つれずれなるままに。。。ユコンブの独り言

主に書くのは教会関係で、私がリバイバル教会で過去にあったことも書いています。日常もちょっとずつ書きます。

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カルト化による被害

カルトの問題、「マインド・コントロール」について。

心理学の分野だけあって、沢山の研究論文や資料があります。

マインド・コントロールは集団心理を利用した心理操作です。

様々な文献がありますが、牧師さんが書いている文献をいくつか読んでいます。
以前紹介していただいたサイトもとても参考になっています。その中でも、日本同盟基督教団伊那聖書教会の大杉 至牧師のブログが一番簡単で分かりやすかったのでちょこちょこ引用していきながら書きます。

マインド・コントロールがカルト化をより強めていくのには、いくつかの条件があり、その中でも非常に重要だと思われるのが、「傍観者」の存在だそうです。

集団には必ず傍観者がおり、何もせず、手も口も出さず見ているだけの人のことです。あるいは見て見ぬ振りをしている人です。
彼らは一見、中立的な立場に思われ、当事者になんの影響も与えないように思われるが、実際は違う。
支配従属関係にある当事者に対して、傍観者の存在はその支配従属関係を強化する方向に働く。
傍観者は黙認していなくても、黙認しているように映ってしまう。

この傍観者の存在がいじめを生むのだそうです。
問題を解決するキーワードは、傍観者だといえる。とのことです。

何か、問題が起こったとき、人は自分に関係なければできるだけ関わりたくないというのが本音でしょう。
実際に研究された事例の中でこんな記事がありました。

「道で突然心臓発作で倒れた時、発見者が一人なら助かる確実は80%、しかし複数になると、一気に30パーセントにまで落ち込んだという結果があった」

現在、集団生活などで起こる社会問題、いじめや洗脳、マインド・コントロール。人が人の心を踏みにじるようなことは、周りにいる人にも大きな責任があるのです。

現在はいじめですら声を上げる大切さを社会は気づいています。

どうして教会では、それが出来ないのか。
カルト化の原因は一信徒にも問題があるのです。

傍観者を生む心理は以下の3つだと考えられる。

・多元的無知・・・他者が積極的に行動しないことによって、事態は緊急性を要しないと考えること

現在、リバイバル教会の中にいる信徒は、裁判に対する認知や問題に対し、とても軽い認識しかしていません。よって、この多元的無知の心理状態にあります。

・責任分散・・・他者と同調することで責任や非難が分散されると考えること。

自分が、違うことして万が一責められたくないのです。周りにいる人に合わせています。

評価懸念・・・行動を起こしたとき、その結果周囲からのネガティブな評価を恐れること。

これは、ネガティブな意見でなくても、自分の思いや意見と反対だと感じると、勝手に否定的な意見だと捉えてしまう状態の人が多いですね。


しかし、この心理状況クリスチャンとしては打破しなきゃいけない心理状態ですね。
愛を基本にしているはずなので、このような心理状態は隣人愛精神に反します。


カルト化の被害

・非難、制裁、いじめによる肉体的精神的苦痛
・特に排斥(はいせき)の恐怖による心的外傷
・個人と組織の葛藤によるストレス性障害
・社会不安障害
・人間不信
・信仰の破壊
・精神の退行
・家庭の崩壊
・近隣トラブル
・性的逸脱、暴力、金銭問題


被害を見てみると、物質的な問題より精神的な被害が多いことに気づきます。
カルトの問題は、精神の破壊です。私はこれを心の破壊、心の殺人だと思います。
実際大怪我をしても、数ヶ月で癒されることが多いのですが、一度心の病になってしまうと、何年も下手したら何十年も病気と向き合わなければならない状況になってしまいます。

心が壊れてしまうので、周りから見たら、キチガイや精神異常者に見えます。
なので、教会は追い出した人を、
「悪魔にやられて頭がおかしくなった」
そう言えるのです。
これは、本当にひどいことだと思います。

殺してはならない。

十戒の一つですが、キリストが姦淫について、思いの中でもそのようなことが罪であることを解いたように、心の部分においても「殺してはならない」が適応されていると思います。

