日記

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

選句の巾

 12月14日(火)
 けやき句会。
 筆談のペン先に影実千両       柾子
 冬ざれるオランダ坂に石の反り   洋子
 独居の北窓塞ぐ皮コート       花恵
 恋人は車のようで冬ざるる     満智子
 冬ざれる右往左往の町明かり    佐代子
 京都一望多宝塔から冬ざるる    幸子
 天上の高い一の間冬ざるる      敦子
 冬ざれの地平を祀っており入り日   恵子
  湯豆腐を突く笑顔に笑顔受け       純代
 冬の霧やんちゃ役者は被害者か 喜代子
 妖精のようにラテンを北の冬     陽江
 死生観覆される冬夕焼         興子
 
 それぞれ自分の「風(ふう)」があってよいのだが、そこに甘んじると怖い。難しいところだ。どこまで選句の巾を広げるかが難しい。
 
 
 午後は、創立30周年記念俳句大会の準備会。募集作品を整理した。依然として出足がよくない。
みなさん、上位を目指して推敲中であることを信じよう。
 
 12月15日(水)
 柊の会。
 曲がり角全部奇蹟にして聖夜  唯子
 ざわざわと悪を悲しむ榊の実  礼子
 鯛焼の尻たっぷりと暖まる    三枝
 傘さすもささずも予報冬鴉    郁子
 
 連日の句会で少し疲労がたまっている。そのために私の選句の巾が狭くなっているかもしれない。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

開く コメント(0)

松澤昭氏を偲ぶ

 12月13日(月)
 来年の軸の表紙にする版画を印刷所に届ける。
 昼より大手町の東京會舘で「故松澤昭先生を偲ぶ会」。松沢昭氏は、前現代俳句協会会長。11年前、父の葬儀では弔辞を読んで頂いた。
 蛇笏の門に入り、「秋」主宰を経て「四季」を創刊した松澤昭は、80年代に大きく作風を変える。リアリズムから心象詠に、そして言葉の構築へと向かい、独自の言語世界を作り上げた。
 以下、平成13年に「俳壇」誌に書いた拙文。
-------------------------------------------------
松澤 昭(四季)
 たしかにまだ日本語は面白い。そう思わせる。
  秋麗をとりちらかして上機嫌        昭
  ありばばのまなざし雪に振りたるか   昭
 「ありばば」は、「アリババ」から「在り婆」まで様々なイメージを雪原に現出させる。こうした作用の価値についてはJ・レイコフの『認知意味論』でも読んでいただきたい。俳句とは、言葉の不思議を噛みしめるものでもあるのだ。
--------------------------------------------------
 次のは同じく平成13年に、「俳句年鑑」に書いた拙文。
--------------------------------------------------
松澤 昭        大正十四年三月六日生
朗々とたけのこめしのおぼしめし    『俳句研究』7月号
山笑う鬼のお出ましありさうな      『俳句』5月号
ばばさまの種蒔いてゐるころかしら     『俳句』5月号
 これは口語でも文語でもない独自の言語である。強いて言えば昔の口語であろう。劇作家木下順二が民話劇のための独自の方言を作り出したように、松澤昭も俳句のための言語をひとつ作り出してしまった。それ自体が大きな仕事である。
--------------------------------------------------
 現代俳句の心象派、言語派として、新たな側面を切り開いた人であった。
 
 凩や馬現はれて海の上    昭
 
 凩の騎手の並足沖に去る   敏
 
 
 
 

開く コメント(0)

叔父のことなど

 12月12日(日)
 軸の本社例会。新人が増えたが、来られなくなった人も多い。ここのところずいぶんメンバーが入れ替わった。
 
 奔放な小石霜夜の胸に落つ       保子
 ペンギンの群れに胸に駅長十二月  めぐみ
 両耳を立て就活の雪兎         由紀恵
 
 三句目は、孫の就職が決まっての句ということだが、うまいことをいうものである。孫とも、就職が決まったとも言わず、ただ孫の苦労を客観的に見つめ、メタファーで写生し、しかも愛情がにじみでている。文学だなあと思う。身辺詠はこうありたい。
 
