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瀬戸の島から
ブログを再開します。

書庫増田穣三評伝

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まんのう町出身のもうひとりの国会議員 山下谷次 まんのう町 からは戦前に、二人の国会議員が出ている。そして、それぞれの銅像が残されている。 最初にやってきたのは仲南小学校。体育館から登校する生徒達を見守るように正門付近に立っている。 これが、山下谷次像。 彼は、まんのう町帆山出身で、「実業教育の魁け」として、東京で実業学校の開設に幾つも関わり、代議士となってからは実業学校の法整備等に貢献した人物だ。  若き日の谷次は勉学を志すが経済的に恵まれず、同郷出身者を訪ね、勉学の熱意を訴え支援を仰ぐがかなわず、貧困の中にあった。これを援助したのが財田出身の大久保彦三郎である。彦三郎は当時、京都に尽誠舎を創設したばかりであったが、そこへの入学を認めると共に、舎内への寄宿を許した。そして、谷次に学力が充分備わっているすべて表示すべて表示

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  • 讃岐からの移住団をひきいてやって来た三橋政之について 三橋政之について「讃岐移民団の北海道開拓資料」の中に詳しい紹介があった。 この本は大久保酣珪腓遼裔の方が家に残っていた酣珪腓亡悗垢詼務て山拓移住関係の貴重な書簡や資料をまとめて出版されたものだ。その中に、「洞爺村史」の中の三橋政之に関する部分が全文掲載されている。以下、紹介 ...すべて表示すべて表示

  • 明治20年 向洞爺開拓団の結成と大久保酣珪  この時期、香川県は消えていた。愛媛県と合併され、県庁は松山に置かれていた。三豊選出の県会議員となった大久保酣珪腓蓮県議会に出席するために松山まで徒歩で通った。  多度津の景山甚右衛門により多度津ー琴平間に鉄道ひかれ、琴平で開かれた祝賀会で大久保酣珪腓「瀬戸大橋構想」をぶち上げたのもこの頃でもある ...すべて表示すべて表示

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