つれずれなるままに。。。ユコンブの独り言

主に書くのは教会関係で、私がリバイバル教会で過去にあったことも書いています。日常もちょっとずつ書きます。

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仲良しグループの解散 ケータイ投稿記事

リバイバル教会にいたとき、いつも5〜10人で遊びに行く仲良しの友達がいました。
同世代だけど、中学生から21歳までの男女で、いつも礼拝の後、北谷町や国際通りなどに買い物や遊びに行く仲間でした。

その半分は、ユースの中で奏楽の奉仕含め、バンドとして活動してました。

教会の中でも、学校の友達みたいに色んな話をしたり、時には兄弟のように一緒に雑魚寝するくらいの仲の良さで、周りの大人がこの男女関係なしの関わりに驚いていました。

この仲間がいたから、私は教会に行っていたのだと思います。
妹と時々、グループの友達の事を話したり、昔の話をしては、今どうしてるのかな?と、心配になります。

私達のこの仲良しグループがちりちりバラバラになったのは、締め出し事件があってからです。

私は東京にいましたが、仲間が切り離されていく様子を聞いて、本当につらかった。

教会に残った子は、親が側近になってるか、親戚関係の子。

離れた子は、親は教会に居続ける人、親と一緒に離れた人、親は信者ではなく、この騒動を機に不信になり離れた人。

中でも大きな痛手を負ったのは、親が教会についた子や親が教会に反対した子でした。

まず、教会側か、うえずさん側かの二分で判断されました。
ほとんどの人は何が何だか未だにわかっていないと思います。
締め出し事件の際、門番をしていた男性信者が、
「うえず側か、教会側か?」
そう聞いて中に入れていたとのこと。

私達仲良しグループはうえずさんのお店によく集まっていて、うえずさんの息子さん娘さんとも仲が良かったので、教会から見たら、当然のように教会と反対側と扱われました。


連絡が来たグループの子の親から妹に
「私は連絡来たけど、Mちゃん、来た?うちのYもまだなの。」

そう心配の電話があったそうだ。
Yは、違和感を感じ、親と行かず、妹に迎えにきてもらった。

嫌な予感は的中。
教会でありえないことが目の前で起こっていた。
さらに続く。

先に行ったYの親は、私達家族を教会と反対側と判断すると、心配して電話までかけた私の妹を、バッサリ切り捨てにきた。
息子であるYと切り離す為、電話で口汚く罵った。

妹は、頭が真っ白になって呆然とした。
Yはこの母親のやり方に傷付き、混乱した。

仲良しグループはこの日を機に引き裂かれた。
お互いに、とても信頼し合っていたはずなのに。

少なくとも私は信頼してた。妹も。
この騒動、事件は忘れたくても忘れられない。

私はまた元のように仲良しの仲間と前のようにざっくばらんに話せる日が来ることを心から願います。

しかし、大きな隔たりを作ってバラバラにしたのは、教会に反対した人間ではない!

教会(ギマ牧師)の思惑であり、教会側として自らを神側とおき、相反する人を攻撃するために動いた結果がこのような分裂の仕方であり、人として許すべきことではない。

この分裂の仕方こそ、マインドコントロール(精神を操作された)思考の成せる業である。


道を別れることになるのなら、どうしてなのか話を聞くべきだと思う。
離れなければならない理由、または離された理由が必ず存在する。

自ら言わないときは、自分から言っても今は理解してもらえないと思ってるから。

もし、理解する心があるのなら、離れた人に聞きに行ってほしい。
聞く心があれば、必ず理解できる。
聞く心があれば、辛抱強く聞き続けられる。

聞く心。どんな事でも受け止める心。

耳があるものは聞きなさい。

聞く事は、自ら心を向けること。

語ることなど誰でもできる。
大切な事は、特別な事などなくても、周りを通して気付く事が出来る。

大切なのは聞くこと。視野を広げ、受け止めること。

もし、誰かユースの人が見てたら連絡ください。
私は教会出る前から何も変わってないよ。今まで沢山色んな話をして、楽しい事も大変なこともあったけど、何にも変わってない。
ただ、ちょっと老けただけ。

