流通の歴史と未来のブログ

食品流通は凄く面白い世界です。昔・今・未来を語りたい

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近代化 8

 「なぜ豊かな国と貧しい国が生まれたのか」という本にイギリスがインドの事を幕末、つまりは19世紀半ばくらいの時期には工業国として考えていたという記述があります。
 今では信じ難い事ですが、綿に関する工業、綿花から紡績、綿織物生産について世界的に圧倒的な地位を得ていた事です。これが19世紀の終わりくらいには、我々が知っている貧しい農業国に転落して行くのは、産業革命による機械化に因るものである、つまりはコストと品質競争に敗れる事によって生じているのです。産業のグロバールな競争の勝者と敗者です。

 この本の著者は、設備機械の投資コストと人件費の問題として説明しています。つまりインドは低賃金の大量の労働者がおり、紡績機や織機に投資するインセンティブが働かず、それが均衡する様になった時には、もはや手遅れで製綿にしろ、機織りにしろ、伝統産業の壊滅=紡績や織物生産からの消失を余儀なくされ、人手が頼りの綿花生産に偏って行く事になったとのことです。

 日本の場合は、欧米から高価な最新式の紡績機、機織り機を購入することで活路を開くのですから、インドや中国でも日本のようにすることはできたでしょうが、そうはならなかったのは、既得権益層の工場主、多くは貴族でしょう、が低賃金労働で対応する事を選択したからにほかなりません。

 機械に熱中した人々というのは、かつて武士だった人々や、幕末から明治にかけて欧米に旅行した人々が目のあたりにした産業革命以降の世界であり、従来の綿関係の従事者は多くなかった事が大きいのでしょう。そして日本人の好奇心の強さもあり、世界に追い付こうとするエネルギーがそうさせたのでしょう。

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近代化 7

 「なぜ豊かな国と貧しい国が生まれたのか」という本を以前にも紹介しましたが、この本も図書館に返す日が来ましたので、ちょっと順番が違うのですが、如何にして先行するイギリスを他のヨーロッパ諸国がキャッチアップしたのかという話をメモ代わりに書いておきます。

 この本によればキャッチアップの政策は基本的に四つの政策によって行われたとあります。①内国間税の廃止と国内交通インフラの建設による国内市場の統一、②イギリスとの競争から自国の産業を保護するための対外貿易関税の設定、③通貨を安定させ、産業投資資金を供給するための銀行の設立認可、④労働力人口の質を高める為の大衆教育の実施。

 この四つの政策を実施することによって先進国、豊かな国になって行くことができたとありますが、さて日本はどうであったのか、他のアジア諸国はどうであったのかを考えるのです。

 内国間税というのは、分かり難いかもしれませんが、我が国の藩は他藩の物産を流入を防ぐために藩境で関税を取る事はしておりませんから、むしろ戦国時代以前の街道などで関所をもうけて、通過する物品に関所代を払わせていた事例の方が分かりやすいでしょう。
 そういう意味では織田信長の楽市楽座制度から始まる江戸時代の商業は既に統一市場が形成されていたというべきでしょう。
 この四つの課題の中で明治政府が手掛けなければならなかったのは、関税自主権を喪っていた不平等条約と、産業に資金を供給する銀行制度であったことは確かです。そしてこれが非常なる困難を伴っていたことです。

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獣医

 加計学園問題というのは、学校の話だろうと思って、あまり考えてもいなかったのですが、この間の国会中継で前川ではなく、その前の文科省事務次官の加戸さんの話をネット上でみて、ようやく理解したのです。それで私の知っている話に繋げる事が出来ました。

 話は韓国発の民主党政権下での宮崎県での狂牛病騒ぎに端を発しているそうです。あの時は獣医が不足して大変な騒ぎで、獣医学部は出たけれど、獣医の仕事をしておらず、何年も研究職をしていた私の友人にまで動員がかかり、向こうに出張に行っていました。

 獣医の世界はそれほど知ってはいないのですが、世の中の変動に大きく左右されてきました。獣医は軍馬という存在から国家的な役割から始まりました。馬は軍における移動手段でもあり、戦闘にも重要な役割もあったことから、いわば獣医はエリートでした。ですから大いに尊敬され重視されていました。

 戦後、軍馬の需要はトラックの出現、地上戦がタンクが主力になったこともあって、海外においても消失します。我が国では戦争放棄ということもあって消えます。
 そうなると獣医は平和利用、食肉や酪農関係になり、昭和40年代までは、そういう職場に、農村部に配置されました。それが昭和40年代も後半になると、一大ペットブームが起きてきて、それまでの馬とか、牛とか、豚とか、羊といった大型哺乳類から、猫とか、犬とかの小動物を扱う、いわゆるペット医というのが獣医の有力というか、金儲けの一番の対象となるようになりました。

 私の中学時代の友人が近くの獣医大に入学したのですが、仲間内では、随分変わっているというか、大丈夫かなぁと思われていたのですが、昭和40年代の終わりくらいだろうと思うのですが、ペット医になり、同級生の誰よりも金持ちになってしまいました。何か見通しがあった訳ではなく、たまたまの運ではあったのですが・・。