一人の人の、個性も思想も壊され、考える力が奪われ、別の思想をそのままオウム返しのように植え込まれてしまうことが現在のカルト化による心の殺人です。

これを人として許してはいけません。

放っておいてはいけません。

今、子ども達は夏休みに入っているため、私達職員は2学期の準備や研修の毎日を過ごしています。
研修の中で若手職員研修というものがありました。

学校の先生は、社会的常識を身につけた人である。
1年目だろうと、ベテランだろうと関係なく、同じように社会的常識を備えていなければならない。
とのことでした。

社会的常識っていわれても、ピンとこないかもしれませんが、研修では分かりやすく教えてくれました。

社会的常識とは、
「優しさ、気配り、思いやり」とのこと。
これが身についていることが、社会的常識のある人ということです。

私は、東京の教会に行ってる間、この社会的常識に対し、とても感動していた人間です。
人として当たり前の事なのに、私はそこに愛を感じました。
とても、温かさを感じました。それ以上の本当の愛にも気づき、驚きました。

リバイバル教会にいる間、私は本当の愛が分からず、苦しみ、祈り続けていました。
教会の中にいる人間より、外にいる人のほうが優しい人が多かったことにも疑問を感じていました。

熱心に祈っていたかといわれたら、熱心どころじゃないくらいの時間、神様に心のすべてを注いでいました。
授業の合間の異動時間、友達の会話にあいづちを打ちながら祈り、ひとりになったら、短大の附属のチャペルに行ったり、バイトために移動してる車の中でも、バイトが終わって家に帰るまでの間も、とにかく自分の時間ができれば、神様に心を向けていた自分がいました。

沖縄にいる間、私は他の教会を知りませんでした。
リバイバル教会でしか育っていなかったので、その環境が当たり前だと思っていました。
しかも、「他の教会は自由がないよ」「もっとダメなこといっぱいあるよ」等を言われて育ったので、他の教会には興味を持てませんでした。

東京に出て、他の教会を見る機会ができ、そこで私はすばらしい教会を見つけました。
リバイバル教会にこの教会の素晴らしさを持ち帰りたいとすら思いました。
リバイバル教会を変えなければいけないと感じました。

同じ教会でも、天と地ほどの差を感じ、私は自分の母教会を恥じるようになりました。

それまで、日本一の教会であると他教会の牧師の説教をも鵜呑みにしていました。
とんでもないことです。

東京での信仰生活も楽しくなり、私は自分らしく振舞うことが怖くなくなりました。
自分らしさを認めてもらえただけでなく、私の個性を素晴らしいと親しくしてくれる多くの人がいました。

ある日のこと、沖縄にいるときにリバイバル教会にミッショントリップに来てくれていた一人の友達がこう言いました。
「裕子は人見知りすごかったよね?最初の印象と東京に来た時の裕子は全然違うよ。沖縄で最初見たときは、つんつんしてる印象があったけど、緊張してたの?」

私は、当時東京に行くことを決めたばかりで、それとタイミングよく彼らが沖縄に来ました。
彼らの姿を見て、東京の教会は絶対ここだ!!
そう決めていたので、彼らのことをもっと知りたいと思い、少しずつ仲良くしようとしていたのですが、まさかそんなふうに映っていたとは思わなかった。

内心ちょっとショックでしたが、彼が何気に教えてくれたことで、私がどれだけ自由でなかったかを知ることができました。

つんつんしてたって、、せっかく来た人に対して非常識な態度ですよね。
社会的常識以前の問題です。でも、それが周りの大人達だったので、意識すらしていなかった。

リバイバル教会にいる間、私は大人に魅力を感じませんでした。

尊敬できる人もいませんでした。

その大人たちに冷たい態度をとられる私なんて、もっとダメな子だと思っていました。だから、非難されない信仰を求めました。聖書も誰よりも理解しようとしました。

神様に、どうして私をこの世に生まれさせたの??と問いかけることさえありました。

いっそはやく神様のところに召されたいとすら思い、神様にはやく迎えに来てと泣いて祈ることもたびたびありました。
同世代の子は、私のことをとても強い子だと思っていました。