また会って話せる日が来ることを心から願います。




伊良皆 裕子

yu-ko.718.jesus_is_my_road.244@ezweb.ne.jp

過ちの刈り取り ケータイ投稿記事

テレビでオウム真理教の元信者の死刑判決がまた出た。

マインドコントロールを知らないときは、それは当然だと思ってた。


深い反省が見られ、被害者や遺族の為にと、自分の持ってる知識を使って書いた丁寧な参考書。

サリン事件から14年もの時がたち、教団から離れ牢獄で過ごした元信者は、自分たちの過ちが、どれほど大きく異常なものだったのか、気付き苦悩する。

せめてのも償いが、自分に出来る精一杯の社会貢献だった。

裁判所も反省の大きさを理解しながらも、反社会的なこの行動に対しての判決に至る。

それが死刑だった。


この判決に私は不服はない。
しかし、今テレビで目の前にうつる死刑囚は、普通の人そのものなのだ。

この人の夢も希望も、一つの大きな過ちによって壊された。
人格まで壊されていた。
反社会的な行動を最初は正当化するような思考しか持ち得てなかったのだと思う。

長い年月をかけ、やっと本来の人格を取り戻し、自らの過ちの大きさも理解する。
逮捕という強制的ではあるが、教団から離れたことと、教団以外の人間との触れ合いの中で、少しずつ理解したのだろう。

しかし、気付くのが遅すぎた。

悪いことと思わない思考だったのだろうから無理もない。

キリストの言葉を思い出す。

「主よ、彼らをお許しください。彼らは何をしてるのかわからないのです。」

そう、一般の民衆はわかってない。

わかっているのは、煽ってる上層部なのだ。

煽った上層部は、人間をうまく操る心理を知っていたのだ。

キリストの時代も一緒。

何が起こっているのかわからない中で集められ、信頼されていたはずの人が捕まり、その周りに酷く中傷されてる。
なんかわからないけど、凄く裏切られた気分になり、一緒にヤジを飛ばす人。

それを聞いて、何かしらやらかしたのだろうと、信頼を失う人。

違うってわかってるけど、他の大衆を恐れて口を開けない人。

大衆が間違っていることに胸が痛み、泣き崩れたり、ショックで声がでない人。

間違ってると声をあげ、突き飛ばされる人。

様々な人がいたと思う。

しかし、キリストの前に命をかけてでも立ちはだかり、彼を守ろうとした人は恐らくほとんどいなかっただろう。

これが大衆心理。これが人間の性質。

キリストが十字架にかけられることを例え知ってても、とめられない。

煽られた集団の恐ろしさを目の当たりにしてるから。

集団のリーダーが間違っていても、沢山人がいるほど、煽るのが強い方に転がりやすい。
煽りが強い方は、大抵よくない。

良い方に強く煽っても、何故かそこまでの拘束力も発生せず、キレイ事と罵れば、一気に力は弱くなる。

人は簡単に悪い方に転がる。自分が痛いことになりたくないのだ。赤信号、みんなで渡れば怖くない。
それを正当化し続けるうちに、感覚が麻痺し、最初のうちは痛んでいた心も次第に状況に慣れる。
次第に悪いことが悪いと感じなくなる。
そのうち自分自身の意見や考えがなくなってくる。
上の人間の指示や、考えをそのまま受け入れる方が遥かに精神的に楽で、簡単だからだ。
そして、上が植え付ける考えが自分の考えとして根付き、植え付けた者と同じような人格に変わる。