 まぁ、それはともかく獣医大を卒業した人は今では相当量がペット医になっていると思われます。牛・豚・馬を扱う獣医は極めて少ないのは収入の面からも、我が国の畜産業が海外の巨大生産国、オーストラリアとか、アメリカとか、南米の国々からの攻勢を受けている現状からすれば、将来的にも相当に厳しいものと言わざる得ない状況は理解できるでしょう。

 牛・豚・馬を扱う獣医は彼らの病気を診断し治療を行うだけではありません。獣医は屠殺場において一匹一匹を診て病気などがあった牛豚を出荷させない立ち会い検査が法律で定められており、屠殺場の屠殺時間は獣医の勤務時間によって規定されているのです。

 もう記憶があいまいになっているのですが、確か9時から15時くらいで、昼休みもあったような・・・ちょっと曖昧ですが、実質、5時間もなかったように思います。そうなるとそれ以外の時間帯15時過ぎに搬入しても、翌日回しになります。屠場の方でいくら合理化を図ろう、処理頭数を増やそうとしても、獣医さんの都合が優先され、どうにもならないという経験をしたことがあります。

 獣医というのは、特権的というか、権威ある存在で、医師以上に既得権益化している所があり、その権益を守ろうとする人々がいることは間違いない話です。獣医を増やすまいとする勢力があって、岩盤規制とも言われるような状況も、何となく想像できるのです。

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近代化 6

 日本の近代化というか西欧列強との最初の接点の状況というのには、いくつかの幸運を持っていた事は事実でしょう。欧米からはるかに遠く隔たっていたこと、欧米が我が国に到達するまでに中近東、インド、東南アジア、中国というヨーロッパ列強にとって、貪るのに十分なほどの富を抱えた国々があったということは大きかったでしょう。

 おして我が国は江戸時代というヨーロッパと近似した封建制という政治体制を確立しており、中央集権に向かって容易に国内統一が可能であったことはやはり大きいでしょう。そして近世の江戸期は大変な商業の隆盛期であり、いろいろな規制があって充分な発展ではなかったけれど工場制手工業の萌芽も、科学技術への関心も庶民レベルにまで下りていた事、教育がヨーロッパ以上に普及していたことがあったでしょう。

 そして何よりも幕府の役人たちも、権力を握った薩長の連中にしろ、他の植民地化して行く国々に比べて、愛国心もあり、強い危機感もあり、不正のレベルも低く、自身の栄華を誇ることも少なかったことも大きかったでしょう。

 この紡績という話でも、軽工業から出発できた、軽工業の力で世界でも認められる存在にまで上がれたのは大きかったでしょう。
 我が国は綿の生産において、綿花から国産にしようとしたのではありません。正確には分かりませんが、明治に入る頃には中国やインド綿によって綿花生産は壊滅的な状況ではなかったと思われます。そこで綿花を輸入し、紡績によって糸に仕上げる工程に特化して行く形です。
 そのために欧米から最新鋭の紡績機械を導入することで、最小のコストを実現し、中国産、インド産の綿に対抗する以上に、すぐさま輸出に向かって行くのです。
 ここには遅れてきた国の強さが発揮されています。つまり先進国のイギリスでは最新の機械を導入が遅れ、コスト高を放置したが故に、没落する事態を招くのです。

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近代化 5

 余計な話かもしれませんが、幕府が欧米列強と締結した不平等条約は関税の自主権を持たなかったという一大欠陥であった訳ですが、ただ、外国人が我が国の都市などの資源や資産を入手することは禁止したという意味では、優れていたという説があります。確かに明治以降も外国人が国内を好き勝手にやられることはなかったという意味では幕府の役人たちも間違った部分もあったけれど、頑張ったところがあったのでしょう。

 貿易赤字の累積は植民地化への道でしたから明治政府も何よりも強く推し進めなければならない政策であったのでしょう。富岡製糸場はいわば国営の企業でしたし、何も分からない状況の中ですから、いくらお雇い外国人の助けがあっても、当然のように赤字であり、ここから輸出が始まるほど甘くはありません。

 近代化という意味では、中国でも、他のアジア、中近東諸国でも、海外の技術により国の手によって工場が建設されることは、よくある手段です。それが何故、近代化に進むことが困難であり、先進国をキャッチアップできなかったのかという問題があります。

 日本では、工場建設後の赤字を見て、当時でも問題視された民間への工場の払い下げが行われます。金を持った連中が、できあがった最新設備の工場を二束三文、ただ同然の金で手に入れる、そしてこれがやがて財閥として形成される、当然のように政府との癒着、賄賂の大きな一歩となるものです。

 それでも国営工場の赤字を続けるのよりもはるかにマシな政策だったのでしょうし、手に入れた起業家達は果敢に事業を展開して行く形になります。というのも初期の投資費用が極端に小さかったのですから、減価償却費用も投資の金利も無いですから、より強力な世界の最新鋭の機械設備を積極的に導入し、その力で海外綿の品質もコストも優位性を確保することができ、一挙に反転し、輸出に踏み出して行く形になった事です。

 果敢な経営者を社会から吸い上げたという意味では、やはり特段の意味があったのでしょう。身分制が壊れた結果、意欲ある若者たちが、国を背負い、危機を乗り越えようとしたところに明治の強さがあり、我が国が他の植民地化した国々と大きく異なるところだったのでしょう。どこよりも社会変革のエネルギーが充満していたのでしょう。

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