私には弱さを出せる場所がなかった。

私は弱いと言っても、信じてもらえなかった。弱さを出せる友達は、クリスチャンにはほんの一握り。むしろ外の友達のほうが多かった。
教会の中でも受け容れられない私は、外ではもっと受け容れられないと思っていた。だから、友達は今だけの友達だと思うことさえありました。
どこにいても強い子、優等生、真面目。家の中が唯一そんな自分を壊せる場所。

母や家族は、家では何も出来ない私が、外で受ける評価を信じがたい様子でした。バランスをとるかのように、本当に何も出来なかった。

東京で一人暮らしするのも、母は反対でした。
「東京で、アナタは一人では生きていけない!何も出来ないじゃないか!」

あのときの母の心配が今では理解できます。

私は、東京に出たことがきっかけでリバイバル教会を離れましたが、本当に良かったと思っています。
中に居続けたら気づかなかったことが、沢山あるからです。
他の教会も見ることが出来て、本当に良かったと思います。
中にいたら本当の愛も、本当の信仰の姿にも気づかなかったからです。

私達姉妹は今、社会的に教育者として貢献しています。
私は幼稚園で、子ども達の将来を背負う責任ある仕事をしています。
妹は高校教諭として、社会に出て行く子ども達の教育にたずさわっています。
弟は、地元の国立大で経営学を学びながら社会人としての教養と知識を積みあげています。


リバイバル教会にいるときは、日曜学校の奉仕に誘われたとき、子ども達の人格形成に関わる責任の重さを短大で勉強していたので、自分にはとてもムリだと頑固に断っていました。

東京(横浜)の教会では、気づけば子ども礼拝のメッセージまで作っていました。
神様は私の能力を教会でも、社会でも生かしてくださっています。

リバイバル教会では出来なかった体験を沢山経験しました。
奉仕の喜びを心から感じることが出来ました。
神様に仕えることがどれだけ楽しくて幸せなことなのかも実感しました。

私は、今教会に行っていませんが、昨日初めてお会いした人にも驚かれました。

「教会に行ってないんだよね?聖書も教えてもらっていないんでしょ?どうして、そこまで強い信仰が育っているの?どうしてそこまで聖書を理解してるの?あなたのやり方教えて!」

きっかけは東京に出て、そこの教会で学んだことです。

聖書を読むのが楽しくなり、その言葉一つ一つにときめく自分がいます。
祈りが、意識しなくても神様に向かいます。
どこにいても神様が一緒にいてくださることを感じます。
御言葉が泉のように、必要なときに頭に思い起こされます。

今まで品行方正にしていても、誰よりも世の中のものに染まらなくても、リバイバル教会では私の個性を認めてもらえなかった。逆に、少しの欠点すら許されないように感じていた。

だから、言えるのです。私は本当の自由を神様に与えてもらいました。
本当の信仰を神様にプレゼントしてもらいました。
弱さの中で働く、本当の強さを得ました。
神様からの沢山のプレゼントは、決して信仰生活だけに適応できるものではなく、世の中の沢山の人の助けになるものです。
社会においてもとても尊いものです。
それをちゃんと使えることが、信仰者の行いであり、社会的にも人格者として認められ、世の光として証できるのです。

信仰生活において、社会に適応できなくなることはとても証になりません。

だから、はやく本当の自由を取り戻して、目を覚ますことを祈ります。

教会の問題の本質をちゃんと理解しなければいけないと思い、最近ちょくちょくマインドコントロールについてお勉強しています。



教会に原告側が訴えていたことの本質は、裁判の請求とは異なることもありますが、最初に教会に訴えてから、裁判までの経緯での営業妨害や人権侵害に相当する信徒らの暴力的行為(器物破損等や暴言等)や、教会側の話し合いや和解の拒否、除名問題等(順不動)、様々なことが次々起こったため、原告側の損害は多大でありました。