そうして根付いた考えは、相反する考えを間違いと認識する。排除する。

違う考え方が存在することが受け入れられなくなる。どうして考えが違うのか追求出来ないから、思考停止。そしてまた振り出しに戻る。

この繰り返し。

集団心理。社会心理を応用した心理操作。

昔から人の本質、心理は変わらない。

歴史が繰り返すように、マインドコントロールも繰り返される。
人格を変えられた人が、また新たに他の人格を変えていく。

個人単位では難しいが、集団だから簡単なのだ。

多数決の原理で、自分の周りの多くが同意見であれば、それが正しいと認識する。間違っていようともなかなか気付けない。

マインドコントロールは、大なり小なりどこにでも存在する。

政治だって、宗教だってテロ集団だって同じだ。

確かに形は違う。教えるものも話されることも違う。
でも必ず共通点がある。

比較させ、こちらが良いと思わせたり、正しいと誘導する。

内部に都合の悪い情報は、激しく批判するか、全く持ち込まない。いわゆる情報操作。

今いる場所が一番で、他の場所はあまり良くないと思わせること。

私が、一番信用できない言葉は、
「これが全て」
「一番良い。」
「世界一。や、日本一」

何を基準にNo.1を決めてるのかわからないもの。

人が集まる限り、必ず存在する集団心理。
人の本質が表れ、試される場所。

今いる場所が、本当にクリーンなのか?
違う意見でも、受け止めてもらえるゆとりがあるのか?
何を言っても最後には許される信頼関係があるのか?

マインドコントロール、破壊的カルトの問題は、遠い場所のお話しではない。
すぐ身近に存在する。
知らないうちに、反社会的(非常識)になっていく。常識を組織の枠でしか判断できなくなる。それが全てだと思い込んでいく。
反社会的な思考が生み出す最大の過ちが、このオウム事件のような事例なのだ。

決して一つの狂った宗教だったからで片付けられる問題じゃない。

過ちから刈り取るのは自分だけじゃない。家族も、友達も、周りの人を苦しめ悩ませている。悲しませている。

キリスト教会だってあてはまる。
だからカルト化、カルトが大きな社会問題として、広く認知されなければいけない。

自分の思考が離れて元に戻って過ちに気付いた時に、すでに手遅れになることがないように。
取り戻せるうちに早く取り戻してほしい。
その為に、自分自身を吟味すること、1メートルくらい離れて様子をみるくらいの心持ちで、冷静に考える癖をつけてほしい。

自分の心と向き合うことは、実はとても難しく、とても苦しいこと。
だけど、そこから得るものは、かなり大きく素晴らしい。
また自分らしさを手に入れられる。

自分のアイデンティティがしっかりつくられることは、素晴らしく尊いこと。

自分は他の誰でもない。私は私。
違う考えを持ってたって良い。
神様がそう作ってくれたのだから。

「何をしてるのか、わかってる?」

しっかり自分の心を見張り、見極め、歩みたい。

「何をしてるのか、わかってる?」

気付く事が第一歩。それが苦しみのはじめになろうとも、最後に取り戻せるものは、とっても大切なもの。

「あなたは何者か?」

涙と共に種をまくものは、喜びながら刈り取る。

過ちの刈り取りではなく、喜びの刈り取りを。
本当の救いとは、神様に愛され、つくられた自分本来の姿を取り戻すことだと思う。

「あなたは何者か?」

自分をしっかり持って。

私の大きな傷 ケータイ投稿記事

私の一番の傷は、短大時代に受けたものが根深く残る。よくもこんな短期間で深手を負わされたものだ。

それが、どういうことで傷をえぐるかと言うと、

・具体的な話なしに一方的に非難される

・こっちが状況が見えないうちに感情的なネガティブフィードバックを浴びせかけられること。

・私がおかしいのかと思わせるような、自己否定へ誘導する発言。


これは、マインドコントロールにおける「解凍」と言う段階で、自分の現実を揺さぶり、今の自分は駄目だと自らを否定することで、カルトの教義を刷り込みやすくする工程でもあり、組織の意にそぐわない人間を痛めつけるものでもある。

カルトのリーダーだけでなく、マインドコントロールにかかった普通の信者も無意識にこのような行動をする。

私は、教会のマインドには染まらなかった。だけどその分、自分でも癒やすのに難しい深い傷を負ってしまった。

この傷が再び血を流すことは、普段の生活や仕事をしてるときには全くない。
抽象的な指摘を受ければ、具体的に教えて欲しいと突っ込んで相手の言いにくいことも素直に聞く。

