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211回です。にいつ いちろうです。
気候変動・変化(地球温暖化)について、わたしの思いを綴っています。日常のもろもろについても発信しています。
夕べ、テレビ、ニュース、何も見る聞く気もなく、二階の部屋で夜7時には寝転がった。
ギターをはじめた私がネットで手軽に、いろんな曲が聴けるように、 ミニコンピューター を子供たちが置いていってくれた。
私は クリシュナムルティ を検索しました。
クリシュナムルティは若くして、宗教的な大きな団体の指導的立場にすでにあったけれど、あるとき組織から離れることを決める。
組織にくみすることなく、組織をつくらず。その後も精力的な講演活動を続けた。1986年に亡くなっています。
私たちは、「わたし」という一人称を使って生活することにほぼためらいはないけれど、クリシュナムルティは、「彼」という言葉で、自分のことを表す。
客観視 ということになるでしょうけれど、そのあたりからして、彼のありかたがうかがい知れます。
伝統的宗教、組織的宗教団体から訣別して生きる。彼のありようは自然であり、とても当たり前。と私は思います。その当り前さで生き切ったことは奇跡かもしれませんけれど。
ここで私のギター修行にまつわる事柄を装入させてくださーい。修行と言って遊んでますが。
私はギターをはじめてから、いろんな曲を聴くようになっています。
私の思い込みもあるかもしれませんので、ごめんなさい。とくにソプラノのときに感じるのです。ソプラノなりの型にはまり過ぎてしまうと、曲の情感を自分で感じて、そして試行する細心さがもうひとつ控えめになってしまうように思うのです。
自分で感じて、ためらいながらも、遊ぶように試行することが大切なのだと、私は思います。
ですから、しろうとから出てきたスーザン・ボイル、マルティン・ハーケンスの歌声に感動するのでしょう。ボイルやハーケンスの歌声の裏には、長いためらいと細心さ、そして遊ぶ如くの好奇心があったのでしょう。わたしはそう思います。
生活全般にそれは言えるように思います。
私はクリシュナムルティの講演を夕べ聴いて(ネットで検索して)いましたが、しばしば、「わたしに同意しないでください」と、彼は聴衆に言うのです。
安易にうなずかないで。ご自分で充分に物事を見て、考えてから、同意するならしてください。そういうことなのでしょう。
話しは少し移ります。
越後には 良寛さん という人がいました。おそらく、寺の住職として入ってください、などという話もあったのかもしれません。なにしろ良寛さんほどの人ですから。
でも良寛さんの選択は、 フリーダム でありました。
良寛は書や和歌をたしなんだので支援者、理解者がいたということもありますが。
毎度、私になにがわかるわけでもないですけれど、人間が本来の輝きを放つと、そのとき人間という個体(固体)というより、人間という 現象 であると、そんな感じがします。とても広がりを感じるくらいの意味ですけども。
れいによって主題のはっきりしない文章になりました。
長くなりました。言わずもがなのことでしょうけれど。
新津 市朗でした。ありがとうございます。
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