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最後に勝頼を裏切ったとされ、信長にも稀代の裏切り者として処刑される運命であった小山田信茂で有るが 一方、信茂を情に厚く忠義者だったとする文献も存在している。
果たして真実やいかに。。。。
信茂の反乱?!
天正10(1582)2月27日、勝頼の下に信忠の密書を持った信茂が参上する。信忠が武田諸将に当てた降伏勧告だった。残された忠臣達の中で信茂と共に密書を持参したのはもはや真田昌幸のみであった。信茂は裏切りの逆賊的に捕らわれることが多いが、その後、勝頼が3月3日、未完成の新府城に火を放ち府中を撤退した後、勝頼は信茂を信頼し、信茂は勝頼と行動を共にする。
道中、信茂の身内、小山田八左衛門尉行村が事態の急変に動転し、勝頼を迎える準備がままならないと使いを出し、信茂を一足先に岩殿へ連れ帰った。
しかし、行村以下城兵達はは穴山梅雪の策略に乗り、信茂を軟禁状態とした上、勝頼に弓を向けた。3月9日、笹子峠駒飼に行村が現れ、勝頼を欺き夜闇に紛れ人質だった信茂の母を連れて消えてしまった。
3月10日朝、信茂の謀反を知った勝頼一行は進退窮まり、日川沿いに大菩薩を目指し、天目山で討ち死にする事となる。
勝頼を仄めかしたとされる、跡部勝資(かつすけ)、長坂光堅(みつかた)両氏、武田譜代重臣秋山紀伊の守は殉死、土屋昌恒(まさつね)小宮山友晴、安部勝宝等が切り死に、特に土屋は片手千人切りと言われ、大奮闘の後討ち死にした。
※、戦後高坂昌信が書いたとされる甲陽軍艦では、勝頼、信勝(子)も見事切り死にしたとされるが、事実は定かではない。
信茂は戦後、信長への謁見の際、裏切り者の汚名を着せられ、甲府善光寺で自刃させられる。
果たして、信茂は不忠者だったのだろうか?裏切る前提のものが行き詰った勝頼に密書の存在をわざわざ教えに行くだろうか?否である。勝頼が大きな軍勢を持つ昌幸ではなく、信茂を信頼したのは、信茂の人柄なのではないだろうか?
信茂不在の折、梅雪の計略に乗ってしまった行村達でさえ、信茂や小山田家を思えばこその行動だろう。
歴史とは表面からでは解からないものである。
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僕は謙信派なので・・・
敵に塩を送る!
2012/3/20(火) 午後 9:05 [ him*wa*i*3232*00 ]
3232さん>謙信ですか〜 では川中島でお会いしましょう(笑
2012/3/22(木) 午前 10:39 [ jin ]