他の人が聞いたらキツいと感じるような言い方の指摘でも、冷静に受け止め、それに応える。


人の話を聞くのが好きであるのと、人懐っこく、素直な性格が元来生まれもった私の個性である。

その個性が生かされた仕事がファーストフードのマネージャーだった。

クレーム対応も好きな方で、直接お客様の意見が聞ける貴重な場としていた。
社員からもクレームは信頼して任せてもらっていた。

お客様でファンになってくれる人もいた。

それだけ人と関わる事が本来大好きなのである。

一方教会では、人見知りで警戒心もあり、知らない人に打ち解けるには多少時間がかかる。
短大時代が一番人見知りだったかもしれない。

私に大打撃を与えるなら、人から浴びせられる人格否定と拒絶。そして不信の言葉。

大抵の人なら、人により打撃を受けないものだったりするが、自分と関わる人間を大切にしようとする私には、大小関わらず、受け流せないものなのだ。

具体的に何がいけないとか、はっきり言ってもらえたら、厳しい意見も素直に聞けるし、直接言って欲しいと思う。

そんな私の性格を、教会はわかっていたのだろう。人により傷付けられ方は違うが、私には最も効果的に傷を負わせた。

直接ではなく、間接的に(を装って)。
更に具体的ではなく、抽象的に(誰でも心当たりがありそうな表現で)。
それをあたかも確信して強く。


詳細は教えてもらえない。だから自分で必死にそこまで言われるほどの理由を探す。

その間、葛藤しているのは自分の記憶と自己否定。
全て私が悪いんだと思えば、円満に解決する。
だけど、記憶はそれを全面的に受け入れる事を拒む。(私の得意なのが状況記憶で、小中学生の頃の友達とのやり取りまで細かく覚えるほど)

その結果、人に対する不信感がでる。

人が好きな私にとって、人に不信感を抱くことは、自分の信条にも大きな打撃を与え、大切な人に疑いを向ける自分の姿は、一番傷付く。自分の信条を否定してしまうことは大きな傷になった。

それが教会の中で、対クリスチャンの中で行われて来た。

だから、この傷はキリスト教の信者限定でしか傷付けられないし、えぐられない。

だから、理由も知らずに教会に繋がっていなければ信仰がダメだと思い込んでいて、それを簡単に言うクリスチャンは嫌い。
簡単にレッテル貼りをして、人を非難するクリスチャンも嫌い。

それが私の素直な気持ち。
一般社会でもそんな人はいるけど、教会の中の方がはるかに多い。

もちろん、大好きな教会もあって、そこにいる友達も牧師も好き。
クリスチャン全てが嫌いなわけじゃない。そこにはお互いを受け入れる愛があったから。


自己分析をしていく過程の中、教会で受けた傷は、そこで終わりだと思っていた。しかし、終わりではなく、弱さである限りいつでもえぐられる。
この傷の深さと、どんな事で開くのかを、ゆっくり見ることができ、明確になってきた。この傷が開くときの、何とも表現し難い苦しみと痛みは、本当なら二度と味わいたくない。

傷を受けたのは事実。同じ様に今後も受ける可能性は、クリスチャンと名乗る人と関わる限り0にはならない。

ただ具体的に、はっきり分かったから対処出来る。
結局、自分の心を守ってあげられるのは自分しかいないのだ。そこに神様の助けがあれば私はそれだけで良い。

傷はついたし、えぐられたし、かなり深いけど無駄じゃない。確実に前に進める。

この傷が、誰かを癒せるなら、喜んで見せたい(伝えたい)。
同じ様に傷付いた人が、自分の痛みをひとりで抱え込まないように。

私が受けた傷は、他の誰かの痛みを知り、他の誰かが癒やされていくために。


独りじゃないことを知るために。

わからないこと ケータイ投稿記事

最近悩んでいることは、カルト教会の元信徒のツーカーが全くわからないことである。

宗教、カルトでのマインドコントロールの問題の中で、中の人にしか通用しない言葉等があるとのことだが、同じ単語、同じ御言葉でも、私の捉え方が他のリバイバル教会元信徒とは違っていることをよく感じる。

