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瀬戸の島から
ブログを再開します。

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仙遊寺 もとは泉が涌くという泉涌寺です。 

 
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五十八番の作礼山仙遊寺は、栄福寺からごく近いところにあって、その間の距離は1キロ足らずではないかとおもいます。栄福寺は勝岡という八幡さんの丘の麓にありますが、仙遊寺はその丘と相対する山の上に建てられています。表参道から登ると非常に急な坂を登らなければなりません。そこから二〇〇メートルほど下ると弘法大師の加持水があります。縁起では、仙人が遊んだから仙遊寺だとありますが、そうではありません。もとは泉が涌くという泉涌寺です。
 
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  原始修験道の時代の信仰は?

日本の山岳宗教の歴史では、仏教をはじめとする外来の宗教の影響を受けない時代を原始修験道と呼んでいます。そういう時代は山の神や海の神や川の神々を御参りしていました。お寺もないころですから、洞窟の中に籠もって、神と一つになる修行をしました。そのためにすべての穢れを落とさなければなりません。山なら滝に打たれる、海なら潮浴びをするというような苦行をして人間の穢れをすべて取り去ることにより、人間に神が乗り移ると考えられました。 
これが憑依現象です。
山岳宗教では「ヒヨウエ」といっていますが、密教的にいうと即身成仏です。
神様が乗り移って、人が神の言葉を語るのですが、穢れていては神様が移ってくれません。そこで、無垢な子ども、機れのない少女、あるいは苦行によって穢れをぜんぶ落とし人に神様の霊が入ると考えたのです。伊勢の斎宮の場合も同様で、斎宮の語る言葉、すなわち託宣が神の言葉です。こういう構造をもったものを原始修験道と呼んでいます。
 
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 次の段階になると、託宣の方法に道教的・陰陽道的なものが混じってきます。
たとえば、星をまつったり、中国やインドにはいるけれども、日本にはいない龍をまつるようになるのが、初期修験道の段階です。
 さらに、役行者のころからそこに密教が大ってきます。平安時代に成立した密教を主体とする山岳宗教を中期修験道と呼んでいます。中期修験道の段階で醍醐の三宝院、園城寺、聖護院のような本山ができて教団化されていきました。
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 原始修験道や初期修験道においては厳しい辺路修行をしました。
平安中期、修験道が理論化されるにつれてい原始的な山岳修業者に代わって学問する人、あまり苦行をしない人々によって、たとえば三十三か所が開かれます。
 それ以前は役行者を除くと無名の人が多く、歴史の中に埋没しています。しかしその時代こそ本来の山岳修行・山岳宗教、辺路修行・海洋宗教が盛んだった時代です。
 まだ仏教の色彩がそう濃厚にならない時代の修行者を仙人と呼ぶ場合があります。仏教が入ってくると、行者あるいは修験者という名前で呼ばれるようになりました。
  
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お寺では仙人から仙遊寺という名前ができたといっています。

 しかし、泉から出てきた信仰だとおもいます。
霊水が湧くといわれるところは、だいたい弘法大師が活躍したところです。
弘法井戸とか大師井戸と呼ばれるものは、弘法大師と加持水が結びついた伝承です。弘法大師が現実にそういうことをされた場合もあり、されなかった場合もあるのですが、それは議論する必要のないことだと私はおもっております。

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   海洋信仰の時代は、修行者が海の見える山頂から海を礼拝しました。

志摩に行くと、和具という海女の本拠地に八大龍王に火を上げる燈籠が現在も残っており、辺路修行者が火を焚いて海神に捧げたのだということが分かります。
 志摩今熊野では、江戸時代の中ごろから末にかけて富士浅間信仰が非常に盛んになります。富士浅間は富士山が見える範囲内における海上生活者の信仰対象です。
 富士山は、山だから山の信仰だろうとおもわれるかもしれませんが、そうではなくて海の信仰です。晴れていると大工崎から富士山が見える、あるいは船が沖に出ると見えるといっています。富士の神様が浅間さんで、本地仏は大日如来です。
 弘法大師の場合も、海に向かって火を上げたと自叙伝に書いています。
辺路修行で海を礼拝したということはまず間違いありません。
 
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海を礼拝する方法が足摺という方法です。

 のちになると、人に出し抜かれて残念だといって、駄々つ子のように駄々を踏むことだと解釈されます。すでに『平家物語』のころでさえ、海を拝む宗教があったことが忘れられてしまっています。その点では伝承は、千年前に忘れられたものを明らかにすることができるありかたい資料です。偉い坊さんや偉い学者の書いたものには出てこなくても、庶民の伝承を集めていくとわかってきます。
 そうすると、厳島神社の鳥居が海の中にある理由もわかります。いまは逆になって船で海に出て拝がむのだといっていますが、海を拝んでいたことは確かです。

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海のかなたを礼拝する山ですから、作礼山というのだとおもいます。
 山頂の石塔は経塚でしょうか。
『四国偏礼霊場記』はこのあたりの素晴らしい景色を次のように描写しています。 
遠く洽海を望めば島嶼波に認べり。左は今治の金城峙つ、
  逸景いづれの処より飛来、惟画図に対するごとしとなり。
 現在の本堂は昭和二十八年(一九五三)に再興されたもので、古いものではありません。

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