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 中国大陸、台湾の両方から「国父」として、今も尊崇を受けている孫中山(孫文)。この孫中山(孫文)の「中山」の由来が日本にあったということを知る人は意外と少ない。 
 革命家としての30年のうち、のべ約10年を孫文は日本で過ごし、その間、多くの日本の志士と友情を結んだ。

 19世紀末の清国は、600万人足らずの満州人が政府高官や軍幹部を独占して、4億人の漢民族を支配する専制国家であり、200年の泰平に馴れて、政府は腐敗しきっていた。孫文は日本の明治維新をモデルに、漢民族による近代的独立国家を作ろうと、「滅満興漢」を掲げて、1895年(明治28年)広東での最初の武力蜂起を行うが、失敗、海外に身を隠した。

 この孫文に注目したのが、日中提携によるアジア独立を目指していた宮崎滔天であった。滔天は、横浜に潜伏していた孫文を見つけ出し、語り合った。

 支那四億万の蒼生(人民)を救ひ、東亜黄種(アジア黄色人種)の屈辱を雪(そそ)ぎ、宇内(天   下)の人道を恢復(回復)し擁護するの道、唯(ただ)我国の革命を成就するにあり

 と述べる孫文の悲壮の語気に、滔天は、

   誠に是(これ)東亜の珍宝なり。余は実に此時をもって彼に(心を)許せり。

 と後に記している。
 孫文もまた初対面の滔天の印象を「他人の急を救わんとのこころざしやみがたき…現代の侠客」であると評した。

 宮崎滔天を通じて、孫文は日本の政府高官や志士達に紹介され、人脈を築いていく。後の政友会総裁、首相の犬養毅、アジア各国の独立を支援した頭山満などの知己を得た。

 この頃から、孫文は「中山」と号するようになった。日比谷公園近くの中山忠能公爵(明治天皇のご生母・中山慶子の父)邸の前を通ったとき、その表札を見てつけたという。
 この号が、今や台湾の大通りの名になり、また生まれ故郷が中山市と改称されたいわれになっている。

                              (国際派日本人講座から一部抜粋)

 このことを知る中国人は何人いることだろうか。知ったところで、恐らく多くは自国の歴史が往々としてそうだったように「捏造だ」と思うに違いない。
 嗚呼!!

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