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預言をないがしろにしてはいけません。しかし、すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。(1テサロニケ5:20−21)
パウロは、様々な賜物の中でも、預言の賜物を特に重要と考えていました。それは、預言が教会の徳を高めるからです(1コリント14:1-4)。だから「預言することを熱心に求めなさい」(同14:39)と言っています。 では預言とは何でしょうか。未来のことがわかる能力のことでしょうか。いいえ、それは「予言」であって「預言」とは違います。 預言とは、神から「預かった言葉」、すなわち聖書の言葉のことです。預言の賜物とは、その聖書を正しく悟り、聖書を解き明かして、正しく語っていく能力のことを言います。すべての人が、この賜物を熱心に求めるべきです。これが教会の基礎となっていくからです。 テサロニケ教会の場合、決して聖書の言葉を軽く考えてはいなかったでしょうが、再臨の教えを過度に受け取ってしまい、健全な解き明かしができず、教会が混乱してしまっていました。 ですからパウロは、聖書の言葉を正しく受け取る訓練をするように言っているのです。聖書の言葉を使っているからと言って、それが正しい解釈とは限りません。聖書は全体から解釈していかないと、本当の真理は見えてこなくなります。 また、聖書の言葉は、誰に語られているのでしょうか。隣の人にではありません。自分に語られているのです。聖書を振りかざして、人を裁く道具とするのではなく、自分が悔い改めに導かれるように、聖書の言葉を受け取っていかなければなりません。 イエス様は、「岩の上にわたしの教会を建てる」(マタイ16:18)と言われました。岩の上に家を建てるためには、みことばを聞いて行うことが必要です(マタイ7:24)。私たちが聖書を大切にし、そのみことばに従っていくとき、教会はますます成長していくようになるのです。 ※明日から教団のキッズキャンプに参加するため、今週の投稿はお休みさせていただきます。次回は7月29日(月)です。キャンプの祝福をお祈りいただければ幸いです。 ------------------------------------------------------------------------------ ◎みことばで始まる一日 のバックナンバー・配信停止はこちら ⇒ http://archive.mag2.com/0001476310/index.html |
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御霊を消してはなりません。(1テサロニケ5:19) 教会の電話の子機は、いつも充電器に立ててあるのですが、先日夜に電話を使って、そのまま充電しないまま朝まで机の上に置いてしまっていました。すると翌朝には、電池が切れて、使えなくなっていました。 古い電話で、買ってから一度も電池交換をしてなかったようです。先日、新しい電池に交換したところ、しっかりと充電されるようになりました。 古いバッテリーは、不純物が多くなるため、充電されにくくなってしまいます。ですから再生するためには、中身をすべて捨てて、新しいバッテリー液を入れ替える必要があります。 同じように、心の中も古いままだと、御霊に満たされません。罪や汚れを持ったままでは、心の中で御霊の働き場所がどんどん奪われていって、十分な恵みをいただくことができなくなってしまいます。 ですから、私たちは、いつも心の中にある不純物、罪や汚れを洗い流す必要があります。毎日毎日、十字架を仰ぎ見ながら、罪の悔い改めをしていきましょう。その上で、聖霊の満たしを求めていくのです。 そのようにして、毎日毎日、心を一新し、新しくされ続けて歩んでいくとき、いつも聖霊が豊かに働かれ、いつも喜び、絶えず祈り、すべてを感謝できる(5:16-18)、そんな生き方ができるようになります。 御霊を消さないようにしましょう。今日も新しい聖霊の満たしを慕い求めていきましょう。 ------------------------------------------------------------------------------ ◎みことばで始まる一日 のバックナンバー・配信停止はこちら ⇒ http://archive.mag2.com/0001476310/index.html |
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神をのろってはならない。また、民の上に立つ者をのろってはならない。(出エジプト22:28)
最近ネットなどで、憲法改正の問題について、また原発問題について、いろいろな意見が飛び交っているのを見ます。クリスチャンの立場から、その問題を取り上げている人もいますし、中には、かなりひどい言葉で首相や現政府を批判する意見も見られます。 しかし聖書の原則は、「上に立つ者をのろってはならない」というものです。パウロも、「上に立つ権威に従うべき」(ローマ13:1)と言っています。それは、すべての権威は神が立てたものだからです。 私たちは日本で生活し、この日本の法律に守られているわけですから、選挙で選ばれた政府の決定に従う必要があります。もちろん選挙に行きますし、意見が言える機会があるならば、自分の考えは伝えたいと思いますが、批判することは、聖書の御心ではありません。 私は政府を100%絶対視してはありませんが、神様がこの日本に対して、何らかの御心を行おうとしておられ、その節理の中で立てられた権威であると信じています。ですから私に理解できない部分があったとしても、神の御心を信じ、政府の決定には従っているのです。 