牧師に意見をすること(牧師にとって都合が悪い話を他の人にすることも含め)によって、意見した人を威圧するようなことを牧師に近い信徒らが、これまでも行ってきました。

私が親子共に親しんでいた元教会員のSさん家族(欺事件の際に意義を唱え、会堂献金の返還請求をした方)も、他の信徒らに嫌がらせを受けたり、精神的な打撃を与えられ、教会から排除されました。

このように今まで教会内は閉鎖された空間の中、問題はもみ消され、それを正当化するための嘘をつき、悪いことを意見した人を悪魔が支配したなどと問題の転化はこれまでも行われてきました。

リバイバル教会はこのような歴史をこの十数年という短い間に何度もくりかえしてきました。

もはや、教会内での解決など皆無な状態。沖縄の他教会の牧師はこの状況を知ってか知らずか、間に入ることさえしなかった。
もはや、教会、キリスト教界内での解決など、ムリ。
苦しみの中で、裁判という方法を選ばざるをえなかったのです。

これまで、このような善悪も分からず、簡単に人を傷つけられるような信徒のことを、盲目な人という表現をしてきました。

それは、私自身がまだマインドコントロールについて知識を知らなかったからです。

この教会の最大の問題点は、
このような心理状態の信徒を作り上げるということが、どうして起こるのか?
なぜ、あんなに沢山の人間が集まって様々な人がいるはずなのに、思考が一致するのか?
そしてその人格は最後にはとても悲惨な状態になっていってしまっていることなのです。

私は、思考は人それぞれで、いろんな考えが存在するのが人として自然な姿だと考えます。
それぞれ個性は違うけど、神様を信じ、神様に目的を持って創られている。そして、人は神様に愛されているんだという意識が一致することが、信仰による一致だと考えます。

しかし、リバイバル教会の中の人で一致してるのは、思考回路なのです。
牧師がすべての祝福のとおり管。牧師の都合の悪いことは、すべて悪霊、悪魔の仕業。
教会から離れる=神様から離れる。
教会と反対する人間とは交流するな。

この考えは、一つも信仰に基づいていません。
どうして、神様を信じ、信仰生活を過ごす場所であるはずの教会で、本当の信仰が育たないのか?

信仰以前の何かが無いわけがないと考えざるをえません。

勉強をしながら、私自身が受けたことにあてはまる事例や記述があり、とても驚いたのです。

詳しく書きたいのですが、長くなってしまうので、また別で書きたいと思います。

簡単なマインドコントロールの説明
「破壊的カルトの問題は、社会心理学の説明課題」静岡県立大学・西田公昭博士 より

「マインド・コントロールとは、一言でいうならば、本人の認識や承諾のないところで他者が意識を操ってしまうことだ。それによってテロや収奪、家族破壊といった社会的軋轢(しゃかいてきあつれき)を引き起こしてしまっている当該の行為が、自己利益のためではなく社会(教会、神様)にとって『真の善』であると正当性を認知してしまうところにある」

自分の考えが、マインド・コントロールによって、そのコントロールする権威者にとって都合のよい考えがたや思考に変えられてしまうのです。

びっくりですね。しかも、手法も驚くほど簡単なものばかりでした。
心理学を勉強してる時、催眠療法の授業で先生に言われたのを思い出しました。
「催眠にかかっている間はかけられている人は意識もある。だからかけられる人にとっても怖いものでは本来はない。自分がかかりたくないと思えば解くことも可能。催眠療法は押さえ込んでいる意識のふたを催眠によって外してあげて、そこから問題を掘り下げて根本の解決のために有益。
でも、使う人間は人としての倫理や常識、使う人間の性質が問われます。なぜなら、この催眠は悪用することも可能だから」
とのこと。

心理学を知ってる人間なら、人の心を操るのも可能という結論です。

どういう手法で、マインド・コントロールが行われるのか、まとまり次第記事を書きます。

妹の体験を話したいと思います。

私の妹は、ユースでも歌ったり司会をしたり、教会でとてもよく活動していました。

東京で離れている私でも、その様子が伝わるくらい、色んなことを楽しそうに話してくれました。

2005年の年始め、教会ではアメリカのメガチャーチを見に行こうという話があがっていたらしく、妹も悩んでいました。

私は、アメリカの教会を見る前に、日本にある良い教会を見た方がいい!と、当時通っていたニューホープを推薦しました。

アメリカは高くて行けないけど、東京だったら行きたい!

