虫の館(新館)

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信松院

東京都八王子市に有ります。松姫(信松尼)様のお寺に行ってきました。
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八王子に逃れた松姫は家臣たちと糸を紡いで生計を立て、
下恩方に有る心源院のト山禅師により仏門に帰したとされて居ます。
その後、家康の庇護を受け、信松院を開山し、その穏やかな性格により八王子周辺に多く逃れた武田旧臣のよりしろとなり、連れて行った姫たちを立派に育てた様です。
和尚さんが居たら少しでもお話をと思っていましたが、生憎法要の最中だったらしくお話を聞く事は出来ませんでした。又伺いたいと思います。
期待していた松姫様の像は凛とした意志の強い表情をした小さいけれど立派な物でした。
墓標は簡素な物で驚きましたが、松姫様の人柄がうかがい知れますね。
そもそも、信松院の寺名の「信」の字は?の疑問が少しでも晴れればと思ってました。
武田氏供養の為、信玄、兄の盛信の信なのか?
婚約相手で敵の信忠の信なのか?
寺内を散策する中、男女が一緒に描かれた小さな石像を見つけました。
(お墓近くに有った為、写真は遠慮しましたが。。。)
エピソードの事、松姫様の人格を捉えると、信忠の信なのかもしれない。
いや、そうであって欲しいと思いながらの散策でした。
 
 

小山田の反乱

最後に勝頼を裏切ったとされ、信長にも稀代の裏切り者として処刑される運命であった小山田信茂で有るが 一方、信茂を情に厚く忠義者だったとする文献も存在している。
果たして真実やいかに。。。。
 
信茂の反乱?!
 
天正101582)2月27日、勝頼の下に信忠の密書を持った信茂が参上する。信忠が武田諸将に当てた降伏勧告だった。残された忠臣達の中で信茂と共に密書を持参したのはもはや真田昌幸のみであった。信茂は裏切りの逆賊的に捕らわれることが多いが、その後、勝頼が3月3日、未完成の新府城に火を放ち府中を撤退した後、勝頼は信茂を信頼し、信茂は勝頼と行動を共にする。
道中、信茂の身内、小山田八左衛門尉行村が事態の急変に動転し、勝頼を迎える準備がままならないと使いを出し、信茂を一足先に岩殿へ連れ帰った。
しかし、行村以下城兵達はは穴山梅雪の策略に乗り、信茂を軟禁状態とした上、勝頼に弓を向けた。3月9日、笹子峠駒飼に行村が現れ、勝頼を欺き夜闇に紛れ人質だった信茂の母を連れて消えてしまった。
3月10日朝、信茂の謀反を知った勝頼一行は進退窮まり、日川沿いに大菩薩を目指し、天目山で討ち死にする事となる。
勝頼を仄めかしたとされる、跡部勝資(かつすけ)、長坂光堅(みつかた)両氏、武田譜代重臣秋山紀伊の守は殉死、土屋昌恒(まさつね)小宮山友晴、安部勝宝等が切り死に、特に土屋は片手千人切りと言われ、大奮闘の後討ち死にした。
※、戦後高坂昌信が書いたとされる甲陽軍艦では、勝頼、信勝(子)も見事切り死にしたとされるが、事実は定かではない。

信茂は戦後、信長への謁見の際、裏切り者の汚名を着せられ、甲府善光寺で自刃させられる。

果たして、信茂は不忠者だったのだろうか?裏切る前提のものが行き詰った勝頼に密書の存在をわざわざ教えに行くだろうか?否である。勝頼が大きな軍勢を持つ昌幸ではなく、信茂を信頼したのは、信茂の人柄なのではないだろうか?
信茂不在の折、梅雪の計略に乗ってしまった行村達でさえ、信茂や小山田家を思えばこその行動だろう。
歴史とは表面からでは解からないものである。

