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中国生活の日記
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今回から紀元前二世紀です。『中国歴史年表』から概略です。
 
前二世紀
西漢王朝が中国を蘇生させるのと同時に、北方の蛮族・匈奴汗国が台頭する。漢王朝は匈奴の南下侵略を防ぐために、防御を兼ねた戦争を繰り返す。
今世紀60年代、西漢政府は儒家思想を唯一の正統思想に定める。この影響は凡そ二千二百年の長きにわたり、紀元後二十世紀の中国に至る。
 
紀元前二世紀は高祖の晩年から呂后執政、文帝・景帝の休養の時代、そして西漢の黄金時代を築く武帝の時代です。
 
 
まずは第一年目を『中国歴史年表』からです。
 
200年(辛丑)
西漢高祖七年
長楽宮が完成する。
儒生叔孫通が朝儀を制定し、皇帝の威厳を高める。群臣は恐倶し、劉邦は大いに喜んで叔孫通に黄金五百斤を下賜する。
叔孫通は黄金を全て弟子に分け与え、皆「叔孫通は聖人だ」と褒め称える。
 
長楽宮の建築は前200年に始まりました。
高祖七年冬十月(十月は歳首)、長楽宮が完成します。群臣が長楽宮に集まり朝賀の儀式が始まりました。
 
もともと高祖は秦の規則を簡素化したため、群臣が集まって宴を開いた時も無秩序状態で、怒鳴ったり剣を抜いて柱に斬りつける者もいました。
高祖はその状態が気に入りません。そこに叔孫通が言いました「儒者とは国を興す時には役に立ちませんが、国を守る時には役に立つものです。私が魯に行って儒者を集め、儀礼を定めましょう。」
高祖は叔孫通に簡素化した決まりを作るよう命じました。
 
叔孫通は魯に行くと儒者三十余人を集めました。しかしその内の二人は叔孫通に同行することを拒否します。二人が言いました「あなたは今まで十人も主を変え、その都度、阿諛して富貴を得てきました。今、天下は平定したばかりで死者の埋葬も負傷者の治癒もしていません。礼楽とは百年の徳を積んでから初めて興るものです。今、礼楽を制定するのは無理です。あなたは古の決まりにも背いています。あなたのために働くつもりはありません。」
叔孫通は笑って言いました「あなた達は時代の変化を理解できない、時代遅れの堅物ですね。」
叔孫通は三十人と共に西に帰ると、群臣に儀礼作法を教えました。
 
そしてこの年、長楽宮の朝賀です。
功臣・列侯・将軍・軍吏が西に、丞相・文官が東に秩序正しく並び、高祖が席に着くと、諸侯王以下、順番に奉賀します。
儀式が終わり酒宴が始まると、順に寿を祝います。
宴の間、参加した者は礼儀に欠けることなく、始終皇帝の尊厳が保たれました。
高祖が喜んで言いました「朕は今日初めて皇帝の尊貴というものを知った。」
叔孫通は太常に任じられ、金五百斤が下賜されました。
叔孫通が言いました「魯から来た儒生達は臣に従うこと長く、共に儀礼を定めるために働きました。彼らにも官職を与えていただきたいです。」
高祖は儒者達を郎に任じました。
叔孫通は下賜された金五百斤を儒者達に配りました。
儒者達は喜んで「叔孫先生はまさに聖人だ。今何が最も必要かをよく理解されている」と褒め称えました。
 
冬、高祖が前年匈奴と結んだ韓王信を攻めます。『中国歴史年表』からです。
 
劉邦が韓王韓信を攻める。
韓信は敗れて匈奴に奔る。
 
この戦いを『中国歴代戦争年表』からです。
 
漢が韓王信を攻める 馬邑の戦い(後)
劉邦は自ら三十万の兵を率いて北上し、韓王信を攻めた。
漢軍が鋼鞮に至ると、韓軍は敗れて王喜が殺された。
韓王信は晋陽に逃げたが、また漢軍に敗れた。
別路の漢軍は馬邑を奪回し、劉邦は晋陽に駐軍した。
 