そういって、私達が弟のように親しんでいた教会の子、Y君も妹と一緒に来ました。
2005年の3月

東京に来た彼らは、約一週間滞在し、その間にニューホープ、ニューホープ横浜、また、ニューホープの副牧師たちがそれぞれ個々に行っている集会(イベント)にも参加しました。

感想は、
こんな楽しい教会良いね!
教会の集会ばっかり連れて行かれるのは嫌だと思ったけど、こんなのだったら別にいいさ〜。

当時高校生のY君もそう言って楽しそうに過ごしました。

そんな一時も終わり、沖縄に帰って行った妹とY君。


そう時を待たずして締め出し集会の勃発。

妹や母から私にすぐに連絡が入り、この集会の内容に心を痛めました。
何人かの現役信徒(ユースの人)にも電話して話しました。
とにかくわけが分からないままビックリして恐れがあるのは感じました。

母は締め出しがおかしいと抗議し、中に入れてもらった人なので、他の信徒から見たら要注意人物です。
私の妹も集会の途中で聞くに耐えられない内容だったため外に出てきました。
その行動は、すぐに周りに伝わりました。

Y君は当時、ずっと妹についてきていました。彼の母親は中にいたけど、彼も最初、中に入れてもらえなかったのです。

彼は母親から、真実ではないうえずさんの話を聞きました。
「うえずさんは、教会から、K君(息子)の高校の入学金とか学費も出してもらっているんだよ!」
「うえずさん達は、教会にとってもお世話になっていたのに!」
念のためもう一度言っておきますが、事実ではありません。

まだ高校生の彼は、母親の話がよくわからず、混乱しながら私の妹に訪ねました。
「ねぇ、お母さんがこんな話したけど、これって本当?」

妹は、
「その話が本当かどうかは今は関係ないでしょ?
今は教会の土地の話のはずだよ。
山田さんがうえずさんに話したこと、うえずさんが教会に訴えてる内容、私達は直接聞いたさ〜。
それが本当かどうかなんじゃないの?私はうえずさん、山田さんの話は嘘じゃないと思う。Yも聞いたでしょ?自分でよく考えてごらん?」

妹は彼へこう返したのでした。

しかし、その後、Yの母親であるIさんから妹に電話がありました。
内容は
「もうYと関わらないで!連絡もしないで!
Yをたぶらかして引きずり込もうとして!
クルサリンドー!!(沖縄の方言で、ぶっ殺すぞ)」
(沖縄の方言で同じ意味のシナサリンドーがありますが、クルサリンドーの方が本気度アップ。恐怖を感じます)

いきなり罵声を浴びされた挙げ句、ののしられ、妹は呆然としました。
今まで親しくし、家にまで出入りしていたほど仲が良かったのに…。

Yは母親の様子を目の当たりにして、深く傷ついたでしょう。
すぐにYから妹へ電話がかかってきました。

「Mーごめん、お母さんのことだけど…本当にごめん……ひどいこと言って……」

妹は
「何で?Yが謝ることじゃないよ?気にしないで」

「でも…ごめん…。」

何度も謝るY。

気にするなと言われても、彼にとっては実の母親。

メールでも
「本当にごめん。」

そのメールを最後に彼からの返信は無かった。。



この話を、妹にされたときは本当に胸が張り裂けそうでした。
親が盲目すぎて、善悪の判断も出来ず、今まで付き合ってきたはずの人の人格まで簡単に否定し、いきなり180度人間が変わったかのように反対側と判断した人を切り捨て、排除しようとする。