松姫の話

地域の歴史を調べるうちに松姫逃避行の話に興味を持ち調べております。
間違い、ご指摘、異論などが御座いましたら上記メールアドレスまでお願いします。
 
興味を持ったのは松姫と信長の息子信忠との純愛についてです。
幼少期に武田ー織田間の政略として縁組されるも、文通から信忠と愛情を深め、お互いを信頼しあうようになるのだが、悲運にも双方の家は戦争へと向かっていく。
長篠の戦の後、信長は甲斐への侵攻の総大将として信忠を総大将に任命し、松姫の住む高遠の城に迫る。
松姫は実兄の盛信と別れ、甲斐新府城へと逃れその後武州八王子に逃避行をする事となる。
当時の八王子城城主北条氏照(武田氏と同盟)の庇護を受けたかどうかは解からぬものの(氏照は松姫にぞっこんで度々求婚していたという逸話もある)八王子で旧臣達と細々と糸を紡いで生活していた松姫だったが信忠は松姫のことを忘れられず、生存していると言う話を聞きつけると改めて嫁に迎えるため自ら甲斐に出向いたという。
その知らせを聞いた松姫は甲州上野原まで信忠を迎えに出るのだが、、
道中、信長の本能寺討ち死にの知らせを聞いた信忠は京都の二条城に急ぎ帰ってしまう。
待てど暮らせど来ない信成の替りに松姫の元に届いたのは二条城での信忠自害の知らせだった。
その後、松姫は徳川家康の庇護の下、出家し信松院を開山し、生涯独身を貫く事となる。
松姫を慕い八王子に集まった武田旧臣達は後に新撰組の基礎となる八王子千人同心と言われる幕府の警護隊を築き、近代日本へと向かう日本の中、武士の魂を守る組織の礎となっていく。
千人同心は家康にも可愛がられ、家康の死後、日光に亡骸を運んだのは千人同心と言われており、日光の家康の墓周囲には武田菱がぐるりと囲まれている。
家康の出自に関する様々な逸話と合いまり、大いなるロマンに包まれるこの時代。
 
運命に翻弄されながらまだ見ぬ(信忠と松姫は一度も会ったことがないといわれている)許婚を一途に思い、生涯をかけて愛し合った信忠と松姫に興味を持ち、周辺古事を調べていこうと思っています。
 
ご覧になった皆様の中に詳しい方が居て、情報を頂ければ嬉しいです。
上記メールアドレスまでお願い致します。
 
2012/2/5
新府城址まで行ってきました。
新府城は信長の猛攻に備え勝頼公が作ったものでしたが、大軍の前に戦わず焼き払われた悲運の城です。
韮崎市、七里岩の南端に位置しこの辺りは道幅も狭く甲府への最後の砦でした。
小高い丘の上(251段の階段がありました)に有り、多くの鉄砲櫓を構える篭城の為の城と言った様相でした。
然しながら、長篠の戦で多くの有力な武将を失った勝頼には既に迎え撃つ力さえなかったのです。
信玄の生前、信長の侵攻を予測していた信玄は勝頼に府中での決戦を指示していましたが、既に力を失った武田軍と長篠の大敗を避けられなかった勝頼には信玄の教えを実行する力はありませんでした。
城址からは八ヶ岳、南アルプスの眺望が良く、武田宗家の始まりの地と言われる韮崎市。
勝頼公がこの地に城をどうしても構えたかった意図が見えるような気がしました。
生まれ育った諏訪からも美しい八ヶ岳が見えた事でしょう。
 
 
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本丸跡地には勝頼公以下14将の石碑が立っていました。勝頼に最後まで同行し、終焉の地田野で片手千人切りと言われた土屋昌恒の石碑も並んでいました。

水槽の花

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趣味で小さな水槽作ってます。
ずーっと60センチ水槽を作って、ネオンテトラから始まって、さまざまな魚飼っていたのですが、最近は、小さな水槽でAnナナの花を見るためにこつこつやってました。作り初めてから4ヶ月ほどした時に写真のような花を見ることが出来ました♪水芭蕉みたいで綺麗でしょ?
無事目的は達成されたのですが、、、、今では水槽の半分程をナナが占めるほど大きくなっております。/(-_-)ヽコマッタ
無計画に植えすぎた人→(-ω-;)ダッテイッパイウエレバハナガサクトオモッタンダモン・・・

今はナナだらけの水槽にフライングフォックスとモーリー一匹(増えるの嫌なので)
ちょっと寂しいけど、しばらくはこれで我慢です。

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車買う事にしました〜☆-(ノ゚Д゚)八(゚Д゚ )ノイエーイ(と言っても中古車ですが

俺も奥さんも趣味が似ていて。。。スポーツカー好き。。
子供3人いるのにも拘わらず、スカイラインです。∵ゞ(≧ε≦o)ぶっ
しかもローダウン仕様!クイックシフト、HKSオイルクーラー&インタークーラー付の2.5GTS−T TYPE−Mです。
走行距離なんと!15000キロ!
10年物なのに・・・( ̄  ̄;) ホントカナ・・・
来月納車ですが今から写真とにらめっこしてます♪

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