韓王信は漢軍に敗れて匈奴に奔りました。
その頃、曼丘臣、王黄が戦国時代の趙王の後裔・趙利を探して王に立て、韓王信の残兵を集めると、韓王信と連合しました。匈奴も左賢王、右賢王に万余の騎兵を与えて王黄と合流させます。韓王信・王黄・匈奴の連合軍は晋陽に入りました。
しかし漢軍に敗れて北に逃げます。
 
漢軍は韓王信等の連合軍を追撃しました。
季節は雪が降る頃です。漢軍士卒の十人中二三人が凍傷のため、指を失いました。
 
高祖が晋陽に入りました。匈奴の冒頓単于が代谷に駐留している、という情報を得ます。
高祖は偵察のために匈奴に特使を送りました。
冒頓は精兵や肥えた牛馬を隠し、老弱な兵や痩せた家畜を見えるところに配置しました。
漢の使者は十人来て十人とも、匈奴は弱いと報告しました。
高祖は劉敬(婁敬)を派遣します。
劉敬が帰る前に高祖が兵を出しました。
劉敬は高祖に合流すると言いました「両国が対峙した時、普通なら強い所を見せて相手を威嚇するはずです。しかし臣が見たのは老弱な兵と痩せ衰えた家畜だけでした。かならず伏兵があります。」
この時、漢軍はすでに出陣しています。高祖は怒って劉敬を捕えました。
 
こうして始まったのが白登の戦いです。『中国歴史年表』です。
 
劉邦が勝ちに乗じて追撃するが、匈奴が白登(山西定襄)で劉邦を包囲する。
劉邦は陳平の秘計で包囲を解き、生還する。
 
一連の戦いを『中国歴代戦争年表』からです。
 
漢・匈奴 平城白登の戦い
200年 漢高帝七年
漢高帝六年九月、匈奴冒頓単于が韓王信と連合して南下し、太原郡を攻め、晋陽(山西太原西南晋源鎮)に至った(ここまで前年)
七年十月(漢は十月を歳首としているので、六年九月の翌月は七年十月)、漢劉邦は三十二万の兵を率いて反撃した。
冒頓は精鋭を隠し弱いふりをして漢軍を誘った。
劉邦は匈奴軍を軽視して進撃を進め、平城白登山(山西大同市東北三十五里の採掠山南麓)に至った。
そこで匈奴精鋭騎兵四十万が漢軍を包囲し、七日間、漢軍は孤立した。
劉邦は陳平の計を用いて冒頓閼氏(匈奴の皇后)に賄賂を贈った。
閼氏が冒頓を説得したため、匈奴は包囲を解き、劉邦は南に走って平城(大同市東五里の大城村)で漢軍主力と合流した。
匈奴は漢軍の主力が到着したのを見て、北に還った。
劉邦は樊噲に代を治めさせ、自身は兵を率いて南に還った。
 
漢軍本隊に先んじて高祖は平城に入りました。その後、自ら白登山に登ったところを、匈奴軍に包囲されました。
孤立した高祖は七日間、漢軍との連絡が取れず、困窮します。
陳平が秘計を授けました。冒頓単于の正妻・閼氏に賄賂を贈って冒頓を説得させました。
 
