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今回はベートーヴェンについて考えてみます。
大分前に、NHKのスーパーピアノレッスンでベートーヴェンの「ピアノ協奏曲全曲」をやると言うことを知り、おさらいすることにしました。
では誰の演奏でさらってみるかとなり、選んだのがポリーニです。
他にはブレンデルの全集などもあったのですが、私にとって魅力的なベートーヴェンとなると、やはりポリーニなのです。
「楽聖」ベートーヴェン。・・・これがそもそも間違いの始まり。
孤高の人? 悩める偉人?
ベートーヴェンの曲を「神の音楽」と崇め、無味乾燥な演奏を重んじます。決して魅力的に、スリリングに弾いてはいけません。つまり、演奏が緩いというか、ぬるいのです。
例えば、ピアノソナタ「熱情」などは、激しく弾きまくると「低評価」となります。
そもそも、ベートーヴェンがピアノメーカーに「もっと大きな音を」と注文を付け、出来上がったピアノで「大音量で弾きまくる」曲に仕立てたのが、この曲「熱情」。
当時センセーションを巻き起こし、世の若者が競って大音量で弾きまくり、大人たちが「品がない」と眉をひそめたと言います。
丁度「エレキギダー」が登場した時と同じようなものなのでしょう。ですから、そのように弾くのがベートーヴェンの本意であり、自らもそうしていた。そう思うのです。
「楽聖」ベートーヴェン。
何かが違ってしまっている、誰かが意図的に歪めてしまっている。そう思わざるを得ません。
しかし、不思議なことに管弦楽の曲では様々な演奏が評価されています。
トスカニーニ、フルトヴェングラー、激しくても評価されていますよね。この「楽聖」認識による歪みは、こと「ピアノ曲」に限られるようです。
さて、当時この前代未聞の「大音量曲」もさる事ながら、ベートーヴェンは人をアッと驚かせるような、最先端の「一発芸」が大好きでした。
今で言えば「つかみはオッケー!」的な、強烈なインパクトを生み出す“天才“だとも言えるでしょう。
どうしても神格化したい人達は「ベートーヴェンは客に媚びなかった」と言うでしょう。しかし、それは大きな間違いです。
彼ほど「客受け」を狙った作曲家はいないのです。それは曲を聞けばすぐに分かります。
主立った所で言うと、まず“交響曲第3番”では、始まって7小節目で思わずズッコケてしまう様な、音のズリ下げを行います。こんな不安定な音の運びはこれまでありませんでした。
また、第5番では有名な「ジャジャジャジヤーン」。
この動機一つで曲紹介が出来るほどのインパクト。こんな曲、21世紀に入った今でも他に見あたりません。
そして第6番。ここでは、始まってたった2小節で曲が止まってしまいます。
山口百恵の「プレイバックパート2」も真っ青。それを1世紀半も前に行っていたのですから、プレイバックなど目ではありません。
続く、「のだめカンタービレ」で一躍メジャーになった第7番ですが、ここでは曲が進むにつれてどんどん楽器が減って行き、ついにはたった1本だけの演奏となります。
逆のパターンはよくありますが、こんな曲は初めてです。
さていよいよ第9番。
ここに至っては、大人数の合唱隊を待たせたまま延々と小難しい音楽を拷問の様に聴かせ続けます。
これは中傷ではありませんよ。甘美に聞こえる方が少数派なのです。
勿論ベートーヴェンですから陳腐な音楽ではありませんが、それにしてもこれまでの交響曲と比較すると、メロディーが小難しい。
しかし、そこがベートーヴェンの狙いなのです。
散々退屈という苦痛を与え続け、最後の最後に“子供でも覚えられるメロディー”の大合唱で、溜まった鬱憤を一気に爆発させるのです。
これは心理学的にも非常に有効な「緊張と緩和」。「ストレスの溜め方と、その解消方法の極地」であると言えます。
とにかく、彼はあらゆる手練手管で聴衆の心理を突いてくる「アイディアマン」でありました。
しかしまあ、あの肖像画は一体何なのでしょう。全くいただけません。
あれではどう見ても「孤高の悩める人」です。
ですが、もしそれも彼の「戦略」のひとつであるとしたならば・・・。
うーむ、ベートーヴェン恐るべし。完全に脱帽です。
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