クララ・シューマン

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実像のクララとは一体どの様な女性だったのでしょう。
ソナタから協奏曲を聴く限り、なよなよした女性とは思えません。
そもそも父親に対して裁判を起こした程ですから弱くはありませんが、かと言って強靱な神経の持ち主とも思えない。
その当たりのギャップがまた男の心を掴むのでしょう。

幸か不幸か私はこの時代に生まれました。クララと出会う程の才能など持ち合わせてはいませんが、もしまかり間違ってブラームスの様な境遇であったとしたら、やはり彼と同じ様な道をたどったでしょう。
そんな妄想を携えながら、シューマン亡き後の人生に思いを巡らせるのです。

ピアノ協奏曲 作品7

https://www.youtube.com/watch?v=bt_X-t1mX40

この曲は、1833年から1835年(クララ14才〜16才)に作曲されました。
今で言う中学生です。初々しいではありませんか。
これを大家の円熟した協奏曲と比較するのは野暮というもの。クララの少女時代を想像しながら聴くのが正しい聴き方です。

この曲が作られたのは、プロデビューしてロベルトとファーストキスをする前、天才の名声を手にして明るい未来を約束された頃です。
どうです? 光輝いていると思いませんか?

この後、毎年のような出産と演奏旅行に忙殺され、おまけにロベルトの病気が発症します。
ロベルト亡き後のクララは半分抜け殻状態だったのでしょうから、このように沸き上がる「生の輝く音」はもう生み出せなかったのかもしれません。
合唱曲や歌曲、室内楽や管弦楽曲も書きましたが、この後再び協奏曲を書くことはありませんでした。

クララの人生を見て、もしロベルトと結婚せずに女流ピアニスト・作曲家としてそのまま歩いていたとしたら。成熟してからまた協奏曲を書いたなら・・・などと思ってしまいますが、そうなったらシューマンのシューマンたる曲が果たして生まれていたのであろうか。また、作曲家ブラームスが成功し、世に出たのであろうか・・・。
「もし」「たら」「れば」。これは歴史におけるタブーではありますが、空想の世界に誘う魔法の言葉でもあります。


※この記事は、年表とクララの日記から紐解いたもので、あくまでも全て私の想像です。

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クララの曲は「これでもか」「聴いてみなさい」「聴かせてやろうではないか」という気負いや押し付けがありません。また、「聴いてくれなくていい」といった突き放しや退廃的なものもありません。

才気溢れていながらどこか儚げ。情熱的でありながら献身的で奥ゆかしい。
自尊心が高くて自信家の男なら、ちょっかいをかけたくなるタイプであり、同時に自分を捨ててまで支えてあげたくなる女性でもあります。
男が持つ2つの本質的な部分、その両方をくすぐる女性。えてして世の男性はこういう女性に溺れてしまいます。その上才能までありますから、尚更のことでしょう。



ピアノ・ソナタ ト短調

I.. Allegro
https://www.youtube.com/watch?v=H72p6Qc0Tvo


III. Scherzo (leggieramente)
https://www.youtube.com/watch?v=v36PtZBFAu4


この曲は、1841年から1842年(クララ22才〜23才)に作曲されました。
第1子が生まれ、父と和解する間に書かれた曲です。
この頃は、ある意味「決意の時期」だったのかもしれません。
ソナタという形式からもそれは感じますし、曲も聴いていてそう思います。「クララ・シューマン」としてデビューした年という事もあるでしょう。

でも、ここからが激動の始まりです。
我々はこの後どうなるのかを知っていますが、二十歳を過ぎたばかりのクララには何も知り得ません。
だからこそ、この決意のソナタが胸を締め付けます。
人生とは、後で振り返るとそんなものなのでしょう。そんな思いを噛みしめながら、私はこのソナタを聴いてしまいます。

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それにしても、クララの作曲家としての書物や楽曲分析の資料が少ないです。
クラッシック全集などを見ても、シューマンは大きく載っていてもクララの名前はなかなか出てきません。
音楽家、特に作曲家としては忘れられているか、或いは認められていないのでしょうか。
これでは、ピアノファンでも「クララを聴いたことがない」という人が多いのも頷けます。これは非常に残念なことですね。

3つのプレリュードとフーガ 作品16

Prelude and Fugue Op.16, No.1
https://www.youtube.com/watch?v=cB_3Q6514YE

Prelude and Fugue Op.16, No.2
https://www.youtube.com/watch?v=qIgQnOqMo1A

Prelude and Fugue Op.16, No.3
https://www.youtube.com/watch?v=l2ONgmyf_wI

この曲は、1845年(クララ26才)に作曲・出版されました。
この年に三女が産まれ(第3子)、翌年4人目にしてやっと男の子が誕生しますが、その翌年に1才4ヶ月で死亡。
しかし、さらに翌年再び男の子が生まれ、その翌年にまた男の子。毎年子供を産んでいます。
ロベルトが入院するまでの14年間に8度の出産。
昔はみんなそうだったのでしょうが、大変だったでしょうね。