この秘計の内容を『史記・陳平世家』は「世莫得聞」と書いています。「世に知られることはなかった」という意味です。
しかし『史記・陳平世家』の注釈には細かい内容が書かれています。『漢書・高帝本紀』の注釈にもほとんど同じ話が紹介されています。二つを合わせるとこういう話になります。
陳平は閼氏に使いを送り美女の絵を見せてこう伝えました「漢には美女がたくさんいます。もしもこのまま包囲が続いたら、漢は単于に美女を贈るでしょう。単于は漢の美女を気に入り、あなたを遠ざけるはずです。そうなる前に漢の包囲を解くべきです。」
それを聞いて閼氏が単于に「今、漢の地を得ても統治することは困難でしょう。両国の君主がお互いに傷つけ合うべきではありません」と説得しました。
閼氏の嫉妬心を利用して包囲を解かせた方法が卑怯なので、大国漢の体面を損なう恐れがあり、「秘計」として語ることがなかったと『資治通鑑』胡三省注や『漢書・高帝本紀』の注釈に書かれています(『資治通鑑』注原文「以其失中国之体,故秘而不伝」。『漢書・高帝本紀』注原文「鄭氏曰;以計鄙陋,故秘不伝」)。
 
冒頓単于は包囲の一角を開きました。すると、ちょうど大霧が出てきました。
漢軍はその隙を衝いて包囲を突破し、平城に入りました。
 
その後、高祖は樊噲に代の地を平定するように命じ、自身は広武に帰ります。
そこで捕えられていた劉敬に言いました「朕は公の言を用いなかったから平城で包囲された。」
劉敬は二千戸が与えられ関内侯に封じられます。劉敬の前に使者として匈奴の陣に行った十人は殺されました。
陳平は曲逆侯に封じられました。
 
十二月、匈奴が代を攻めました。『中国歴代戦争年表』です。
 
匈奴が代を攻める
200年 漢高帝七年
漢高帝六年(前年。前201年)劉邦が兄・劉喜を代王に封じた。
(本年)漢軍が兵を退くと匈奴の大軍が代を攻め、代王は敗れて国を棄て漢の内地に帰った。
代の地は匈奴の支配下に置かれた。
 
高祖六年に劉喜が代王に封じられ、本年(高祖七年。前200年)、匈奴に敗れたというのは『漢書・高帝本紀』の記述です。『資治通鑑』もこれに従っています。
しかし『史記・高祖本紀』では本年、樊噲に代平定を命じた時に劉邦の兄・劉仲を代王に封じ、翌年(高祖八年。前199年)に匈奴に敗れた、としています。劉仲は劉喜のことです。
 
『漢書・高帝本紀』と『資治通鑑』によると、劉喜が代から逃げた後、劉邦の子・劉如意が代王に封じられました。呂后ではなく戚夫人が生んだ皇子です。
劉如意が代王に立ったのは「辛卯」としていますが、新世界出版社『文白対照全訳 資治通鑑』には「この年の十二月に辛卯の日は無い」と注釈が書かれています。
 
春二月、高祖は長安に帰りました。
当時、䔥何が未央宮を建造しました。高祖はその壮麗な建物を見て怒りました「天下は長年の騒乱で苦しみ、まだ不安定な状態だ。なぜこのような宮殿を建てるのか。」
䔥何が言いました「天下がまだ不安定だからこそ、このような宮殿が必要なのです。天子は四海を家にするものです。宮殿が壮麗でなければ威厳を正すことができません。」
高祖は䔥何の説明に満足し、喜びました。
 
夏四月、高祖は洛陽に行きました。
 
 
翌年、韓王信の残党を討伐します。
 
 
今回の画像は『関中勝跡図志』から長楽宮と未央宮です。
 
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    [ jsr2822b5z00z29 ]

    2012/8/23(木) 午後 5:59

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    中国は国内を統一したとて、周辺の脅威はまた別問題。
    統治者は内に外に大変ですねぇ^^;
    内憂外患ってやつでしょうか。
    画像の図を見ると、想像が膨らんで楽しいですね^^

    [ のぶ ]

    2012/8/24(金) 午前 11:59

    返信する
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    のぶ様、そうですね、中国の場合、大陸なので外の脅威が陸続き。
    この辺は、日本と違う所ですね。
    統治者は大変ですが、中国史のスケールを大きくしてくれます。

    地図とかこういう建物とかって、想像力をかきたてて面白いですね。
    こういうものを残してくれた昔の人に感謝です。

    [ タニオ ]

    2012/8/24(金) 午後 0:05

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