パウロは「すべての高い地位のある人たちのために祈りなさい」と言いました。それは「私たちが平安で静かな一生を過ごすため」です(1テモテ2:1-2)。 考えてみてください。政治家が祈りによって変えられ、救われ、聖書の価値観で政治を行うようになったならば、どんなに素晴らしいことが起こるでしょうか。学校の先生が、会社の社長が救われていったら、どんなに素晴らしいでしょうか。 私たちがすることは批判することではありません。上に立つ人のために祈ることです。神の祝福を祈ることです。それが結局は、自分の平安となって返ってくるのです。 ------------------------------------------------------------------------------ ◎みことばで始まる一日 のバックナンバー・配信停止はこちら ⇒ http://archive.mag2.com/0001476310/index.html |
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神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。(1テサロニケ4:3)
神様は、私たちに対して、素晴らしい計画をお持ちです。私たちが聖くなること。これが神様の私たちに対する計画です。エペソ書では、天地創造の前から、私たちは聖くなるために、神に選ばれている(エペソ1:4)と書かれてあります。 「聖い」「聖別」という言葉は、「特別なものとして区別される」という意味です。あなたは、その他大勢の一人ではありません。神の子供であり、神の祝福を一心に受けることができる存在として、選ばれているのです。 ですから、私たちには必ず祝福が訪れます。たとえ失敗ばかりの人生だったとしても、こんな私が神に祝福される価値はないと思わないでください。神があなたに対する、天地創造前からのご計画を破棄されることなど、絶対にないからです。 もちろん、私たちが何もしなくてもいいということではありません。「不品行を避ける」(3節)「情欲におぼれず」(5節)「欺かない」(6節)など、私たちもまた、神に喜ばれることをめざし、信仰生活を送っていくべきです。 しかし私たちの努力だけで、どうにかなるものでもありません。だからこそ、聖霊の助けを求めていきましょう。可能ならば、人と分かち合って、ともに祈ってもらいましょう。失敗しても、何度でも悔い改めながら、イエス様のところに立ち返っていきましょう。 聖い生活をするということは、決して簡単なことではありません。しかし、神様が私たちに要求しておられるわけですから、要求を満たす力は、私たちにすでに与えられているのです。さらに力が必要ならば、神は惜しむことなく与えてくださいます。 私たちに対する神の御心を実現するために、イエス様は十字架にかかってくださいました。その私たちが、神の御心から遠く離れた生活をするのではなく、その召しにふさわしく、聖化の道を喜んで歩んでいきましょう。 ------------------------------------------------------------------------------ ◎みことばで始まる一日 のバックナンバー・配信停止はこちら ⇒ http://archive.mag2.com/0001476310/index.html |
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わたしのために土の祭壇を造り、その上で、羊と牛をあなたの全焼のいけにえとし、和解のいけにえとしてささげなければならない。わたしの名を覚えさせるすべての所で、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福しよう。(出エジプト20:24)
韓国に行ったことのある方は、韓国の夜空を照らしている、無数の赤い十字架をご覧になったでしょう。私も最初に見たときは驚きの光景でした。しかし、最近その十字架のネオンが少しずつ消えているという話を聞きました。 本来十字架とは、イエス様が罪人のために犠牲になった場所で、神の御心に服従する謙遜さを象徴するものです。しかし韓国の十字架は、誇示の象徴であり、より高く、より明るくと競争しているのはおかしい、と指摘する人が出てきたからです。 なるほど。その通りだと思います。今日の箇所でも、神が求めているのは、豪華な祭壇ではなく、「土の祭壇」です。礼拝の本質とは、そこで「いけにえがささげられること」と、「神の名が覚えられること」です。 今の私たちが、実際に牛や羊を教会でささげるわけではありません。私たちがささげるべきいけにえとは、自分自身です(ローマ12:1)。礼拝で注目されるべきは、神ただお一人で、そこで語られる神のことばの宣言に、自分自身を服従させることが礼拝なのです。 私たちの礼拝はそうなっているでしょうか。大きな会堂が与えられたとしても、それを誇ってしまっていないでしょうか。賛美の奏楽が、自分の技術披露の場となっていないでしょうか。自分の体験談を証しはしても、神の素晴らしさを証ししていないということはないでしょうか。 神の栄光が現れるところ、神の御名が人々に覚えられるところ、人にではなく、神に目を向けることができる場所。それが教会です。そのような礼拝のあるところに、神は豊かに祝福を注いでくださいます。 その神の栄光のために、今日も自分自身をささげていきましょう。 ------------------------------------------------------------------------------ ◎みことばで始まる一日 のバックナンバー・配信停止はこちら ⇒ http://archive.mag2.com/0001476310/index.html |