マインドコントロールにかかると、みんな同じ様な思考になるようで、意見がすんなり一致する。

普通の職場では、同じ事象でも、いろんな見方が存在する。

私がマインドコントロールされてないと判断されたのは、教会内のツーカーが私にはなかったことが一番大きいのだと思う。

ツーカーが私には理解できないので、わざわざ詳細を聞かなきゃいけない。

例えば、「裁いてはいけない」

教会の中にいた人の共通認識は、「それが例え間違っていても、指摘しない。神様にゆだねる。自分は不信に思ったことを悔い改め、許す」
だと思う。(今まで感じた事をまとめると、こんな感じですか?)

一方、私は「人が間違った方向にいくことは、神様も喜ばない。誰かが必ず忠告、助言をして道を正すように働きかけなきゃいけない。
裁くことは、人の欠点を見て、その人を見下すこと。ラベリングして、彼はこんな人間だからダメだと決め付けること。自分の物差しで人をジャッジすること。それが無く、本当に大切に思うなら、痛いことでも言うべきだ。」

そう捉えてる。だから、この違いが何故起こるのかも、何故そんな風に思っているのかも、チンプンカンプンなのである。

私の基本的な思考は、中にいたときからほとんど変わらない。でも、はっきり違うと認識出来なかったのは、こうやってシェアすることがなかったからだと思う。なんとなくは違うことをわかってたけど。

リバイバル教会から出て、東京で出逢った教会で、自分が元々持っていた信仰や聖書の解釈を、これで良かったんだと思えたし、今までのベールや曇りがかかって見えなかったものが、はっきりと見えるようになったのだ。聖書読むのが楽しくなったのも、この時から。

リバイバル教会にいる時は、聖書をあまり読みたくなかった。読まなきゃいけないと思っていた。
いい子クリスチャンで振る舞うのは絶対嫌だった。
おしとやかに、にこにこして「感謝します。」周りに愛想を振りまき、そんな人をそれだけで良いクリスチャンと判断してる周りにも嫌気が差していた。

私は、間違ったことは違うとはっきり言う人間だった。

だから、良いクリスチャンだと言われてはいなかったと思う。
あるリーダーに、相談したことがある。
「私は、人格を否定したり、欠点の指摘じゃなくて、明らかに間違ってることにしか言ってないよ!何でそれが駄目なの?」

リーダーの答えは
「図星だから人は傷付くわけさ‥。」

間違った事を指摘して、傷付けるなら、人を傷付ける罪になると言うのだろうか?


カウンセリングの勉強をしてるときにこの悩みは解決した。

講師の一言だった。
「クライアントだからって、何でも受け入れるのは、受容ではなく、容認。それでは何も変わりません。根本が本人の行動や考え方にあるのなら、それを指摘して気付かせなければいけない。もし、それで傷付くなら、それはその人自身の捉え方であって、問題はその人なのだから、本当にその人の事を考えているなら、こちらは言葉を選んで、十分配慮してるのだから、それ以上に言葉を気にしない。」

「傷付くのは、受け取る人の心の問題である。」

カウンセリングや対人関係において、あくまで言葉を発する側が、相手を思いやって指摘するときに、言葉尻をつかんで傷付いたと攻撃する人がいるけど、それは発言者に問題があるのではなく、傷付いたと主張する側に問題があるのだと言う。

あくまで、間に悪意や押さえつけ等が無く、思いやりが前提です。

だから、痛いことでも私は言います。
気付いてほしいから。
そして、本当に考えて欲しいから。
神様は立ち上がるのを待ってる。
立ち上がらない人に力を与えたって、使わないから気付かない。
本当に立ち上がって前に進もうとしなければ、神様が与えた力にも気付けない。


