流通の歴史と未来のブログ

食品流通は凄く面白い世界です。昔・今・未来を語りたい
 前回の最後の方で統制品の話を書きました。私よりも10年以上も若ければ統制品の意味も分からないでしょう。統制品は第二次世界大戦の国家総動員法を起源として、戦争遂行に必要な軍需物資の統制から始まります。ただ、戦時中は国家機関もきちんと運営されていましたから、日常生活に必要な生活物資も配給は行われていましたが、不自由はなかったという話です。

 敗戦により、配給制が崩れ始め、戦災による輸送状況の悪化、農漁業の生産の担い手の不足や、漁船や牛馬の多くも戦時調達されてしまったこと、朝鮮半島や台湾の喪失、漁業海域の大幅な縮小なども重なって生産基盤も大きな打撃を受けています。

 供給が十分に無い中で猛烈なインフレーションになった事は前にも書きました。そこで政府は物価統制令を発布して、幅広い品目を統制、つまり政府が供給から流通を管理する、具体的には免許を持たない業者は当該商品を扱うことができないことになりました。

 統制品は配給によって、統制価格で、家族ごとに決まった量が、免許を受けた業者によって供給されるものでした。各家庭には様々な事情がありますから、過不足が生じるのは当然であり、元々、供給が少ないのですから不足の方が目立つ事になります。
 そのニーズに応えたのが闇市であり、闇市の商品を購入するために家財道具が売られることで、闇市には統制品以外の様々な物資が販売されることにも繋がっていく事になります。

 戦後のすぐの頃は、ほとんどあらゆる生活物資が統制品扱いであり、米、小麦粉、酒、煙草、醤油、味噌、砂糖、塩、食用油等々あり、戦後すぐの頃の生活苦は長く語り継がれることになります。注意すべき事は戦争中ではなく戦後のすぐの頃であることです。

 統制は国内が安定化して供給が回復するに従って外れていく事になるのですが、免許を得ていた業者にとっては統制から外れると言う事は既得権を喪って競争相手が出現する事ですから、一部の品目については長く統制が維持されることにもなりました。

 こんな話は半世紀以前は常識の範囲で、説明する必要も無いものでしたが、もう全然、分からなくなっているんでしょうなぁ・・・・。

この記事に

 時代は大正期に入る頃に、当時イギリスのハワードという人が唱えた田園都市という、都市部における密集化から、治安や衛生・健康問題を解決する手段として、自然と共生した小規模の職住近接した都市形成をしようというものですが、それを明治の大実業家である渋沢栄一が、当時の東京郊外であった、今、田園調布と彼が名付けた場所に作る事を計画します。

 その折に参考にしたのが、関西の小林一三が考案した鉄道を通して、周辺を開発し、住民を住まわせることで鉄道の採算を確保する総合開発の考え方でした。
 順番は逆のようですが、田園調布という住宅地建設と、今日の東急電鉄と、田園調布の先にある綱島温泉まで含めた形の開発が行われるのです。

 当然のことながら住民が住む訳ですから、生活の便宜性から商店が必要になる訳ですが、戦後の同じような開発、西武や東急、東武などの私鉄の住宅開発と違って、電鉄会社がスーパーを建設するところまでは、当時はスーパーというものが発明されておりませんから、商店の誘致まで行っておりません。

 では当時、こういう家に住む人々はどうしていたかというと、基本的に家族は日常的な買い物に出ていく事はありません。当時、こういう家では女中を雇っていましたが、彼女らにしても、あまり買い物に出ていない。基本的に商人が訪問して注文を取って納めるという形式です。

 皆さんのほとんどは、こういう形の経験はないでしょう。今のように共稼ぎなんていうのは、中流以上の家庭ではあり得ない。つまり誰かが必ず家にいた、非常に多く奥様は家にいたし、女中がいた。
 こういう出入りの業者は、玄関から訪問する事はありません。必ず台所口にまわって、挨拶をし、前回の注文された品を納め、同時に注文を取るもので、大きな家では奥様が応対はせず、女中が応対しました。

 こういう商業ですから、駅前に商店が集中する意味は低いものです。消費者である邸宅群に近い場所でなければ移動が大変だからです。
 江戸から明治の頃まで続いていた棒手振りから、次第に自転車に、オートバイに。軽自動車になる頃は、家庭訪問よりは移動販売と呼ばれるようになります。
 残念ながら当時の商業の形をリアルで見ていた訳ではありませんから、分からないのですが、私の子供の頃は統制品であった米や酒、そのついでに醤油なども納めてもらっていましたが、これらの訪問販売が残っていました。

この記事に

 昨日、書き終わってから、フト、駅前商店街というのは何時、できたのだろうかと考え始めました。何しろ昨日、考えたものですから、資料も何も当たっていないのですが、多分、研究書は無いのではないかと・・・。

 駅ができれば商店街ができるなんてことはまったくありません。そのくらいなら無人駅はもっと少ないでしょうし、地方によっては駅前よりは駅から離れた旧市街地の方がよほど発達している地方都市が、今は随分減っていますが沢山ありました。

 闇市を発祥基盤とする駅前商店街というのは、今日、面影が無くなっているので、ほとんど分からなくなっていますが、かなりの数あると思われます。東京の新宿、池袋、渋谷の今のおしゃれな繁華街も闇市が基盤ですし、恵比寿や吉祥寺には、かつての闇市や市民市場の面影を、濃厚に持っている地域があります。まぁ、恵比寿の場合は今は消えているに近いでしょうか。

 では戦前の商店街はどこにあり、どうなっていたかがあります。先の地方都市のように繁華街が鉄道とは無関係の旧城下町にあった、あるいは街道筋の要衝、港の近郊に広がっていたということがあったように、江戸時代の繁華街は日本橋が現在でも語り継がれるように旧問屋街を中心としたものであったと思われます。

 江戸時代は商店街よりは、棒手振りと呼ばれる行商人達が長屋を巡って商売をしており、店舗を構えての「小売専業」は極めて少なく、小売をしていても問屋業の一部の場合がほとんどでした。

 問題は明治以降というか、大正期に入って、大量に登場する事業主、ブルジョワジーであり、その配下で働くサラリーマン層のために建設される新興住宅地です。その話は次回に。

この記事に

[ すべて表示 ]


.


みんなの更新記事