 夜、叔父が危篤という知らせがあった。福生の病院へ急いだが、間に合わなかった。最後は少し苦しんだということだったが、安らかな死に顔であった。
 子どもの頃は、あちこちに連れて行ってもらった。蓼科の叔父の別荘で一週間暮らしたこともあった。洋弓も乗馬もこの叔父に教えてもらった。感謝のほかない。
 
 暁闇の枯野へ鞭を入れる騎手  敏
 

開く コメント(0)

句会

 12月11日(土)
 午前中は樟の会。男性二人はまだ初めて間もない。
 野の匂いさせて十一月の雨    保子
 椅子のない机は怖い夕時雨   ひろ子
 究極の美は黄落の一葉にも    澄子
 築百年隙間風にも道がある      豊
 落ちてこそ明日に繋ぐ山紅葉     収
 右脳など疾っくに空っぽ小六月  けい
 
 午後はかしわ句会。軸でもっとも古くからある支部だがメンバーは大きく替わった。50代が二人入ってきて頼もしい。
 耳からの童話が紡ぐ冬の夜   益江
 日溜りに銀杏落葉の免罪符   伸桂
 駅ビルの店また一つ閉じ初冬  章子
 故もなきいかりを白き大根へ   敦二
 冬至来る正午が作る影の位置  智介
 鶏頭の固き頭を慰める       寿一
 ひと言の電話で別れ寒椿    はるゑ
 
  
 
 

開く コメント(0)

「軸」

 12月10日(金)
 軸1月号編集会。新年俳句大会の計画も練る。夕方は、来年の色紙のために守谷の斎藤澄子氏宅へ。すばらしい版画をお借りする。乞うご期待。
 軸は、昭和42年に創刊された。私が高校2年のことである。井上富月、河合凱夫(私の父である)、井上純郎、鈴木昌平らが集まって、「東虹」を離れ、同人誌「軸」を発刊したのである。
 昭和47年、その軸は、河合凱夫を主宰とし、「麦」の中島斌雄を師系とする結社誌に生まれ変わった。
 私が軸の活動にはじめて参加したのはその年である。大学3年生であった。「リズム考」という俳句のリズム論を1年間連載させて貰った。俳句のリズムは、音節、音歩、単語、文節、五七五の句切れ、連文節などを単位とするポリリズムだというのが論旨であった。今も、基本的にはその考えに変わりはない。
 その後の10年は、幾度かとびらの詩を書いたり、エッセイを寄稿したくらいで、ほとんど軸に関わってはいなかった。仕事に専念していたのである。
 ところが昭和60年、体調を崩して入院し、2ヶ月間療養休暇をとるはめになった。そのとき父が、また何か書いてみないかと進めてくれたのである。それがきっかけで、子規のことなどを書き始めた。また、パソコンに手を染めたのがきっかけで、軸を発送するための宛名シールの担当なども引き受けていた。
 平成11年の春、突然父が、俺が死んだら軸を引き受けないかと言ってきた。当時は、俳句評論に専念するつもりでいたので、俳人になるつもりはない、まして主宰などとんでもないと断った。父の体調が何となく悪そうだったので、弱気になっているな、とは思った。前年の12月から、咳が止まらなかったのである。
 平成元年、父は腹部大動脈瘤で緊急入院し、8時間の大手術で人工血管を入れていた。だから血圧を上げてはいけないと言われていた。咳が続くという状態は体によくないはずであった。
 私はそのとき『子規の近代』を本にしようとしていた。これは急がなければ、と思った。
 7月29日の朝、父は倒れ、帰らぬ人となった。7月30日発行の『子規の近代』は、その一週間前に自宅に届き、父はそれを1000冊買い取って軸の仲間や知人に送ってくれた。
 子どもの頃、父に遊んで貰った記憶はほとんどない。仕事にも熱心で、休日は俳句三昧の人であった。だが結局、父に導かれて生きてきたような気がする。あのとき、主宰を引き受けると言っておけばよかったと思う。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

開く コメント(4)


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事