子どもが一番の犠牲者です。
自分の親がこうだったら、私でも教会の人間を信じられなくなります。

この事件を通して、私は実をよく見ることが出来ました。

少なくとも、リバイバル教会にあの時から残っている人間に人としての魅力など感じません。人格的に尊敬出来る人も、もういません。離れています。
「実」というのは「実の質」。

「実」が世において光になるのなら、少なくとも、人間的な魅力(人柄や振る舞い、言動におけるもの)を人は見ることを理解しなければいけません。

子どもの視点はあくまでこの人柄などをもとにその人を判断しています。

私は中の「実」を見て判断しました。

悪い実なら、枝も、木も悪いのです。

よってキリストを木として繋がれていないことが、よくわかりました。
光すら放っていません…。

では、キリストに繋がれていないなら、どこに繋がっているのでしょう?
自分の頭でちゃんと考えなければいけません。

ちゃんとキリストに繋ぎ直されることを願います。


妹が記事にするのを許してくれたことを感謝します。
彼女は、事件を通して、親ではなく、自分の意志で教会を離れました。

彼女の主張はこうです。
「(いじめに例えて)教会でいじめがあるのに、その主犯でもなく、考えに賛同してなくとも、あの中にいるだけで、もう同類。私は同類と扱われたくないし、仲間にもなりたくない。だから教会に行かない。」

それでも信仰は捨てていません。
私達家族は、教会には行っていませんが、神様を信じて歩き続けています。

苦悩しながらも。。

私が、ブログを始めて早くも2ヶ月が経ちました。

私自身、過去を振り返ることも含め、こうしてブログに書くことで、リバイバル教会にいたときのことを客観的に聖書と照らし合わせることができるので、私自身も自分のブログから学んでいます。

自分から学ぶ。。って、とても不思議な表現だと思うと思いますが、これが気づくことなのかなぁ。。

その一方で、苦悩することもあります。

教会で間違ったことが起こること。その結果傷つく人がいること。
神様を信じてるものとしてはとても放っておけません。
だからはじめたブログです。
でも、正しいことを訴え続けること、気づいて欲しいと願い続けること。。
そのために、一緒に信仰生活をしてきた人の中で、私のことを敵視する人がいること。
こんなこと、はっきり言って何も言わないで自分のことだけ考えて生活してたほうがはるかに楽。。

罪を憎んで、人を憎まず。

そうは言っても、罪を犯すのも人なわけで。。その罪(問題)をピックアップすることで、その中にいる人には憎しみを生み出したりもする。

グサグサ刺されているように感じているのも分かってます。

でも、私は攻撃してるわけではありません。
もし、刺さるのでしたら、それは良心だと思います。
自分の気持ちに正直に。あなたの良心が本当に望む道を。。

この2ヶ月、教会のことなんてもう放っておいてしまいたい。私は癒されてるし、彼らのことも赦してる。そんなことも考えていました。

嘘の情報や被害者の悪口ばかり匿名で言う、クリスチャン。
良心は痛まないの?私はすごく悲しい。
悪口を言われているのが悲しいんじゃない。神様のこと信じてるって言ってるのに、どうして神様が大好きな人をここまで切り捨てて、罵倒して、あざけって。。

まともに向かい合うのは本当に辛い。
でもちゃんと向かい合わなきゃ。
神様は、悲しんでるけど、その人のことも大好きだから。。

そんな葛藤をしながらも、ブログを続けてきました。
でも、神様が寄り添って励ましてくださっていることを沢山感じることができました。
そんな神様に今日も励まされて。。
私は続けていきます。

これは誹謗中傷でも、何でもない。
神様が大好きな人たちが、神様から離れてる。
信仰を得たはずの人が神様を悲しませている。
私は、そのことを伝えたいだけ。
その結果が、母教会と対立の立場になろうと、私は神様のために前に進み続けます。

「そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。

なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。

こういうわけで、私たちは、主を恐れることを知っているので、人々を説得しようとするのです。私たちのことは神の御前に明らかです。しかし、あなたがたの良心も明らかになることが、私の望みです。」

第二コリント5.9〜11


どうか、目を背けないで。ちゃんと向かい合って。
逃げないで。私も逃げません。

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