「クララ・ヴィーク」から「クララ・シューマン」に変わって初めてのコンサートを開いてすぐに第1子出産。
その後、毎年のようにお腹を大きくしながらヨーロッパを駆けめぐって演奏会を開いたと言いますから、肉体的にも凄まじいスケジュールだったに違いありません。
「子供は3、4人で十分」
クララはそう言い残しています。子供が好きだったのはロベルトの方でした。
それとも、自分が短命なのを知っていて、分身を一人でも多く残したかったのでしょうか。そしてクララもそれを受け入れた?
いや、この件に関しては私の憶測が過ぎた様です。


※この記事は、年表とクララの日記から紐解いたもので、あくまでも全て私の想像です。

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クララ。いや「クラーラ」の方がしっくり来る方もおいででしょうか。
とにかくクララに関しては、19世紀を代表する「超人気女流ピアニスト」という事で、熱狂的ファンの憶測や願望も働いたでしょうし、クララを題材にした映画や本の影響もあって偶像が一人歩きした事は否めません。
ブラームスとの恋愛関係も、何一つ証拠となる物が無い事から、単なる俗説であろうと専門家達は見ています。


音楽夜会 ノットゥルノ(ノクターン) 作品6−(2)
https://www.youtube.com/watch?v=CoTQq-3E90o

この曲は、1836年(クララ17才)に作曲・出版されました。
デビュー以来天才少女として人気を博し、演奏旅行が増えてロベルトと過ごす時間が増えたクララ。
前年の11月にはファーストキスをしてロベルトへの思いは募りますが、父の猛烈な拒絶に遭い二人は引き離されてしまいます。
結局ロベルトに会うことが出来たのは翌年なっての事ですから、クララの胸に募った思いは相当なものだったでしょう。この曲を聴くとそれがよく分かるような気がします。

ちなみに音は悪いですが、私はこちらのテンポの方が、よりクララの思いを感じます。
https://www.youtube.com/watch?v=c6gYwX5zaqA&feature=PlayList&p=952AA713A1B8F4FD&index=14&playnext=2&playnext_from=PL

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父ヴィークによって、手塩に掛けて育てられた愛娘クララは天才としてデビューしました。
そして、スターとして大きく羽ばたいた矢先に、よりによってうだつの上がらない青年とのロマンス。クララはまだ16才。
こんな二人の結婚など、父として許せるはずがありません。
私もフリードリヒ・ヴィークの気持ちが痛いほど分かります。

しかし、反対されるほどに燃え上がるのが恋。
クララとロベルト、そしてヴィーク。それぞれの立場になってその心を思うと胸が痛みます。
この問題は、いつの世も同じ永遠のテーマなのでしょう。


この曲は、1853年(クララ34才)に作曲されました。(出版はされず)
「ロベルト・シューマンの主題による変奏曲」と同じ年に書かれたわけですが、やはり聴いていると同じものを感じますね。

ロベルトの入院中、一度も見舞いに行かず「冷たい女」と言われもしましたが、そうではありません。実はロベルトの病気は「梅毒」の可能性があるのです。
指の障害、精神障害、そして死に至る。この病気は当時多かった梅毒、しかも「神経梅毒」と考えられるのです。
ロベルトは、結婚する前から既にこの病気を煩っていました。
多分、クララの父ヴィークは知っていたのでしょう。だから猛反対し、世間に知られないよう最後まで隠し続けたのだと思います。

何故梅毒がクララに移らなかったのか。それは、結婚した時にはもうロベルトの病気は人に感染しない3期に入っていたためだと思われます。
クララがロベルトの病気を知ったのは、入院して診察の結果が出た時だったのでしょう。
それからロベルトを思うあまりにクララは鬱状態になり、転地療養のために演奏旅行に出かけたのです。

クララが面会を申し入れなかったわけではありません。
現在でこそ3期での感染は無いと分かっていますが、当時はまだ感染力が高いと思われていました。ですから病院から断られたのだと考えられます。
そしていよいよ危篤の知らせを受け、ブラームスに促されるように最後の面会に行った時、ロベルトは「クララかい? 君の顔だけは分かるぞ」と言うのが精一杯だったようです。クララの日記にはそのように記されています。


※この記事は、年表とクララの日記から紐解いたもので、あくまでも全て私の想像です。

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