つれずれなるままに。。。ユコンブの独り言

主に書くのは教会関係で、私がリバイバル教会で過去にあったことも書いています。日常もちょっとずつ書きます。

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消えたブログ ケータイ投稿記事

信じられない出来事が起きた。

沖縄リバイバル教会の被害者でもあり、裁判の原告である上江洲さんのブログが突然削除されました。

他の被害メンバーのブログは残っています。

どう考えても、悪意の通報があったとしか考えられない。

そういう根回しは、前々からやってる教会だけど。。裁判で出した不都合な証拠が沢山残っているブログは上江洲さんのブログだけ。

それを世間に触れさせたくない。そうしなければ彼らの嘘がどんどん明るみに出てしまうから。

一番不都合なブログを誹謗中傷だとか、でっち上げの悪質ブログでだとか、色々手を尽くして通報したのかな?

もし、そうだとすれば、その悪事も全部明るみに出します。

これ以上被害者が出ないように訴え続けるブログです。

この声は消させません。
必ず復活させます。



それから、削除を望んだ人に警告。

残念ですが、ブログの記事は全てプリントアウトされ、ネット以外でも保管されています。(もちろん私のブログも)

この様な事が起こることも想定の範囲内。

いつでもどこでも復活は可能です。全て証言として残されています。

カルトのあなた方が本当に悔い改めて変わらない限り、全て重い足かせとなって積まれていくでしょう。

それは、滅びの日の為に燃えさかる炭火をつまれているようなものです。

その悪事に報いて裁かれる日が必ず来ます。

その時には、この世で裁かれるほうが遥かに易しい事だったと後悔することでしょう。

その時には遅いのです。
神様信じていたら、悪を行っても天国に行けるのか?

神様は絶対にそんな不平等な事はなさいません。
必ず行いに報いる方です。

絶対に


この世でブログで曝されている方が遥かにやさしい事です。


これでもっと公になって行くことでしょう。

それが御心なのかもしれないですね。


人の生活、人生を奪いながら、平穏に暮らし続けられるわけがない。
その暮らしが変わらない限り、永遠に安息など訪れないのだから。

おまじない ケータイ投稿記事

昔通ってたカルト教会で教えてたおかしな事。

今でも何かあるとつい出ちゃう〜と妹が言っていた。
私も良く覚えてる。

「血潮充満、聖霊充満」
今考えると馬鹿馬鹿しくて笑えてさえくる。

これを祈るのだ。と言うか繰り返し唱える。
まるでおまじないのように。

暗い夜道も「血潮充満、聖霊充満」

家に帰ってきても「血潮充満、聖霊充満」

出掛ける時も「血潮充満、聖霊充満」


アホか!!って思わず過去に突っ込みをいれてしまう。


この言葉、本当に近付く恐怖に全く効果なし。

私は小さい頃から悪夢を見やすい子だった。
教会で教えてもらった「血潮充満、聖霊充満」を、夢の中でも使ってみた。
恐怖の対象は去ってくれない。さらに唱え続けるが、どんどん近づいてくる。
もう捕まるって所で目がさめる。体中汗でぐっしょり。

着替えをして、再び眠りにつくと、また同じ夢。
どうしよう…と悩みながらも、どうしても眠たい私は自然とこう祈る。

「神様、この悪い夢から私を守ってください。あなたの守りの中で安心して寝たいのです。あっ、それから明日も学校なので、元気に起きれますように」

そしたら、暗かった背景が真っ白になって、気付けば楽しい夢になってた。

何度か似た体験をし、自分でちゃんと祈った方が良いことに気付き、悪夢も見なくなってきた。

こんな話(夢の話)は、あんまり人にはしたくないですけどね。何故なら馬鹿にされるから。
クリスチャンですら疑いの眼差しになる。

それがわかるから、どんな体験も教えられた事も、人にはほとんど話さなかった。

カルト教会で証する場が何度かあったが、私は9歳から11年間、人前で証などする機会も与えられたことなく過ごし、他の人も証のない私の事をまるで祝福のない子のように見ていたと思う。

今思うと、それで良かった。チヤホヤされずに育った事が、今活かされているから。

話が脱線してしまいましたが、「血潮充満、聖霊充満」と唱える事を教えていると、聖書も口ずさむのが大事みたいに捉えてしまうように思う。

当たり前の事だけど、聖書の言葉はおまじないではない。
ビビデバビデブウみたいに祈ったら奇跡が!!って、そんなアホな話はない。


聖書が伝えたいのは、どんな心で、どう行動(生きる)かだと思う。

「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。」
「あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう

同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。

良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます

こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです」

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」

「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。

雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。

また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わないものはみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます

雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家にうちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」
マタイの福音書7章12節〜より


そう言えば、カルト教会でもこの箇所をよく使っていたっけ。一部引用だったけど…。だから、説教が聖書とかけ離れて、意味のない言葉にしてしまった。
祈りや献金を強調して、それを「行動」にしてしまっていた。

どれだけの人がそれで苦しい生活をしてきたんだろう。


祈りだけでは解決しない事だって沢山ある。祈りは現状打破のおまじないではない。
しかし、行動なき祈りはおまじないと同じだ。


一時の平安を与えても、現状に留まるなら必ず繰り返す。
それは、気休めにしかならない。

どんなに語ろうが、心や行いが伴わなければ、それは真理ではなく、まやかしでしかない。


そんな教えをする人が、少しでもいなくなって欲しい。
本当に神様の事や人の事を考えられる人が、教える立場になって欲しいと心から思います。

「この人が牧師とかじゃなくて良かった〜」って思う、もっとアブナイ人もいるけど
私は聖書が神様からのラブレターだと信じてる1人です。

しかし、この聖書は扱う人によって他の人を躓かせたり、時には無意味に傷付けたりします。

ことばには力がある。
「初めにことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった」

私は、どんな人であれ、キリストを信じる者が聖書(御言葉)を否定するなら、それは神を信じていないと宣言してると思っています。

もし、それでも神様信じてると言うなら、聖書の読み方や捉え方を知らないとしか思えません。

私自身も小さい頃から通っていたカルト教会では、聖書の読み方を知りませんでした。

内容を読み深めるよりも、どれだけ通読しているかにしか意識を向かせられなかったからです。

社会人になって、県外に出て、そこで出逢った教会で初めて聖書の読み方を覚えました。

教えられたのはただ4つのこと。

気になる聖書箇所を見つけたら、

その部分の状況や歴史的背景を考察したり、調べてみる。

現代の自分や世の中においては、どう適用出来るのか考える。

さいごに自分に適用出来るように祈る。


同じ御言葉でも、人によって感じたことは違うことも多々あるので、批判はしない。それでもその人の成長に繋がるのであれば、反対に感じても受け止めること


ただ読み進めるだけじゃなく、考えながら読むのでペースは遅いですが、聖書を理解する力が身に付いてきました。
理解すると、神様の愛もよくわかるようになりました。

言葉の一つ一つが命の泉であることを、読みながら体験しました。


今は通っていないけど、そこでの出逢いには本当に感謝しています。


しかし、今思うのは、聖書が手元にありながら、言葉の理解がない人が多い事です。
正直ショックを通り越して、現状に落胆してます。

中には思い込みも激しく、聖書の意図している意味とは全くかけ離れた解釈や、意味のないものとして扱う人がいることです。

聖書の御言葉を引用するなら、その時の時代背景からどんな状況でその言葉が出てきたのか、しっかり読み取り、現代の今この時の状況にも当てはまるのかどうかを考えなければならないと思います。

ただ、方向は一つでは無いことも頭に置いておくことが大切だと考えます。

その良い例が、4つの福音書。
視点も違い、一見すると矛盾するような表現の違いがあるけど、ど真ん中の中心キリストについて外れてません。それどころかお互いに補足しあっていて、キリストの人物像などがよりわかりやすくなったり、情景が見えやすくなっていると思います。

他の場所も全く同じで、一部の書簡じゃわからない部分も、他の書簡が補ってくれています。

時代も場所もバラバラの人たちが、それぞれ受けたことを書き残し、それらがそれぞれ支え合って聖書として出来上がった。
しかも聖書になる前は、世界中に散らばっていて、新しいことを書こうにも、過去の文献など参照できない時代。

だから、聖書は神様からのギフトであることを疑いようがないと私は感じています。

その聖書の言葉は知ってる人なら最低限守るべきだと考えています。

何故、律法やこの世の法律が出来たのか?
そもそも、この答えが人の性質だとも考えています。

神様が何で細かくルールつくらなければいけなかったのか…。

神様の愛があれば、他の人にどんなことしたって神様ゆるしてくれる…そんなことは絶対ないと思います。

そんなわがままで、自己中な主張で人を振り回して、嘘をついて人を丸め込もうとしたり、忠告や助言を無視したり拒絶する人がいます。
酷い場合は、それらの忠告をコントロールだとか言っちゃいます。

正直、子どもを扱う仕事をしてる私からしたら、全然子どものようではなく、屁理屈でわがままを通そうとする厄介な大人。

子どもなら、悪いことしたら、注意したり、良くない理由を簡単に説明するだけで、素直に納得します。
私は、子どもの方が良いこと悪いことを敏感に心でキャッチできるからだと思っています。

それが子どもの純粋さで、イエス様が喜ばれる姿だと思います。

大人になるとそこは鈍感になる部分で、どうしても心よりも頭が先にきちゃうような気がします。
鳩のように素直で、蛇のように聡く

子どものように純粋に心で受け止める力と、冷静に物事を考える力が、本当に求められてる「大人」の姿ではないでしょうか?


