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瀬戸の島から
ブログを再開します。

書庫四国巡礼の道から

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 前神寺−もともと常住(成就)にあった寺で奥社は石鎚山  現在、六十四番の石鉄山前神寺は真言宗石鉄派として一派をなし、独立寺院になっています。しかし、明治以前の神仏分離前までは石鎚信仰の中核的なお寺でした。  お寺も、現在のロープウエイを下りた成就に中社があり「常住」と呼ばれていました。そこに常住僧がいたのです。  神仏分離で、 石土という名前は仏教的な要素が入っていると言うことで石鎚神社と呼ばれるようになりました。仏教から分離しようとしたからです。  石鎚神社は、その上で新たな神社をこの上に作っています。そして、前神寺は西条の里に下りて、現在地に新たな境内を整備しました。 御詠歌は 「前は神後ろはほとけ極楽の よろづのつみを砕くいしづち」です。 「いしづち」 すべて表示すべて表示

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