週報を処分してしまったので忘れました )
1箇所は20万
もう1箇所は30万円
合計して50万円。

この額を見て、「この教会の財政、大丈夫なの!?」
とても心配になりました。

いくら幼稚園を経営してても、宗教法人であり学校法人も取得しているので、利益がそこまであるはずなく、(園児も60名満たない小さな園です)礼拝出席者数は、毎週平均10名ほど。
10名に満たない時もたびたびありました。


対する沖縄リバイバル教会は、大人だけで500以上の礼拝出席者数。単純に見積もって、50倍は慈善活動にあてられるはず。

リバイバル教会の基準で見たときは、この教会の心配になりましたが、逆に考えると、リバイバル教会が有り得ないくらい慈善活動をしてないことにも気付きました。


これはとてもショックでした。

日本一の教会、祝福された教会と聞かされていたのに、実際は、こんな小さな教会の方が喜んで神様の為に犠牲を払っている。。

一体なんなんだ!?


私が母教会を恥じる
理由になった一つの出来事でした。


他にも、ホームレスの方への対応など、上野公園で100名以上のホームレスに給仕活動をしている教会もありました。
休日に、お付き合いしている彼と上野動物園へ行ったとき、ホームレスの方が長い行列を作りながら、メガホンで礼拝している姿も目撃しました。

はっきり言って、信徒数はリバイバル教会よりもはるかに少ない教会ばかりです。

このことから、沖縄の教会よりも、本土の教会の方が素晴らしい働きをしているように感じました。

沖縄のクリスチャンより、本土のクリスチャンの方が聖書的な人が多いようにも感じました。


外を見て、初めて自分の教会の状況を把握出来たのです。


最初、東京にきたばかりのころは、どこの教会だったの?の問いに対して、
「沖縄リバイバル教会です」
胸をはって答えていた私がいました。

しかし、次第に教会の実状がわかってきたころ、母教会の名前すら出したくない自分の姿に気づきました。
相当恥じていたのです。


私が、教会が変わって欲しいと願うようになったきっかけです。

裁判になってから、報告もしてなかった寄付の領収書の提出と、信徒に報告していたと、よくも言えたものです。2004年の3月までは私も居ましたが、全く聞いたことありません。聞いたら絶対疑問に思っていたはずですから。

早く原本が公にでることを期待します。

私も裁判資料を少しずつ閲覧させていただきます。

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