律法や法律、ルールがなければ自分勝手で秩序が無いのが人間。

だけど、知ってて一定の秩序も守れないのは、人としてもうおかしいとしか感じない。

守れるか守れないかは、その人の心。

神様は人を上手く作ったなぁって今は感じます。

知識だけ蓄えても、心が伴わなければ上手く生きられないし、心が優しい人も知識を得なければ、罠にはまってしまう。

頭と心のバランスが大切。
そこから知恵(行動)が生まれる。


聖書もバランスよく読むことが大切。
歴史的背景、物事の傾向(流れ)、現在と過去の人間像なども…。

こんなに頭使う書物も他にないかも。
だから、神学があるのかな?

やっぱり聖書って大切!

心を持たないこと ケータイ投稿記事

最近、久しぶりに教会関係のネットを見ました。
読んでて本当にかなしくなりました。

どうして、人の心にナイフを平気でさせるような言葉がでるのか?

凄く苛立ちも感じました。

中にはそれを怒るコメントもありましたが、その人の訴えてる確信部分の話を見事にすり替えて、全く答えになっていない回答と、バカにしたような文面。


2年前、涙を流しながら、そんな心無い声と戦ってきた。

正直ねぇ、論破しようと思えば簡単に出来る情報は沢山ある。

特定だってしようと思えば出来る。


だけど精神的にもかなり負担が大きい。

それは、心を痛めてるから。


心がないから、悪意のある推測や中傷ができる。

心がないから、相手の痛みがわからない。

心がないから、思いやりの欠片もない。


凄く憤りを感じるけど、それと同時に、凄く悲しいし、そんな心しかない人たちをかわいそうにも思う。


神様、ごめんね。
神様のこと知ってるはずの人が、一番神様の気持ちからはほど遠いよ。


震災とかで、宗教してない人すら助け合ったり、支え合ってるって時に、平気で中傷が出来ちゃう人間がいる。


そんな現実。


少し前に進んだと思ったら、心ない人は振り出しに戻そうとする。

今までの経緯を1からしっかり踏まずに横やりしてくる。

長い長い経緯を、また1からぶつけるの?

自分でよく見なよ。

自分の負った傷をさらけ出して訴えることの辛さって、本当にさらけ出した人にしかわからない。
理解しようともしないなら口を閉ざすべき。

理解しない人たちは、どれだけの痛みが伴うのか、まず自分がやってみなよ。

自分の悪いところや、人に言えないことはひた隠しして棚に上げて知らん振り。

人の傷を面白おかしくザクザク切り裂いて中傷。

聖書の十戒から、完全にレッドカード出されてる。

人として守るべき当たり前のことしか書いてないのにさ。

たった10コすら守れないのが人間なんだけど、知ってて平気で破る方がたちが悪い。

直接誰かを殺すのと、悪意ある言葉で人を傷付けるのは、はっきりいって全く同じだと思う。

心ない人は、毎日平気で人を殺そうとしてるのと同じ。
見えない刃物で見えない心を刺し続ける…。


考えただけでゾッとする。


傷が見えなければ何でもありなのかな?

PCの前で血の涙を流してる人がいる…。

人間としての尊厳。
忘れないで欲しい。

震災に伴う心配 ケータイ投稿記事

あちこちで、支援のボランティアや義援金の呼び掛けがある。

みんな、こんな時だから助け合おうとそれぞれでできる限りの協力を惜しまず日々過ごしていると思います。


しかし、地震が起きた直後から考えてた、一つの心配事が現実になりました。


「義援金詐欺」

人の善意を逆手にとった犯罪です。

かつて母教会だった沖縄リバイバル教会でも、お金集めをしてると思います。


みんな必死に働いて、必死に生きる中で、神様に喜ばれる為に、苦しい中でも献金や募金をしている。


だけど、世界食料デーの為に集まったお金も、たった一握り分のお金しか寄付されなかった。


本当に必要な人に、困って苦しんでる人にお金が届かない。


何のための献金なのか?
献金の意味を理解しているのか?


また、現地に届かない寄付をさせるのだろうか…?

何も知らず、苦しい中でも精一杯出す善意。

また、それが踏みにじられていくのだろうか?

それが一番の心配。

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