最初は、教会の中の人の心理状態が理解出来ず悩んだり、クリスチャン嫌いにも感じてた。本当に思考が意味不明。教会が信用出来ないんじゃなく、クリスチャンが嫌。
社会で働いていても、日本人のクリスチャンが一番一緒に働きにくかった。プライドが高く、指摘を素直に受け取れない人が多かった。他の人以上に気を使い、様子を見ながら忍耐して関わった。仕事がわかるまで根気強く教えた。そんな中で自分はクリスチャンだと言えなかった。
でも、言わなくても人として評価してもらって、その結果クリスチャンなのだと気付いてくれる人がいて、教会に行きたいって言ってもらえる。それで十分。


一番怖い人間は、クリスチャンだと思う。うなじのこわい民ってこういう事か。

教会が…と言うより、クリスチャン一人ひとりがちゃんと考えないといけないと思う。

教会を作るのは神様ではない。人である。
「2人3人わたしの名のもとに集まるなら、わたしもそこにいる。」
信じる人が集まって、教会なのだ。
その中に神様がいてくれるのだ。



マインドコントロールの状態や思考は理解したけど、何か起こったときにとっさの思考や言いたいことが私にはわからないから、説明してもらわなきゃいけない。

多分、何でわからないの?ってイライラさせたりもするかもしれない。
それを考えると正直心苦しいし、人をイライラさせてまで対話するのはかなりしんどいし、辛いけど、同じ神様信じてるから、神様が喜ぶ姿にみんなで変わっていきたいと思ってる。

あの人ってイキイキしてるね。
あの人はなんでそんなに温かいの?
いつも人のこと気にかけてくれたり、励ましてくれる。あの人といると元気になれる。あの人のようになりたい。
やっぱり本当の神様知ってるから違うんだねって思ってもらいたい。


えっ、クリスチャンなの?なんかあの人、変わってると言うか、変よね?
あんま深い友達になりたくないな。
勧誘されるのも嫌だし。

今のところ大きな問題ないし、神様必要かって言われたら、ピンと来ないんだよね。
なんか問題があれば足を運ぶだろうけど…。

そんな風に思ってもらいたくない。

問題など無くても、神様信じる事できるんだ。信じたいって思わせるのは、私たちの生き様だと思う。
どれだけキリストに近付くのか?
人として来られ、人としての信仰のモデルにもなってくれた。
人間としての性質も持ちながら、それに屈しなかった。

ただ十字架にかかるために来ただけじゃないのだ。
昔から横路にそれやすい私達人間だからこそ、本当の信仰の姿も教えてくれたのだ。

十字架の救いにだけ甘んじて、キリストをモデルとして歩まないなら、十字架の意味も伝わらないし、イエス様何のために人間として来たんだろうって感じ。
知らない人に伝えられるはずないよ。

本当にみんなで考えなきゃいけないと思う。

支える重さ ケータイ投稿記事

人の命の重さ、尊さを考えるとき、私には必ず思い出す人がいる。
それは祖祖母である。ヒーオバーとの出来事が私には命の重さを教えてくれるのである。
彼女の存在が、私の信仰にも影響を与えたと言っても過言ではない。

ヒーオバーは、沖縄で言うユタと言われている存在であった。修行したわけでもなく、突然霊の存在が見えるようになったり、霊がよってきて話しをするようになったらしい。
夜はそのせいか眠れず、昼に仏壇の間で横になり寝ていた。
突然人の為に生き、霊まで見えるオバーに、周りの親戚は頭がおかしくなったと陰口まで言っていたそうだ。

オバーの寝ている仏壇のある部屋には、大好物の氷砂糖があるので、オバーを起こさないように息も止め、出来る限りの気配を消して、抜き足、差し足、忍び足で取りに行くのだが・・すぐに、

「誰ね!?」

ガバッと起きてしまう。

オバーに事情を話すと、
「そういうときは、ちゃんとくださいと言って、手をこうするんだよ。」
優しく礼儀を教えてくれた。

そんなオバーと一緒に過ごしている私にとって、霊という存在は、見えなくとも必ず存在し、肉体があるかないかの違いなのだと幼くも理解した。
なので、霊の存在はまったく否定しない。

