昔通ってたカルト教会で教えてたおかしな事。
今でも何かあるとつい出ちゃう〜と妹が言っていた。
私も良く覚えてる。
「血潮充満、聖霊充満」
今考えると馬鹿馬鹿しくて笑えてさえくる。
これを祈るのだ。と言うか繰り返し唱える。
まるでおまじないのように。
暗い夜道も「血潮充満、聖霊充満」
家に帰ってきても「血潮充満、聖霊充満」
出掛ける時も「血潮充満、聖霊充満」
アホか!!って思わず過去に突っ込みをいれてしまう。
この言葉、本当に近付く恐怖に全く効果なし。
私は小さい頃から悪夢を見やすい子だった。
教会で教えてもらった「血潮充満、聖霊充満」を、夢の中でも使ってみた。
恐怖の対象は去ってくれない。さらに唱え続けるが、どんどん近づいてくる。
もう捕まるって所で目がさめる。体中汗でぐっしょり。
着替えをして、再び眠りにつくと、また同じ夢。
どうしよう…と悩みながらも、どうしても眠たい私は自然とこう祈る。
「神様、この悪い夢から私を守ってください。あなたの守りの中で安心して寝たいのです。あっ、それから明日も学校なので、元気に起きれますように」
そしたら、暗かった背景が真っ白になって、気付けば楽しい夢になってた。
何度か似た体験をし、自分でちゃんと祈った方が良いことに気付き、悪夢も見なくなってきた。
こんな話(夢の話)は、あんまり人にはしたくないですけどね。何故なら馬鹿にされるから。
クリスチャンですら疑いの眼差しになる。
それがわかるから、どんな体験も教えられた事も、人にはほとんど話さなかった。
カルト教会で証する場が何度かあったが、私は9歳から11年間、人前で証などする機会も与えられたことなく過ごし、他の人も証のない私の事をまるで祝福のない子のように見ていたと思う。
今思うと、それで良かった。チヤホヤされずに育った事が、今活かされているから。
話が脱線してしまいましたが、「血潮充満、聖霊充満」と唱える事を教えていると、聖書も口ずさむのが大事みたいに捉えてしまうように思う。
当たり前の事だけど、聖書の言葉はおまじないではない。
ビビデバビデブウみたいに祈ったら奇跡が!!って、そんなアホな話はない。
聖書が伝えたいのは、どんな心で、どう行動(生きる)かだと思う。
「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」
「あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう
同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。
良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます
こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです」
「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」
「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わないものはみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます
雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家にうちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」
マタイの福音書7章12節〜より
そう言えば、カルト教会でもこの箇所をよく使っていたっけ。一部引用だったけど…。だから、説教が聖書とかけ離れて、意味のない言葉にしてしまった。
祈りや献金を強調して、それを「行動」にしてしまっていた。
どれだけの人がそれで苦しい生活をしてきたんだろう。
祈りだけでは解決しない事だって沢山ある。祈りは現状打破のおまじないではない。
しかし、行動なき祈りはおまじないと同じだ。
一時の平安を与えても、現状に留まるなら必ず繰り返す。
それは、気休めにしかならない。
どんなに語ろうが、心や行いが伴わなければ、それは真理ではなく、まやかしでしかない。
そんな教えをする人が、少しでもいなくなって欲しい。
本当に神様の事や人の事を考えられる人が、教える立場になって欲しいと心から思います。
「この人が牧師とかじゃなくて良かった〜」って思う、もっとアブナイ人もいるけど