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Yahoo!ブログ最期の日

2019年8月31日――。
巨大隕石の衝突により消滅するYahoo!ブログ星から、他の惑星へ移住するための最後の宇宙船が飛び立とうとしていた。

ヤフー連邦政府によって用意された移住先は4惑星。ある者はアメブロ星へ、ある者はライブドア星へ、そしてまたある者ははてな星、シーサー星へ。
連邦政府の決定に不信感を持つ一部の住人たちは、FC2星政府が独自に用意した船に迎えられ出発した。
あるいはどこへも移住せず、最後までYahoo!ブログ星と添い遂げようとする者もいた。

みな生まれ育った星に別れを惜しみつつ、移住する者たちは新天地での生活に心を新たに旅立っていくのであった…。



14年間の長きにわたるご愛読、ありがとうございます。
これからもよろしくお願いします。

移転先:
ブログの引っ越し作業が完了した。新ブログは以下のURLとなる。


ただヤフブロでの新規記事やコメントの投稿は今月いっぱいは可能なので、それまでは引き続きこちらをメインとしていきたい。
9月1日から新ブログへ正式移行する予定。

FC2の運営元にはあまり良いイメージを持っていないながらも、引っ越し先として選んだ理由は以前に書いた通り。

思ったよりも手続きはスムーズで、作業自体は15分程度で終わった。
引っ越し完了には数日かかるとの案内があったが、自分の場合は半日もせずに完了の通知メールが届いた。



参考までにFC2ブログへの引っ越しにあたっては、主に以下のような流れとなる。

1. まずは以下にアクセス

2. FC2ブログを新規開設。その際に設定するIDとパスワードが後ほど必要になる

3. ヤフブロ側で、ブログ設定>レイアウト設定>「パターン1」に設定
        背景の変更>前面・背面とも「グレー」に設定

4. こちらのページにアクセス。
「Yahooブログ」を選択し、ヤフーのユーザID(当ブログならjinne_lou)を入力
先ほど設定したFC2ブログのIDおよびパスワードを入力

5. 確認画面を経て、提示されたコードをヤフブロ設定画面から「ブログ紹介文」に貼り付けたうえで、引っ越しを実行。完了通知を待つ


参考記事:
8/14(水) BuzzFeed JAPAN


東浩紀がどういう人間かがよく分かる。

常に「あいつはダメだけどこいつもダメだ」的な中立を装った空疎な言説で現状を傍観・追認し、個人の自由や尊厳を守ろうと闘う側に冷や水を浴びせかける。
現状を批判しているかのようなポーズをとりながら、世の中の大勢に棹差して権力に加担する。そういう人間だ(余談ながら、最近もてはやされている古市憲寿や三浦瑠麗もこの系譜に属するだろう)。
今回の企画展で東がアドバイザーに選定されたのも、主催者側がそんな彼の「ポーズ」に騙されたことが少なからず影響していると思う。

「『表現の自由』vs『検閲とテロ』という構図は、津田さんと大村知事が作り出した偽の問題だと考えています」という言い分は、今回の展示を中止に追い込んだ、あるいは中止を喜ぶ側が主張する「これは表現の自由の問題ではない」とする論理そのままである。

「(展示は)日本の市民には特定のイデオロギーやプロパガンダに賛同する党派性のように見える」とする言い分は、権力側が振りかざす特定のイデオロギーやプロパガンダに賛同して展示を中止に追い込んだ側の党派性は問題にしない、ダブルスタンダードそのものである。

それは「日本の市民」一般が共有するイデオロギーなのか。「日本の市民」がそうしたイデオロギーを持っていれば、それによって個人の表現活動が制限されることは問題ないのか。そうした疑問に、彼はどう答えるのか。

事態はシンプルだ。
個人の表現活動が、それを快く思わない側によって公開の場を奪われた。

だが、これがそのままシンプルに語られると、彼らにとって反論しづらい。
近代的価値観として人々に広く共有され、日本国憲法でも保障された「表現の自由」が侵害された事件ということになってしまうからだ。

そうした不都合な事態をなんとか隠蔽しようとする理屈が、さまざまに形を変えた「これは表現の自由の問題ではない」という言説として流通しているわけだ。
表現の自由が狭められていく過程は「これは表現の自由の問題ではない」とする論理で敷き詰められているのだと思う。