教会に通うようになったころ、母は神様に癒されていくのを感じたのだが、同時に、
「先祖崇拝には悪魔が働いている!」
「偶像礼拝とは、サタンを礼拝してることになる!」
このようなメッセージを聞かされ、それらも信じてしまったので(私も少し恐怖を感じました)、

「私は、もう本当の神様を知ったから、仏壇のことはしません!拝みません!」

祖父と祖母の前で、お互いに号泣しながら強く宣言していた。
私は、そこまで神様を選ぼうとする母の信仰は心から尊敬する。
しかし、相手の信じているもの(というよりも、もう文化ではないかと感じるが…)を目の前で完全否定し、対決するような姿勢はいまだに賛成できない。

代々長男の家系でもあり(家系図まである)、祖母もゴサマルという中城城の最後の主の子孫の家系もあり、その血筋すらも全否定されるような気持ちだったのだろう。

離婚の危機だった。

しかし、父と祖母が祖父をなだめ、ヒーオバーも母を責めなかった。

母からしたら、神様を信じてない=反対側の人間である。
ましてや、ヒーオバーはユタである。完全に悪魔と交信できると思い、非常識な態度をとる母に、忍耐して見守ってくれた。
母の態度で唯一の救いは、人は人として扱うことが出来ることであった。
リバイバル教会の信徒は、ユタなどとの関わりも(間接的にサタンと関わってると)拒絶するが、そういったことは母には一切なかった。

そんなヒーオバーも杖が無ければ歩けなくなっていた。

ある日、ヒーオバーと出掛けて帰ってきたとき、ヒーオバーは何故か杖を使わず、私に手をひいてくれるように頼んだ。

当時、小学4年生だったが、とても小さく、ヨーガリー(やせっぽち)の私には、同じくやせ細った体のどこからこの力が出てくるのか、ヒーオバーの手の握る強さと手にかかる重さに、とても苦しみを感じた。めまいも感じるほどの苦しさだった。
ほんの10メートルに満たない距離だったが、私には本当に辛く、長い距離に感じた。

手をひいたあと、あまりの苦しさから母に、

「もう、オバーの手をひきたくない。痛いし、とっても重たい!もう嫌だ!」

大泣きしながら言った。

ヒーオバーと手を繋いだのはそれが最後である。
それからしばらくしてすぐオバーは体調を崩し入院。何日もたたないうちにすぐに息を引き取った。

私はヒーオバーが亡くなったときに、手を繋ぐことを嫌だと言ったことを、心の底から後悔した。もっとオバーに沢山良いことをすれば良かったと。。嫌と言った時の倍、後悔で大泣きした。

その思いもあり、短大の時は、歩くのもままならなくなった母方の祖母の世話をよくした。どんなお使いでも快く引き受けた。お風呂もいれた。

しかし、手をひいていてもヒーオバーの時のような手を握る強さと重さは全く感じない。
あの痛さ、重さと比べたらおどろくほど軽く、柔らかいのである。

大きくなったからと言うにはあまりに違う感覚に戸惑いながらも、きっと意味があったのだと理解した。


ユタとして、人の相談にものり、人の人生を負ってきたヒーオバー。
誰よりもその重さを感じ、独りで背負ってきたのだろう。

今の私に、人の人生を背負う生き方の重さを教えてくれる。
そして、それに伴う痛みがどれほど苦しいのかも教えてくれた。

楽して人を助けることなど出来ないのだ。

一緒に苦しみながら、同じ歩調で歩き続けてくださる神様と同じ様に、歩み続けたい。

ヒーオバー、独りで苦しかったと思う。

でも私は独りじゃないよ、仲間がいる。
それ以上に最強で最愛の神様が一緒にいてくれるから。

神様信じたら、家族も救われるって信じてる。だからオバー、天国で会えるのを楽しみにしてるよ。

それまで見ててね。


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