〈権威主義的性格の人間は、権威をたたえ、それに服従しようとする。しかし同時に彼は自ら権威であろうと願い、他のものを服従させたいと願っている〉

〈権威主義者にとって、すべての存在は「力を持つもの」と「力を持たないもの」の二つに分かれる。力は、それが力であるという理由によって、彼を夢中にする〉

〈権威主義者は、人間の自由を束縛するものを愛する。彼は宿命に服従することを好む〉

〈権威主義者は過去を崇拝する。創造の奇跡(創造はつねに奇跡なのであるが)は、彼の感情的経験を超えている〉

〈権威主義者のもつ「勇気」とは、本質的に宿命や指導者などが決定したことがらを「耐えしのぶ」勇気である。耐えるということ、これが彼の最高の美徳である〉

〈近代社会において個人が自動機械となったことは、一般の人びとの無力と不安を増大した。そのため彼は、彼に安定を与え、疑いから救ってくれるような新しい権威に、たやすく従属しようとしている〉

〈あらゆる権威主義的組織に対する勝利は、デモクラシーが後退することなく攻撃にでて、かつて自由のために戦い続けた人びとが心のうちに抱いていたような目標を、現実化するところまで前進するときにのみ可能である〉

〈デモクラシーは、人間精神のなしうる一つの最強の信念、「自由に対する信念」を人びとに沁み込ませることができるときにのみ、ニヒリズムの力に打ち勝つことができるだろう〉

エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』より

8/3(土) 朝日新聞デジタル

先日観た映画『主戦場』でインタビューに答えていたテキサス親父ことトニー・マラーノは、グレンデール市に設置された少女像に関して「米国では、ブサイクな女との情事の際は紙袋を相手の頭に被せろというジョークがある。像を訪れた時、私は紙袋を持参した。この醜いゴミの頭には、紙袋がお似合いだからだ」という主旨の発言をしていた。

この記事にある「少女像の頭部に紙袋をかぶせる男性」の意図も、そういうことなんだろう。この一件の根底には、度し難い女性差別もあると思っている。


「内地から来た妓はだいたい娼妓、芸妓、女給などの経歴のある20から27、8の妓が多かったのにくらべて、半島から来たものは前歴もなく、年齢も18、9の若い妓が多かった」(山田清吉『武漢兵站』/1978年 図書出版社)。


山田は当時の慰安所で慰安係長をしていた軍医の一人である。「前歴もなく」というのは遊郭などで働いていたプロではないという意味で、若くて性病を持っていない女性が求められたためだという。その多くは日本軍の意を受けた業者から「工場で働ける」などと騙されて連行されてきた貧しい農村出身の少女たちだった。未成年者を売春業に従事させたり身柄を売買したりすることは反倫理的であるだけでなく、当時の国際条約にも違反している

少女像が「プロパガンダ」だと主張する人は、上記の事実についてどう説明するのだろうか。彼女らがカネのために自ら進んで1日に何人もの兵士を相手にしていたと思うのだろうか。後世に記憶されるべき苦難を、彼女らが全く味わわなかったと主張するのだろうか。

感情論ではなく、事実関係を踏まえた論理的な説明を聞いてみたいと思う。
8/2(金) HUFFPOST


ただ静かに座っているだけの少女の像を見て「傷ついた」という人がいるらしい。自分には到底理解が及ばないが、いろんな感性の人がいて当たり前だろう。

慰安婦として壮絶な苦難を強いられたわけでもない、あるいは慰安婦を蹂躙したとして指弾されたわけでもないあなたが、どうして「傷つく」のか? その理由を論理的に語ってもらいたいと思う。

表現の自由とは、その内容に関わらず保証されるからこそ「自由」と呼べるのだと思う。内容によって権力から許可されない表現があるのなら、そこに自由はない。(少女像が表現として不穏当だとは全く思わないが)

かつてこの作品が撤去に追い込まれた事実について考えようという、メタな趣旨での展示でさえ許さないという考え方は異常である。

政治権力があからさまに介入して、表現行為をやめさせようとする。市民の大多数はそれに抗議するどころか加勢して、個人の表現を圧殺することに加担する。スゴイ時代になったものだ。日本スゴイ。

「表現の不自由展」のテーマそのものが、図らずも浮き彫りになった一件である。

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